6話 流紀になった日
藤咲家の居候が二人に増えた。
霞の言う心当たりは武藤家を去る間際に回収し、儀式も滞りなく無事に終了になった。
依代となったのは白猫の人形で、霞の先祖が飼っていた猫に由来したものらしい。
「りゅーちゃんは今日もいい毛並みしてるねぇ。ほらほら、僕に撫でさせてごらん」
「真砂……。や、やめろ。それ以上近付くな、ってうわっ、やめろー!」
傷もすっかり塞がったリュキを捕まえた真砂は、その銀色の毛を欲望のままに撫でまわす。触れた掌から伝わる極上の感触に、真砂の心は完全に奪われている。
このもふもふ具合。何度味わっても堪らない。抱きしめれば温かくて、それがまた真砂の幸福感を増幅させる。
「二人して何をやっているのですか」
「りゅーちゃんと交友を深めてるんだよ。もふもふであったかくて気持ちいいよ。さくちゃんも触ってみる?」
「やめてくれ。真砂も、交友を深めるなら他にも方法があるだろ」
抗議は聞こえないふりをして真砂はリュキを抱いたまま撫で続ける。リュキも無理矢理に逃げようとはせず、されるがままにされている。
「そういえば、あの時のかすみん。いつもと全然、雰囲気が違ったよね。何もないところから竹刀が出てくるし、びっくりしたよ」
今の今まで触れてこなかった武藤家の出来事を話題にのぼらせたのは傍に霞がいないからだ。
あの時のことについて、霞自身はいまいち覚えていないらしいことは世間話の中から調査済みだ。ただ必死で気がついたら周りに男たちが倒れていたと。
「あの竹刀はおそらく龍刀でしょう。最強の妖退治屋が作り出したと言われる妖具です」
「……最強の妖退治屋。さくのことじゃないのか」
「当代一ではあるけど、最強さんには遠く及ばないってところかな」
「さくよりも強い奴がいるのか」
まったくもって想像できないと言うリュキに真砂も強く同意する。最強の妖退治屋とやらが生きていたのは数百年以上も昔の話で、どれだけ強かったのかは真砂にだって分からない。
化け物じみた実力を持つ桜を越えられる人間など果たしているのか。
いや。
「最強さんは神様になったんだよねー。……あ、そっか。かすみんは龍王の宿主だもんね」
使用者の意思に応える刀――龍刀の創造主である人物は現在、龍王と名乗っている。万物を紡ぐ力と万物を見る力を持つとされる出来損ないの神だ。
そして、霞はその龍王の宿主だ。龍刀が扱えたのも、人が変わったように見えたのも、龍王の力の影響なのだろう。
「龍王は武藤家の守り神でもあるんだよね。僕としてはさくちゃんの望みが叶えられたら満足だけど、武藤家の人にはちょっと申し訳ないことしちゃったな」
口ではそう言いつつも真砂の中に罪悪感は少しもない。
桜にとっても、霞にとっても、今が一番いい形なのだという強い確信もある。
だから、仮に武藤家の者が霞を取り返そうと躍起になってとしても、真砂は全力を尽くして阻止するつもりだ。
「これでりゅーちゃんのことも片付いたら一件落着になるんだけど、いつ話してくれるのかな~なんて」
「うっ、いや、あれだ。話す気はあるにはあるんだが、ほら、いろいろあっただろ? だから、話すタイミングを見失ったというか」
あれだけはっきりと「話す」宣言したはいいものの、話さないまま結構な月日が流れてしまっている。
しどろもどろになりながら言い訳がましい言葉を並べるリュキを黒曜石の瞳が静かに射抜く。
「では、今から話すということで問題ありませんね。真砂、霞を呼んできてください」
「りょーかい」
当事者であるリュキを置き去りに、真砂は庭掃除をしている霞を呼びに部屋を出ていく。二人を待つ間、リュキは静かに覚悟を決めるのだった。
間もなく戻ってきた真砂は藍色の髪についた枯葉の屑を丁寧に取り除きつつ、「ただいまー」と溌溂に帰還を告げる。
「咲蘿、枯葉はちゃんと纏めて置いといたよ」
「ありがとうございます。霞、こちらに」
言われるがままに霞は桜の横に用意された座布団に腰を下ろす。
真砂は桜の前に座り、当然のようにリュキを抱きしめる。そんな真砂の行動につっこむ者は一人としておらず、リュキはついに諦念に身を任させることに決めた。
これはこれで悪くないと思い始めている自分に「絆されるな」と文句を言ってやりたい気分になりながら。
「私は青ノ幹部の娘だ」
