魔王は死なず
魔王は死なず
大陸中央部の片隅にあるティッセン村。
「大平原」の周縁ハルツ山地の麓に近いこの村は、豊かとは
言えないながらも、農業と光輪石の産出で生計を立てていた。
古代魔法帝国滅亡後の乱世の中でも、辺境に近いこともあっ
て平和に時を過ごしてきたが、ある時。
ハルツ山地の「魔の山」に魔族の軍勢が拠点を構えるように
なってから、恐怖の日々が始まった。
彼らはティッセン村などを支配すると、生贄を要求するよう
になったからである。
最初は抵抗した村人たちだったが、魔族の軍勢の前には屈せ
ざるを得ず、以後年に一人若い娘が死地に赴くことになった。
五人の娘が、姿を消した後のことだった。
後に大陸のほとんどを支配するマリティア王国を築き上げた
マルクス=イグネイシャス(マルクス建国王)の祖父であり当
時一帯の豪族として名を上げてつつあったニコルが討伐に乗り
出した。
激しい戦いの末、ついに魔族の軍団は滅び去り、統率してい
た<魔王>も戦死した。
こうして、村には静かな時が戻ってきたが、生贄とされた娘
たちだけは戻ってこなかった。
十一月の冷たい雨が降りしきっていた。
ティッセン村の外れにある共同墓地は訪れる人間も無く、雨
音だけが死者を弔い続けていた。
夏には豊かな葉を茂らせる周囲の木々も幹と枝だけが虚しく
灰色の空にそびえ立ち、その真下を通る墓地への道は、泥と水
にまみれた落ち葉によって奇妙な模様が描かれていた。
そんな赤と黄色と土色の小道を、全身を漆黒で覆った人物が
歩いてきたのは、雨雲の彼方で日が傾いた頃のことだった。
無駄のない確実な歩き方で落ち葉や泥を踏みしめ、共同墓地
へと足を踏み入れると、無造作にフードを脱ぐ。
その下にあったのは、どことなく高貴な雰囲気を漂わせた白
皙の青年の横顔だった。
お忍びで墓参りに来た貴族にも見えたが、青年はやがて目的
の墓を見つけると、ゆっくりと歩み寄って膝をついた。
まだ埋められて間もないのか、村の神官が心を込めて作った
木の墓標は切り出されたばかりのように新しかった。
「<カタリナ=シュナイダー。自らを村の平和のために捧げ、
ここに眠る>か。平凡だが、間違っていない」
墓標に手を当てて、青年は小さな声でつぶやいた。
「ただ、一つだけ付け加えるならこうだ。<魔王を愛し、それ
を後悔しなかった専属衣装師>--」
青年の切れ長の瞳から、冷たい雨に混じって熱いものがこぼ
れて地面に吸い込まれた。
今はそれしかできなかった。
かつて魔族の軍勢の頂点に立ち、大平原の大半を恐怖のどん
底に陥れた魔王シュヴァルツには--。
カタリナが「魔の山」に来たのは、夏の盛りの頃だった。
年に一度の夏祭りの季節に合わせて「今年の生贄の少女を差
し出せ」と命じた結果、シュヴァルツに捧げられたのである。
濃い色の髪と瞳を持つ美しい少女だったが、ごく大人しい性
格なのか恐怖すらも表に出していなかった。
「カタリナ=シュナイダー。ティッセン村の仕立屋の娘か。ふ
む、なかなかの上玉だな」
威厳と冷徹さを絶妙に組み合わせた微笑を浮かべて、魔王シ
ュヴァルツは玉座から生贄の少女を見下ろした。
「ティッセン村にはもうこれ程の娘はいないと思っていたのだ
がな。ボダン。何か聞いているか?」
「はっ。各村々で今年の生贄を差し出す番を押しつけあった結
果、ティッセン村になった為と聞いております。人間とは真
に愚かな種族であります」
側に控えていた参謀長が恭しく答える。
それを受けて、玉座の間に集った軍団指揮官などから野卑な
笑い声が漏れたが、魔王の一睨みで沈黙する。
「その愚かな人間たちはイグネイシャスの元に集結し、我々を
潰そうとしている。笑うならば、奴の首を上げてからにする
のだな」
返ってきたのは、恭順の意を表す沈黙だけだった。
それを確かめたシュヴァルツは再び微笑すると、人形のよう
に立ち尽くすカタリナに目を戻す。
時には魔族の指揮官ですらも射すくめる強烈な視線にも、少
女は表情を変えたりしなかった。
「気に入った。今年の秋ティッセン村からの上納は免除する。
ボダン。連絡しておけ」
「わかりました。ティッセン村の分は他の村などからの分を増
やすことで対応いたします」
「それがいい。自分だけ楽をしようとした他の村に対していい
見せしめになる。生かさず殺さず締め上げるとよい」
漆黒のマントを翻して、シュヴァルツが立ち上がった。
背は高い方ではないが、生まれつき持った「高貴な魔族」と
しての気品が、広間の指揮官たちを圧倒する。
「後はボダンに任せてある。新たな作戦行動は承認済みだ。全
軍死力を尽くして戦うように」
短い言葉で指揮官たちの気持ちを最高潮まで高めると、魔王
