4話 捨てた名前
桜が藤咲家当主となってはや二ヶ月。当主としての業務のほとんどは以前通り菖蒲が行っており、桜は今まで通りに妖退治にのみを行っていた。
桜は政治的な部分に非常に疎く、これが適材適所と言えるだろう。
そして、霞はというと一人前に術を扱えるようになっていた。攻撃系の術が使えないのは相変わらずだが。
桜の診断によると、霞の霊力は攻撃系の術を相性が悪いらしい。それもかなり。
霞らしいと仄かに笑っていた桜を思い浮かべ、真砂は口元をにやつかせる。
ここ最近の桜は少し前まででは考えられないくらいに表情豊かだ。それが何よりも喜ばしい。
「なんか楽しそうだね」
「ふふーん。ちょっと、さくちゃんの笑顔を思い出しちゃってね。いやぁ、可愛かったなー。無表情だって、さくちゃんは美人だし、綺麗だけど、やっぱり笑顔は格別だよね……って、かすみん大丈夫?」
「だい、じょうぶ」
三か月間でそれなりに体力がついたとはいえ、荒れた森の中を歩くのはかなり疲れる。
今、霞たちは“はじまりの森”と呼ばれる場所にいる。RPGに出てきそうな名前の森は今もなお、自然そのままの姿で現存している。
どうしてここにいるのかと聞かれたら、妖を追いかけてと答えよう。
桜と焔の二人はさらに奥へ進んでおり、真砂は霞のお守りとして残された。
思い人よりも体力のない自分に少しだけ落ち込む霞である。
「さくちゃんは昔からここに出入りしてたからね。慣れってやつだよ」
幼い頃から藤咲家の当主になるべく、暗殺術と妖退治の術を叩き込まれた桜は意外と体力があるのだ。見た目からは全然想像できないが。
そのうえ、この森とはちょっとした縁があり、定期的に訪れていた経緯もある。
「ちょっと休憩する? 急がなくても、あの二人なら問題ない相手だろうし」
肩で息をしながらも首を横に振る霞に「そう?」と返し、真砂は少しだけ歩調を緩める。彼の歩みに合わせるように。
と。
「あ!」
疲労からか無言で歩いていた霞が急に声を上げた。
驚いてそちらを向けば、何かに駆け寄る霞の姿が映る。疲労困憊だったはずの身体のどこにそんな体力があったのだろう。
首を傾げつつ、霞の向かう方向へ目を向ける。桜を見つけたのだろうと思っていたが、どうやら違うようだ。
「真砂、これ」
呼ばれて、草むらにしゃがみ込んでいる霞に倣う。
「これは……」
さしもの真砂も言葉を失って、目の前の光景を凝視する。
草むらに隠れるようにして倒れ込んでいたのは一人の少女だった。
癖のある銀髪は肩より少し長い。土や血で汚れていることが勿体ないと感じさせるほどに均整のとれた顔立ちをしている。雪女を連想させる寒色の着物は、今は大量の血で汚れている。
瞼が微かに震え、うっすらと開かれた隙間から藍白色の瞳が覗く。
「君、大丈夫?」
自分の疲労を押しのけて、倒れる少女に話しかける姿は霞らしい。真砂は密かに笑みを浮かべる。
「っ…ぁ、に……ここ、は……きけ」
「なに?」
これ以上、言葉を紡ぐ気力がないらしい少女は浅い呼吸を繰り返すばかりだ。
ついには薄く開かれていた瞳すらも閉じられそうになる。咄嗟に霞は「ダメだ!」と声を上げる。
「君の……えと、そう。君の名前は?」
「……り、う」
「リュキちゃん? 今、手当てするから! だから死んだらダメだ」
仄かな光を纏わせた霞の手が、少女の傷口に添えられる。霞がもっとも得意としている治癒術だ。
必死の形相で治癒にあたる霞を横目に見た真砂はどうしたものかと思案する。
とりあえず霞は桜に報告しようと意識を集中させ、途中でやめた。背後に近付く気配に気付いたからである。
「さくちゃん」
妖を追って奥まで行っていた桜が戻ってきたのである。黒曜石の瞳が静かに説明を求めている。
「かすみんがこの子を見つけて、今は手当て中かな。さくちゃん達の方は?」
〈逃げられた。あの様子だと妖界に戻ってるだろうな〉
桜の手に握られたから発せられる女性の声。
妖界に戻ったというのなら問題はない。妖退治屋の役目は人間界の脅威となりうる妖を退治することだ。
脅威が遠のいたというのであれば深追いする理由はない。今までだって追っていた妖が妖界に逃げることはなんどもあった。
にもかかわらず、桜が浮かない顔を見せているのは何故だろう。