三人、そして実体化はしていなくても話は聞いているであろう焔を前にしてリュキは口を開いた。
妖界は八つの国に分かれている。国といっても人間界でいう国とは意味合いが異なり、都市といった方が言葉的には正しいだろう。
そして八つの国にはそれぞれ幹部、言わば領主が存在する。その八人いる中の一人がリュキの実の父親なのである。
中心都市である金ノ国に次いで広大な領地を持つ青ノ国を治める存在こそがリュキの父、青ノ幹部なのだ。
さすが妖退治屋なだけあって桜は妖界の仕組みをある程度知っているらしく、リュキの言葉に眉根を少し動かした。何も知らない霞に対しては真砂が簡単な解説を行っている。
話すのが得意ではないリュキとしては説明が省けて大助かりだ。
「と言っても、私は娼婦との間に生まれた不義の子だがな」
リュキは自嘲気味な表情を見せる。
妖時間で言えばほんの数年前までリュキは父親のことなど知らなかった。母と二人、貧民街で、貧しいけれども幸せな日々を送っていた。
いつまでも続くと思っていた平穏な幸福は、父の使いという男によってあっさり奪われた。
男は、リュキを迎えに来たと言った。
幹部の娘が貧民街で暮らしているのは体裁が悪い。父の力を継いでいたリュキの存在が明らかになるよりも先に、自分の目の届くところに置いておこうとでも思ったのだろう。
そうしてリュキは父が住まう館で暮らすこととなった。貧民街育ちで、不義の子であるリュキに対する周囲の対応はお世辞にもいいものではなかった。けれど、あそこでの暮らしが悪いことばかりだったとも言えない。
――姉様。
今も鮮明に思い出されるのは腹違いの妹の姿だ。ただ真っ直ぐに、純真に、その藍白の瞳をリュキへと向けてきた少女。
彼女と仲良くするリュキのことを父が快く思っていないことは知っていた。だから、この結末だって予想できた。
「助けられたあの日、父の部下が私の部屋に侵入してきた。拉致して始末するつもりだったんだろうな。気付いた私はすぐに逃げ出した。が、相手も無能じゃない。すぐに追いつかれてな」
それでも何とか、人間界へ逃げ延びた。貧民街にいた頃から気紛れに人間界を訪れていたリュキは地の利を利用して、部下を撒くことに成功した。
そうして“はじまりの森”に身を隠したはいいものの、深手を負っていたリュキはそこで力尽きたのであった。
「父の部下はまだ私を探している」
リュキが死んだと分かるまで、あの男は決して諦めない。
妹のことを思う。きっと彼女は何も知らされないまま、父の描いた道を歩まされるのだろう。
父からの寵愛を受けた、愛らしく憐れな少女。願わくば、彼女が幸福な日々を過ごせるように。
瞑目し、すぐに目を開いたリュキは胸中に沸き起こる感傷を消し去る。
「その部下さんをどうにかしないといけないってことか」
〈一度相手した感じじゃ、相当の手練れのようだったな〉
自分たちには関係ないと突っぱねる素振りすら見せない式二人の会話。
「どんな相手だとしても、さくちゃんの敵じゃないよ。ね、そうでしょ?」
「そうですね」
どうやら式二人の中では、桜がその部下とやらを倒すことが決定事項のようだ。桜が断るわけがないのは分かっていて、倒せないわけがないと信じている。
二人の知る限り、桜が倒せない妖はこの世に一人しかいない。
「いい、のか。青ノ幹部を敵に回すことになるんだぞ」
「貴方はもうこの家の一員です。小間使いが抱えている問題の一つや二つ、簡単に解決してみます」
「……っ」
青ノ幹部の娘として過ごしていた間、リュキに居場所などなかった。母に会いに行くことは許されず、唯一の憩いであった妹と仲良くすることを父は快く思わない。
窮屈で、息苦しくてたまらなくて、すごく寂しかった。強がって平気なふりを貫いていたけれど、心はいつも震えていて、常に果てしない孤独感に苛まれていた。
当然のように紡がれた桜の言葉にリュキがどれだけ救われたのか、きっと彼女は気付かない。
それでいい。自分の感情にも、他人の感情にも疎い桜という人間が、リュキはどこまでも好ましいと思うのだ。
「それじゃ、さっそく作戦会議と行こうか」
小間使いその二であるところの霞の言葉により、改めて作戦会議が始める。
温かさに包まれたこの居場所を、居場所を与えてくれた仲間たちを、なんとしてでも守ろう。
