5話 僕の役目
「霞はまだ戻ってきていないようですね」
準備を終えて戻ってきた桜は真砂とリュキを順繰りに見て呟いた。桜が戻ってくるまで二十分と少し。
武藤家との距離を考えると少し遅いような気もするけれど、依代の当てを探している可能性も考えるとなんとも言えない。
口数の多くない二人の代わりとでもいうように真砂が延々喋り続け、霞が戻ってくるのを待つ。しかし、一時間、二時間以上経っても姿を見せることはなかった。
「出るタイミングを逃したのかもね」
霞はいつも屋敷の者の目を盗んで藤咲家に来ている。依代を探すために戻ったのはいいものの、屋敷の者に捕まって抜け出せなくなっているのかもしれない。
この時はまだそこまで悲観的に考えていなかった。
二日、三日と霞が藤咲家を訪れない日が続き、胸に渦巻く不安感はどんどん大きくなっていく。
「……さくちゃん」
桜は何も言わず、何も行動を見せない。素知らぬ顔で普段と変わらない生活を送る主の姿を見て、真砂もどうするべきか考えあぐねている。
武藤家の事情に首を突っ込むべきではないという思いと、桜のために何かしたいという思いがせめぎ合っている。
「真砂」
「どうしたの、さくちゃん」
それは霞が藤咲家に訪れなくなってから一週間経った日のことだった。
「武藤家に行きます」
静かな声音で真砂の名を呼んだ桜はこれまた静かにそう告げた。
主の言葉を反芻し、ゆっくりと咀嚼した真砂は「そっか」と小さく呟く。薄い唇が孤を描いた。
相変わらずの鉄面皮。その裏で、霞のことを強く心配していることが真砂には分かった。
自分とそれ以外。構成するものはその二つだけだった桜の世界に訪れた変化が嬉しくて仕方がない。
〈さくちゃんはかすみんのこと好き?〉
武藤家に向かう道中、そんなことをを聞いてみた。
「そうですね。……俗にいう恋愛感情なのかもしれないと思うくらいには」
まさか返ってくるとは思わなかった真砂は、丸い瞳をさらに丸くする。その上、予想を超える言葉が返ってきて、驚きはさらに倍増だ。
桜の口から『恋愛感情』なんて言葉を聞く日がくるとは思ってもみなかった。
〈――じゃあ取り戻そう〉
絶対に失ってはならないものだ。桜の幸福だけを望む真砂は胸のうちに強い決意を宿らせる。
固く閉じられた門の前に立った桜を出迎えたのは、以前と同じ使用人だった。彼は桜の姿を見るやいなや、表情を曇らせた。
何か疚しいことがある。明らかな表情の変化は、桜たちの懸念をあっさりと肯定した。
「何の御用でしょうか。妖退治の依頼はしていないはずですが」
「結界の様子を見に来ました。中に入っても構いませんか?」
「主人から貴方を中に入れるなと言われているので」
随分とストレートな命令を下してくれたものだ。
使用人のたった一言であっさり引き下がった桜の霊力が揺らいだのを真砂は確かに目にした。基本的に霊力は不可視なものだ。ただ霊視力があるだけでは見ることのできないそれの変化に使用人は気付かない。
「また出直します」
「何度来ても同じです」
嫌悪感丸出しの使用人の声を背中で聞く桜は素直に来た道を戻る。そして、立ち止まった。
周囲に誰もいないことを確認し、武藤家の塀に触れる。息を吐き出し、跳躍。
軽々と塀を越えた桜は軽々と武藤家の敷地内に着地する。強化された身体ではあれくらいの塀、どうということはない。
「あの蔵ですね」
初めて武藤家へ訪れた時、案内された大きな蔵。
蔵周辺に満ち満ちた異様なほどの澄んだ空気。藍色の子を守るために家人が施したと思われるそれが霞の居場所を簡単に教えてくれる。
認識阻害の術を己にかければ桜の姿に気付くものもおらず、平然とした顔で武藤家の中を進んでいく。
「これは……」
〈封じの術、かな。綻びが多すぎて分かりにくいけど、間違いないね〉
中途半端な知識しか持たない者が行使した術式はやはり中途半端なものとなる。本来の効果の半分も出していない術など桜の相手にもならない。
もし仮に完璧な術式を構築していたとしても、相手になったかは分からないが。
「解除の術を使う必要がないのは助かりますね」
ただ普通に門を開けるのと同じように触れれば、かけられた術はあっさりと解かれる。
術ばかりに頼って鍵のかけられていない門は、桜の訪れを拒むこともなく受け入れたのだった。
蔵の中は簡素であり、物が溢れていた。家具は最低限、必要なものだけが置かれている。代わりにいくつもの本があちらこちらに散らばっていた。
「ご飯の時間にはまだ早いはずだけど――なんで、君がここに……。どうして」
「貴方を迎えにきました」
大きく見開かれた瞳を前に桜は当然のようにそう言った。漆黒の瞳はさらに見開かれて喜びと困惑を映し出す。
「依代の心当たりがあるのでしょう? いつまでもリュキをあのままにしておくわけには行きませんから」
〈さくちゃんってば素直じゃないねぇ〉
冷やかすような真砂の声に完全無視を決め込んだ桜は、ただ真っ直ぐに霞を見つめる。
依代など、いくらでも用意する方法はあることくらい霞にも分かっている。