「一先ず、帰りましょう」
「彼女はどうする? このままにしておくわけにもいかないでしょ」
「連れて帰ります。少し、気になることもありますし」
「でも、妖を連れて帰ったら問題になると思うけど?」
そう、倒れていた少女は妖なのである。
霞は気付いていないようだったが、真砂には身に纏う妖気でお見通しだ。真砂が気付いているくらいなのだから桜だって気付いている。
「問題ありません。一時的に妖気を隠すことは難しくありませんし、当主の私に指図できる人間はあの家にはいません」
職権濫用。脳裏に過った言葉を静かに飲み込んだ真砂は微妙な気分で笑顔を浮かべた。
目を覚ませば、見慣れない天井が眼前に広がっている。
「っ」
状況を確認しようと身体を動かせば脇腹の辺りから激痛が走り、苦悶する。
肌の撫でる空気は妖界の慣れたものとは違って、そこで人間界に来ていたことを思い出した。上手く回らない頭で状況の整理を努める。
父親に命令されたらしい妖に襲われて命からがらに人間界まで逃げてきた。人間界に慣れていない妖を撒くのは簡単で、ようやく逃げ延びたと思ったところで力尽きたのだ。
意識を失う寸前に誰かと会話した記憶が朧気ながらに残っている。
推測するに、ここはその誰かの家なのだろう。自分は誰かに助けられたのだ。
「物好きな奴もいたものだな」
自嘲するように笑み、身体に力を入れる。駆け抜ける激痛を無視する。
助けたのが誰かは分からない。覚えていない。けれど、お人好しなことくらいは想像がつく。
そのお人好しをこれ以上、自分の都合に振り回すことだけはどうしても嫌だった。きっと、父親は自分のことを諦めてはくれないだろうから。
「まだ傷口は塞がってない。無理に動こうとするな」
タイミングを見計らったように姿を現したのは炎のような女性だった。肩より少し長い猩々緋の髪を無造作に流し、深緋の瞳は責めるようにこちらを見ている。
人でもなければ、妖でもない。そんな気配を纏った存在に眉根を寄せる。
「私はこの屋敷に住む人間の式だ。……あ、今は当主の式と名乗ればいいのか」
後半はほとんど独り言のような声量で、やはり眉根を寄せる。
式ということは、自分を助けたのは術者ということだろうか。
これで、ただ手当てをしたにしては治りが早い傷に合点がいく。おそらく治癒の術が施されているのだろう。
人間の術者と聞いて真っ先に思い浮かぶのは妖退治屋だが、妖を退治する側の人間が妖を助けるというのは想像しがたい。
自分を使役しようとしているだろうかと回らない頭で考える。曲がりなりにもあの男の血を引いている自分は、さぞいい式妖になることだろう。
「主を呼んでくる。リュキ、だったか。お前は大人しく寝て待っていろ」
「え?」
「霞……お前を助けた奴がお前の名前だと言っていたが……違ったか?」
確かに違う。自分の名前はリウカだ。
そういえば気を失う前、誰かに名乗った覚えがある。朦朧とした意識の中で答えたから聞き間違えられたのかもしれない。
「……いや。名乗った記憶がなかったから驚いただけだ」
咄嗟に紡いだ誤魔化しの言葉に気付いているのか、いないのか、女性は「そうか」とだけ返して部屋を出ていく。完全に逃げるタイミングを逃したリウカ改めリュキが大人しく待っていれば、すぐに二人の人物を連れて戻ってきた。役目を果たしたらしい炎のような女性はすぐに姿を消した。
「リュキちゃん! よかった。目が覚めて安心したよ」
真っ先に駆け寄ってきたのは藍髪の青年だ。その後ろにいるのは冷たい印象を受ける女性。
青年が向ける純粋そのものの瞳はリュキのことを心の底から案じているようだ。式妖にするためだとか、打算があるのではと少し考えてしまったことを申し訳なく思うくらいに。
「助けてもらって感謝する」
「気にしなくていいよ。倒れていた人がいたら助けるのは当然の話さ」
どうやら、というより、やはり自分を助けたのはこの青年のようだ。思えば、どこか聞き覚えのある声だ。
後ろに控えるように座った女性は、ただそこにいるだけなのに凄まじい存在感を持つ。滲み出る霊力の強さがそう感じさせているのだ。おそらく彼女こそが炎の女性の主。
「恩着せがましいことを言うようだが、傷が癒えるまでここに置いてくれるとありがたい」