リュキは、固く決意をした。
彼女たちから貰ったたくさんの恩をすべて返しきったその日には、この場所から立ち去ろう、と。
こんな温かい場所は、リュキにはもったいなさすぎる。
●●●
「……しかし、これに何の意味があるんだ?」
“はじまりの森”の近くでちまちまと落ち葉を拾い集めていたリュキの問いかけだ。猫の姿のままなので非常に効率が悪い。
本性に戻ればいいのにという思いでそれを眺めていた焔は「さてな」と肩をすくめる。これはこれで見ていて面白いので、眺めるだけに留めている。
「大体の予想はつくが」
「なんだ?」
「大方、新しい式を作ろうとしているんだろう」
怪訝そうな表情で焔を見上げていた顔に更なる疑問符が浮かぶのを見て言葉を続ける。
「私という存在は、媒介である炎とさくの霊力によって作られている。大量の炎を霊力で一つに合わせて、私という個体となるように術式を組んだと言ったとこだな」
「つまり、次の式は落ち葉を媒介にして作るというわけか」
なんとも、エコな話である。
焔は大火事に見舞われた家の近くを通りかかったことにより作られたという話を聞いたことがある。さしもの真砂も、これには驚いたという。
予想だにしなかった自分の誕生秘話を聞かされた焔も苦笑を禁じ得なかった。
「二人とも、たくさん集まったよ」
話し込んでいる二人を他所に落ち葉拾いに勤しんでいた霞が、いっぱいになった袋を見せびらかす。
彼は、桜の頼み事であればどんなことでも楽しそうに行う。幸福に満ちた表情を隠そうともしない顔は焔にとっても好ましい。
誰よりも桜を思う同胞が、彼に入れ込んでいるのも理解できるほどに。
「お前はさくのこと、どう思っているんだ?」
「好きだよ」
何気ない焔の問いかけに霞は即答で答える。
予想はしていたとはいえ、こうもあっさり返答されるといっそ清々しいものがある。霞の中では迷う必要もない質問なのだろう。
「二人はどう思っているんだい?」
まさか聞き返されるとは思っていなかった焔は、足元に座るリュキとともに目を丸くする。
最初に答えたのは焔だ。
「一言で言うなら、世話の焼ける奴だな。まあ、世話を焼いているのは真砂なんだが」
思えば、この世に生を受けてからこの方、一度として桜について考えたことはなかった。
桜は主で、自分は彼女によって作られた存在。ただそれだけで十分だったから。傍にいることは当たり前で、それ以上のことを考えることは必要なかった。
「私はさくを好ましいと思っているよ。この感情が式として組み込まれたものだとしても、受け入れられるくらいには」
式は主に絶対服従。逆らえないように術式を組まれて作られる。
それは焔や真砂とて例外ではなく、それでも構わないと思う気持ちは術式とは関係ないものだと信じたいとも思う。
選ぶように言葉を紡いだ焔の言葉を受けて、霞はリュキの方に視線を向ける。
「……私は」
次は自分の番だと口を開いたリュキは逡巡ののち、静かに口を噤む。
リュキは桜について多く語れるほどの付き合いはない。だからこそ、言葉に迷う。
「感謝はしているよ」
桜のことも、霞のことも感謝している。二人がいなければ、リュキは今頃こうして生きていなかった。
そして何より、リュキは桜に心を救われた。藤咲家の一員だと彼女に言われたあの瞬間、リュキに与えられた目頭が熱くなるほどの感動は忘れもしない。
彼女は命の恩人であり、心の恩人でもあった。
考えれば考えるほどに言葉に迷う。拙いリュキの言葉では、桜に対する感謝の念をひとつとして伝えきれない。
好きとも、好ましいとも、言えないもどかしさを感じて黙り続けるリュキはある気配を感じて顔を上げる。
銀色の毛を撫でつけるのは見知った空気だ。リュキは曇らせた表情に緊張感を宿らせる。
「行くか」
「ああ」
短い言葉に、短い返答を返したリュキの身体が光に包まれる。
銀色の猫だった身体が形を変え、数秒も経たないうちに一人の少女が姿を現す。癖のある銀の髪を無造作に伸ばし、雪女を彷彿とさせる衣装を纏った少女だ。
険しさを纏った藍白の瞳と、静かな炎の瞳が交差する。
無言で互いの意思を確認し合った二人は、そのまま森の中へ足を踏み入れる。
「気をつけて行ってきてね」
大量の落ち葉が入った袋を抱えた霞は、リュキと焔を見送る。二人の姿が見えなくなったところで、霞は落ち葉拾いを再開する。