素直じゃない。本当に真砂の言う通りで、簡単にばれる言葉を紡ぐ想い人の不器用さに抱きしめたいという衝動が沸き起こる。
けれども、今の霞は呪符によって身体の自由を奪われており、衝動に従うことはできない。
「ごめん。家の人に見つかって、勝手に出歩いたりしないようにって閉じ込められたんだ。自分じゃどうにもできなくて」
呪符に込められた封じの術は門にかけられていたものよりも数段強力なものだ。
いくら桜といえども、解くまでには少し時間がかかる。
「そこで何をしている!」
どうやら悠長に術式を解く時間は与えてくれないようだ。
一目で高級品と分かる衣服に身を包んだ男性が射殺さんばかりの目つきで桜を見ている。
当代の武藤家当主だろう。周囲に連れられた取り巻きたちが各々武器を構えて威嚇している。
「今すぐそこから離れれば手荒な真似はしない」
「生憎ですが、従いかねます」
「ならば仕方あるまい。やれ」
いくつもの刃が桜へと襲い掛かる。表情をぴくりとも動かさない桜本人に対して、身動きを封じされたまま想い人に危険が迫る様を見せつけられる霞が悲痛な声を上げる。
「やめろ」
欲望だけを宿した目が霞を見る。今までは何も思わなかった瞳の醜さが鮮明なまでに鮮明に映し出される。
「貴方の役目は武藤家を繁栄に導くことだ。貴方の人生が武藤家のためだけにある。この家から出ることなど許されない。貴方を誑かす者は我々の手で排除する」
「……もう、屋敷から出ない。だから、彼女には何もするな」
悲鳴をあげる心を抑えつけて、沸き起こる感情を無視して、武藤家当主を睨みつける。
何を犠牲にしたって彼女を守れるならそれでいい。この先の人生をすべて武藤家に捧げたって構わない。
抑えられなかった思いが涙となって目端から零れた。
「――霞、それは貴方が心から望んだことですか」
抵抗なく滑り込んできたのは静かで美しい声音。どんな状況でも霞の心を掻き乱して仕方がない声だ。
彼女に問いかけられて嘘なんてつけない。霞は静かに首を横に振る。
「役目など、くだらない。自分の生きる道は自分で決めるものです。たとえ、神であっても決める権利はない」
「……咲蘿」
「刃を向けたければ向けてください。私は貴方がたが思うよりもずっと強い」
「やれ!」
激昂した当主の言葉に応える刃が煌めいた。手抜きなど一切ない一撃を前にあがる霞の声を嘲笑うように甲高い音が蔵の中に響き渡った。
取り巻きたちの攻撃は全て茶色の円盤によって受け止められている。
最初は呆気にとられ、やがて霞は思い出す。桜の傍にはいつだって頼りになる存在がいることに。
「その様子だとやっぱり僕のこと忘れてみたいだね。正直、さくちゃんよりも一緒にいた自信あったのに、かすみんってばひどいよ。愛には敵わないってことだと思って納得してあげるけどさ」
「貴様、いったいどこから……?」
「話はゆっくりしようよ。僕の主とかすみんの話が終わるまでさ。こう見えて、一対多は得意なんだ」
茶色の円盤は縦横無尽に動き回り、桜と霞を守るように陣形を取る。
その裏で桜は霞と向き合っていた。いつだって揺らがない黒瞳を前にして、霞の胸は場違いにも高鳴る。
「貴方に選択肢を差し上げます」
美しい声音で紡がれたのはなんとも傲岸不遜な言葉だった。
「このままこの屋敷にいますか。それとも――私についてきますか」
「僕は咲蘿と一緒に行くよ。これから、ずっと貴方の傍にいる。傍にいたい。それが、僕が決めた僕の役目だ」
どちらを選ぶかなんて選択肢を与えられる前から決まっていた。真摯な眼差しを受けた桜は薄く笑った。
今では珍しくない桜の微笑みは、それでも思わず見惚れてしまうほどに美しい。現に霞は数秒ほど自失してしまった。
そんな霞の反応を気にもしない桜は動きを封じる呪符に触れ、眉根を寄せる。桜が術式を解除するよりも先に呪符ははらりと地面に落ちた。
「ありがとう。お陰で自由に動ける」
「いえ……」
桜の言葉を最後まで聞くより早く立ち上がった霞はゆっくりと構えを取る。何も持っていなかったはずの手に突如、竹刀が現れた。
銀色に輝く竹刀を握った霞は「見てて」と、真砂にあしらわれ続けていた取り巻きたちの前に立つ。
「かすみん、どうし……いや。援護するよ。好きに動いて」
「ありがとう」
一言だけ返した霞は戸惑う面々を前に凄まじい速さで竹刀を振るう。
体力のなさを嘆いていた霞とは思えない動きにさすがの真砂も息を呑む。呆気にとられる真砂の前でもなお、霞の猛攻は止まらない。
銀色の残滓が線を描き、援護すると言った真砂が何もできないまま見守っているうちに取り巻きたちは全て倒れ伏している。
数十秒のうちに五人もの人間を昏倒させた霞はそのままの姿勢で武藤家当主と向き合う。
「今までお世話になりました。僕は彼女、咲蘿と一緒に行きます」
「役目を放棄するのか……?」
「放棄しません。ただ、僕の役目は武藤家を繁栄に導くことではないだけです。……最初から」
はっきりと告げた霞はくるりと桜の方を向き直る。この頃にはすでに霞の手から竹刀は消えていた。
武藤家に対しての決別を示した霞は心からの笑みで顔を彩る。
「では、戻りましょうか。私たちの家に」