あれほどの霊力の持ち主がいるのであれば、少しくらい滞在期間を延ばしても問題ない、と思いたい。リュキとしても安全に傷を癒す場所があるのならありがたい。
これ以上、迷惑をかけたくないのも事実。断られたら静かに受け入れよう。
そんな思いも込めて、炎のような女性の言葉を信じるならば当主らしい女性に藍白の瞳を向ける。
青年を動にするなら、この女性は静だ。黒曜石の瞳は冷たさすら感じさせる瞳を持ってリュキの言葉を咀嚼する。
「構いません」
どんな言葉が返ってくるか身構えていた身としては少々拍子抜けだった。
純真そうな青年はともかく、彼女は妖退治屋の鏡のような人間だと思っていたから余計に。
「……ただ妖気が漏れたままの状態だと少し困ります」
〈ここは一応、妖退治屋の総本山的な家だからね。妖を憎む人もたくさんいるし、たくさん出入りする。使役されてない妖がいるのはあまりよくないかも、ってことだね〉
女性の懐から上がった声に、やはりそうなるかと息を吐く。
青年も、女性も、悪い人間には見えない。使役されるのも悪くないと思えるくらいには。
ただリュキが抱えた問題を彼女たちに押し付けるような真似はしたくなかった。
「悪いが――」
〈変化の術とか使えたりする?〉
断ろうとしたリュキが最後まで言葉を紡ぐより先に問いかけられる。
細かい芸当を必要とする術が不得手なリュキは否定するように首を横に振った。
「そうですか。ならば、依代を用意する必要がありますね」
「依代って?」
〈誰でも変化の術を使えるようにするもの、かな。人形とか、何かを象ったものがいいんだけど……この屋敷には使えそうなものがないんだよね〉
いわく付きの人形はいくつかあるものの、それを依代にするのはさすがに憚られる。
「人形か……。それなら、うちにいいものがあるから取ってくるよ」
返事を聞くよりも先に青年は忙しなく部屋を出ていく。
彼はこの屋敷に住んでいるわけではないのかと考えるリュキを他所に、女性も準備をすると去っていった。
そうしてリュキは見知らぬ屋敷の一室で一人となった。慣れない場所にもかかわらず、ここは妙に落ち着く。
無意識に気が緩んでしまっている自分をいいとも、悪いとも思えず、目を瞑った。
「寝ちゃった?」
目を瞑るリュキの耳に幼い少年の声が滑り込んだ。つい先程、聞いたばかりの声だ。
ゆっくりと瞼を持ち上げれば、栗色の髪をした少年がこちらを覗きこんでいる。声の通りに幼い顔立ちで、首元につけられた鈴が軽やかな音を奏でた。
「お前は……」
「あ、名乗ってなかったね。僕は真砂。さくちゃん、ええと……さっきの冷たそうな女の人の式だよ。冷たそうといっても根はすごく優しいんだけど」
式、ということは炎のような女性と同じだ。なるほど確かに纏う気配がよく似ている。
「それで私に何の用だ?」
「ちょっとね」
何か考えるような素振りを見せた真砂は神妙な面持ちで口を開く。
「――リウカちゃん」
「……っ」
まさか本当の名前で呼ばれるとは思っておらず息を呑む。わずかに開かれた藍白の瞳を見た真砂は、やはりの自分の聞き間違いではなかったのだと確信する。
青年こと霞が名前を尋ねた時、真砂もその場にいた。彼女の答えは途切れ途切れで、霞は「リュキ」だと聞き間違えたようだったが、人より優れた聴覚を持つ真砂の耳は違う名前を聞き取っていた。
「やっぱりこっちが本名なんだね。あ、安心して。何かしようってわけじゃないからさ。君に訂正する気がないならそれでいいと思うよ。君の事情を知らない僕が偉そうに言えることは何もないよ」
「……私はもう…その名を名乗るつもりはない。リウカは捨てた名だ」
いい機会だと思う。
自分を捨てたあの男につけられた名前をいつまでも名乗っているのは反吐が出る。
リウカはもういない。これからはリウカとしてではなく、リュキとして生きればいい。
――リウカ。
――姉様。
脳裏に響いた声が、リウカとして生きてきた日々を蘇らせる。これらをすべて捨てるとまでの踏ん切りはついていない。いや、捨てる気はない。
名前は捨てても、これまでの軌跡は捨てていいものではないから。嫌な記憶も全部、背負っていこうと思う。
「何かあったかまでは聞く気はないから――」
「いいや、話すよ」