今回の作戦で、霞の役目は一つとしてない。そのことに不満も不安もなく、ただ真っ直ぐに信じて待つだけだ。
「わ、すっごく集まったね。いやぁ、かすみんが優秀で助かるよ。さくちゃんもそう思うでしょ?」
「そうですね」
たった一言だけの肯定に心が満たされながら、声の主に目を向ける。
立っているのは大和撫子を体現したような少女だ。黒曜石の切り取ったような瞳が霞と、彼の持つ袋を 興味津々に見る真砂を順繰りに見る。そうして、薄紅色の唇が開かれた。
「真砂、霞をお願いします」
「了解! もっとたくさん落ち葉を集めて待ってるよ。さくちゃんも気をつけてね。二人をよろしく」
静かに頷いた桜もまた、森の中へ足を踏み入れた。
肌を撫でる気配だけを頼りに、リュキは雑草が生い茂る道を進んでいく。自然のままに残された道を歩くには似合わない服装にもかかわらず、その歩みは慣れたものを感じさせる。
やがて目当ての人物を見つけ、藍白の瞳を細めると同時に近場の木に身を潜めた。
リュキ以上に、森道に不釣り合いな服を纏った男性だ。高級な布で仕立てられた服は土で汚れており、少しだけ小気味のいい気分になる。見るからに歩き慣れていない仕草だ。
「焔」
背後に立つ人物が頷いて答えるのを確認し、リュキは木から飛び出す。
整った顔立ちに微かな嘲笑を宿らせ、「久しぶりだな」と呟いた。
自分から姿を現すとは考えていなかったらしい男性は驚きを顔に宿らせ、すぐに険しいものに変える。
「観念したということですか」
「さてな」
短く返したリュキは、男が術の構築に映ったのを見て取り、回避行動を取る。秒もかからず発射された水の槍を避けつつ、焔のいる場所へと男を誘導する。
すべてを話したリュキは自分の力で、男を倒したいと申し出た。
桜の力を借りれば、確かに問題は解決する。けれど、桜に頼りきりにしてしまうことをリュキの心が許さなかった。
これはリュキの問題。リュキ自身が、リュキ自身の力で解決するのがベストな答えなのだ。
了承する代わりに桜は焔を差し出した。――彼女ならば、リュキの力になると。
「……っ」
リュキの頬を掠めて、炎の渦が駆け巡った。微かに触れた頬に残る熱に顔をしかめて、攻撃主を睨む。
「悪い。少し座標を誤った」
「危うく丸焦げになるところだったぞ」
軽い謝罪を口にする焔に文句を投げつけつつ、炎の行く先へと視線を向ける。
手加減なしの炎攻撃は、水の盾によって防がれている。ただ消耗した妖力は少なくないようで、男は疲労の色を顔に滲ませる。
「疲れているようだが、大丈夫か?」
「気遣う余裕が貴方がたにおありで? 低俗な者の術など私には痛くも痒くもない!」
明らかな強がりを口にした男を守る水の盾から無数の槍が放たれる。
襲い掛かる水の槍たちを前に二人は目配せ一つして、左右に避ける。焔は避けた先に作られた氷の踏み台を利用して急速な方向転換を行う。
「なっ」
炎に変換された拳が水の盾に突き刺さり、驚く男の隙をついてリュキが背後に回り込む。
リュキの手に握られているのは氷の薙刀だ。鋭い一撃が男の背中に突き刺さる。
苦悶の声をあげる男が宙に生成した水の槍を、後ろに下がって避ける。
「下民ごときに、この私が……っ」
怒りを宿した妖力が揺らぎ、青い光が森の中を満たし始める。
青い光はやがて収束し、眩い光線を放つ。圧縮された妖力がもたらす破壊力を身を屈めることでなんとか避ける。
周囲のことなど考えもしない破壊力によって倒された木々が、身を低くしたリュキを襲う。
「リュキ……っ!」
焦りを滲ませた声を最後に焔の姿が消える。と共に生まれた大量の炎の塊が周囲の木々の一切を燃やし尽くす。
環境破壊などの笑うこともできない勢いで燃える炎を呆然と見届けたリュキは、徐々に笑みを浮かべる。それは苦笑を混ぜ込んだ笑顔だ。
「やりすぎじゃないか……?」
「やりやすくていいだろ」
「さくに怒られても、私は知らないからな」
人間の形に戻った炎に苦言を零したリュキは溶けた薙刀を生成し直そうとしてやめる。
表情に静けさを宿したリュキの身体から寒気が立ち上る。剥き出しの足が触れる地面が音もなく凍りつき、氷の結晶が輝きながら舞い踊る。
娼婦だった母はつらら女と呼ばれる妖だった。名前の通り、氷柱が意思を持ったことで生まれた妖。
