7話 悪夢の予兆
最近の桜はいつにも増してひきこもりがちのように思える。少し前までなら妖退治のため出掛けることも少なくなかったが、今では屋敷の外に出ることはまずない。
妖退治は流紀や式、今では大分減った藤咲家に与する他の妖退治屋に任せきりだ。
元々あった出不精な性質がさらに悪化したのは、単純に有能な人手が増えたのが原因か。
流紀の一件が解決したすぐ後に、集められた大量の落ち葉を使って新たな式が作られた。
真砂以外の面々が初めて見る式誕生の瞬間を興味深げに見守り、そうして生まれたのが――。
「桜様、お部屋の片付けが終わりました」
生い茂る葉と同じ色をした髪を一つにして結った優男。鈴懸と霞によって名付けられた彼は、翡翠の瞳を穏やかに細めて桜を見ている。
鈴懸は別名、プラタナスといい、ギリシア語で「広い」を意味する言葉を語源にしているという話は、霞から聞いたものだ。何故か、霞は植物に関する知識がやたらと豊富なのだ。
物腰柔らかな鈴懸はよく働き、今では桜の身の回りの世話のほとんどを彼が行っている。楽ができていい、と真砂が言っていたのを思い出し、口元を緩める。
「なに、一人で笑っているんだ?」
声をかけられ、部屋の隅で昼寝をしていた流紀は視線を上に向ける。
覗き込んでくる炎の瞳に「なんでもない」と返す。特に気にしたふうもなく頷いた焔は自然な流れで腰を落とす。
居候生活を本格的に始めてこの方、焔と一緒にいることが増えた気がする。何故か、やたらと馬が合うのだ。
「鈴懸には、さくと呼ばせないんだな」
真砂も焔も「桜」とは呼ばないで「さく」と呼んでいる。流紀もまた、彼らに倣って「さく」と呼んでいる。
ふと口をついた疑問に、焔は目をわずかに細めて、庭の方へ目を向ける。ここからは見えないが、今の時間は霞と真砂が術の特訓をしているはずだ。
「元々、さくは自分の名前を好いていない。桜と呼べば、いつも不快そうな顔を見せていた」
だからいつしか、「さく」と呼ぶようになった。
本人は理由を語ろうとはせず、名前の由来が関わっているという話を聞いたのは真砂からだ。
「今はそれほど嫌ってはいないんだろう、誰かさんのお陰で」
その誰かは焔の目が示した先にいる。いちいち聞かなくても、流紀にも分かる。
桜自身が嫌う名前を真っ向から褒めることは真砂にだってできなかった。
ただ真っ直ぐに、純粋な思いだけを込めた褒め言葉に少しずつ絆されていく桜。その姿を嬉しそうに見ていた真砂と同じように、焔の中にあるのはおそらく喜びだ。
いつか、焔自身も「桜」と呼べる日が来るのだろうか。
「お前は知っているのか? さくがあまり外に出ない理由」
これもまた何気ない問いかけだった。単純な興味本位で口にした言葉に、流紀の銀毛が危機を訴えるように逆立つ。
焔の身体から立ちのぼる殺気。基本的に感情の起伏が穏やかな焔が見せた激情に、流紀は戸惑いを隠せない。
「……すまない」
「いや」
すぐに殺気を消して謝罪する焔を前に、この話題は二度と口にしないと心に決める。
そういえば以前、真砂に似たような問いかけをしたとき、彼も似たような反応を見せていた。ポジティブな感情しか見たことがなかったこともあって、今以上に驚いた記憶がある。
桜が外に出ない理由。そこには二人を殺気立たせる何かがあるのだ。
確信を得ていても、踏み込むことはできなかった。踏み込んではいけないのだと、式二人の態度が物語っていた。
桜は自分を救ってくれた恩人だ。流紀ができることならば、なんだって力になりたい。
「さくちゃん、入るよー」
悶々と考え込む流紀の耳に、そんな明るい声が滑り込んでいた。
焔が残した殺気をすべて払拭するような声の主は、桜の了承を得るより先に戸を開いてみせた。
姿を現したのは、庭で鍛錬をしていたはずの人物である。戸を開け、得意げに笑う真砂に続いて部屋に踏み入れた霞の持ち物に、流紀は目を丸くした。
霞が持つお盆の腕には一人用の土鍋が乗せられている。食欲をそそる匂いが、人より優れた流紀の嗅覚をくすぐる。
「じゃーん、かすみんと二人で作った特製お粥だよ。超力作、かすみんは意外と料理上手だよね」
「術の訓練をしてたんじゃないのか」
「ふふーん、実はこっそり料理してたりして。最近のさくちゃん、食欲がないみたいだったから。これなら食べられるかなーって。かすみんの提案だよ。ちなみに指導者は僕」
自分の功績を隠す気もない真砂の言葉に、流紀はさらに目を丸くする。
桜の食欲がないことなど、全然気づかなかった。言われみれば、最近の桜は食事を残すことが多かったように思う。
ただ桜は元々食が細く、食事を残すことはそれほど珍しいことではない。読書に集中して一切食べない日もあるくらいだ。
気付けたのは、誰よりも桜と長い付き合いの真砂と霞の愛の力のお陰か。
「どう? 食べられそうかな」
不安げな霞の視線を受けた桜は「いただきます」と小さく返す。
だしと卵だけを入れたシンプルなお粥だ。そっと口に入れれば、温かさを感じさせる味が広がる。
柔らかく広がっていく味に零れるのは笑みで、それを見た霞の顔を彩ったのもまた笑みだ。
「おいしいです」
「よかった」
安堵を全身で現した霞に、笑みを深めた桜はそっと自分のお腹に触れる。
真砂や霞が指摘した通り、ここ最近の桜は体調の優れない日が続いていた。その理由もなんとなく察している。
何気ない桜の仕草を見逃さなかった真砂は小さく息を呑み、やがて隠しきれない笑みを零した。
幸せだと思う。ずっと、永遠にこの幸せが続いてほしいと。
桜が何も考えず、笑っていられる日々が続いてほしいという真砂の願いは、ひどく残酷な形で破られることになる。
数日後、桜の妊娠が明らかになり、式三人と居候二人は幸福の絶頂を味わった。
中でも霞の喜びようはかなりのもので、涙さえ浮かべてみせた。
歓喜を露わにする面々を一人静かに眺める桜の表情に、うすら寒いものを感じて真砂は嫌な気配を感じた。その答えを得られたのは、それからもう少し時間が経った日だった。
少しずつ大きなるお腹と共に大きくなる幸福感。満たされた時を味わう藤咲家に、一枚の手紙が残されたていた。
『少し出掛けてきます。 藤咲桜』
そんな簡潔な言葉を残して、桜はたった一人で出掛けていった。
式の核を宿した小瓶すらも置き去りに、たった一人で――。