その血を受け継ぐリュキ自身もまた、氷の特性を持っていた。妖界を統べる父の血と混ざり合い、それは触れたものを凍らせる強力な力となる。
「焔」
たったそれだけの呼びかけで、焔はリュキから距離を取る。
一歩、一歩、進むたびに地面に作られるのは氷の道だ。氷はリュキの妖力を食べて成長していき、情けなくも逃げ腰な男の足を捕らえる。
足を無理矢理に引き剥がせば逃れることも可能だが、温室育ちの男にそんな度胸などありはしない。
生まれながらに持つ強い妖力に胡坐をかいて、血生臭い世界から距離を置いていたことが男の敗因だ。
「あの子は、レミはどうしている?」
「……お、お前ごときにレミ様のことを教えるわけがない!」
「……そうか。ならば用はない」
言って、氷を纏った蹴りを叩き込む。
蹴りを入れた場所から男の身体は凍りついていき、秒もたたないうちに氷像が出来上がる。唯一の無事は顔だけだ。
「帰ったらご主人様に伝えるといい」
まるで悪役のような言い方だ。苦笑の裏でそんなことを考えながら、焔はことの成り行きを見届ける。
「私はもう妖界に戻る気はない。が、私の邪魔をするというのであれば容赦はしない」
「わ、わわ分かった。伝えよう」
温室育ちの打たれ弱さを発揮した男が何度も頷いたところで、新たな闖入者が現れる。桜だ。
いつでも助太刀できるよう、ずっと近くで戦況を見守っていたのである。
まさかこのタイミングで姿を現すとは思っていなかった焔とリュキは揃って目を丸くする。
「それともう一つ、彼女は死んだと伝えてください」
言いながら桜は、唯一凍っていない男の頭に手をかざし、何かの術を発動させる。
「たばかれば、この術は貴方の魂を燃やします」
「言わない。絶対に、だ。だから、術は解いてくれ。た、頼む」
情けないくらいに声を震わせて頼み込む男を無視する桜はリュキに一瞥をくれる。
非道としか言いようがない桜の姿に苦笑と恐れを混じらせていたリュキは、我に返ったように男の動きを封じていた氷を溶かしてみせる。同時に周囲を漂わせていた寒気も引っ込める。
身体の自由が戻るやいなや、男は逃げるようにその場を去っていく。おそらく、もう青ノ幹部の部下がリュキを殺しにくることはないだろう。
それはどうしようもないほどありがたい話ではある。しかし。
「さくは怒らせたらいけないタイプだな」
「私は、さくのこういうところも気に入っているよ」
「私も嫌いではないよ」と返したリュキは、黒曜石の瞳がこちらを向いて思わず身を固くする。
そこには男に向けていた果てない冷たさなどはなく、親しいものにだけ見せる情が乗せられている。身を固くしたのは条件反射という奴だ。
リュキの反応など気に留めていないらしい桜はそっと手を差し出した。
「?」
「貴方へ、贈り物です」
一言。
桜の掌から溢れ出した霊力が宙を舞い踊り、やがて一つの形を作り出す。火の粉ようにきらきらと霊力の屑を零すそれは『流紀』という文字であった。
「紀には、人の踏み行うべき道という意味があります。流れ着いた先で、貴方自身が正しいと思う道を歩んでほしい。そういう願いを込めました」
「……桜」
「そして、貴方が選んだ道が、ここであってほしいとも思っています」
飾ることを知らない真っ直ぐな言葉に、リュキは思わず顔を俯ける。こんな顔、見られたくなかった。
目頭が熱くなり、奥底から込み上げてくるものを必死に抑え込む。震えた唇から微かな声が零れる。
恩をすべて返したら、立ち去ろう。そう思っていたリュキの心を見透かした桜の言葉。
彼女はここにいろと強制はしない。ただ希望を口にしただけだ。
なのに、こんなにも心を掻き乱され、泣きそうになっているのは、リュキの心に同じ願いが宿っているから。
もったいない。そんな言葉で終わらせる、そのこと自体がもったいない。
「私はここにいていいのか……? ずっと、お前たちの傍に……いて、いいのか」
「貴方がそう望むのであれば」
「……そうか。…っ…そうか……くっ」
堪え消えなくなった涙がいよいよ零れ落ち、地面を濡らした。
「なんだ、泣いているのか」
「っうるさいな」
気遣うような焔の軽口すら嬉しくて、また涙が零れた。こんなにも泣いたのはいつぶりだろう。
桜と焔の二人は、リュキ――流紀が泣き終わるまで、ずっと傍で見守り続けた。