は玉座から下りて、カタリナの手首を無造作に掴んだ。
驚いたのか、初めて小さな声を上げたが、あえて無視して玉
座の間から退出したのだった。
「魔の山」に作られた魔族軍の本拠地の一番奥に、魔王シュ
ヴァルツの私室はある。
広さは大貴族の私室と比肩する程だったが、周囲の村などか
ら多くの財貨を巻き上げたのにも係わらず、内装は意外なほど
質素だった。
「ここが私の部屋だ。お前はここで暮らすことになる」
投げ飛ばすかのようにソファーにカタリナを座らせて、シュ
ヴァルツは宣言した。
「生贄とはいえ、そんなに簡単に殺したりはしない。私自身気
に入っているのだ。私に仕える気があれば、多少の自由は保
証する。ただし--」
相変わらず感情を表に出さない娘の気丈さに感心しながら、
魔族の王は氷のように冷たい声で続ける。
「私の命を狙ったり、イグネイシャス軍と内通するような事が
あった場合には容赦なく始末する。人間を憎悪するボダンの
激しい拷問の末にだ」
体を起こしたカタリナだったが、膝の上に置いた両手が細か
く震えているのに気づいて、シュヴァルツは微笑した。
もし含むものがあれば、こみ上げてくる恐怖を強引に押さえ
込んで逆に平然としているだろう。
それをしないところをみると、この小娘は本当に生贄として
送り込まれてきたようだった。
「もう一度きく。私に仕える気はあるか?特技があるなら言っ
てみろ。料理が得意なら料理番でもしてもらう。家事が得意
なら身の回りの世話をしてもらう」
「わたしは--」
ようやく、カタリナが口を開いた。
可憐な雰囲気にたがわない高く細い声だった。
「父の仕事を手伝っていたので、洋服を作るのが得意です。料
理も家事も母の仕事だったので、得意ではありません」
一瞬だけ、魔王は自分の耳を疑った。
脳裏で少女の言葉を反芻し、不機嫌を隠せずに言い返す。
「特技が洋服作りでは話にならん。他にないのか?」
「ありません--。小さい時から、洋服を作るのだけは大好き
だったのです。ですから、それ以外には--」
カタリナが今にも泣きだしそうなのに気づいて、シュヴァル
ツの不機嫌は一段とひどくなった。
上玉なのは事実だったが、特技が何も無いのでは扱いづらく
て仕方なかった。
「わかったわかった。向こうに部屋を用意してあるからそこに
入ってろ。さらに言うなら小娘を抱く趣味も無い。ただの生
贄だからな、お前は」
小さく頭を下げて、少女が立ち上がった。
なおも何かを訴えたそうな表情だったが、一睨みされると用
意された部屋に逃げ込んでしまった。
魔王と生贄の少女の出会いは、ほとんど最悪の形だった。
その後、カタリナとはほとんど顔を合わせなかった。
シュヴァルツが意識的に避けていたせいもあったが、相手も
また部屋に籠もって出てこなかったからだった。
普通の人間ならば多少は心配するところだったが、魔王はそ
んな素振り一つ見せずに、日々を過ごしていた。
麓の村で夏祭りが終わったある日の朝のことだった。
大きいながらも地味な寝台で目を覚ましたシュヴァルツは、
すぐに衣装庫へと向かった。
その気になれば多くの美女に世話を焼かせる事ができる立場
にあったが、自分の事は全て自分でするのが主義なので、着替
えなども一人で行う。
いつものように、今日の衣装を選んでいた時だった。
記憶に無い衣装が増えているのに気づいて、かすかに眉をひ
そめた。
衣装庫に手を触れられるのは、魔王自身を除けば別室にいる
カタリナだけだった。
まったく、余計な事をしてくれる。
心の中だけで吐き捨てて、乱暴に新しく増えた衣装を引き出
したシュヴァルツだったが、自分が手にしたものに気づいて、
珍しく呆れたような表情を浮かべた。
今まで自分が着ていた<魔族の王らしい>衣装が見すぼらし
く思えるほど、重厚な気品に満ちた軍服だったからである。
これは--あの小娘が作ったというのか?服を作るのは得意
だと言っていたが、ここまでとは。
しばらく迷った末、シュヴァルツは作られたばかりの衣装に
袖を通すと、その姿を鏡に映していた。
そこにいたのは、若いながらも<魔族の中の魔族>として人
間にも魔族にも恐れられる風格に溢れる王だった。
まるで魔法だ。この軍服を着ただけでここまで威圧感が増す
とは。あの小娘、侮れぬ。
そう思うのと同時に、今まで足を踏み入れなかった別室の方
へと向かった。
少女が待ち構えていると思い、魔王としての威厳を満たして
扉を開け放ったが--。
広い別室が劇場の衣装部屋のような有り様になっているのに
気づいて、魔族の王は呆然となった。
大量の布や道具の間で、カタリナが倒れるように熟睡してい
ても声の一つも出ない程だった。
--出直そう。今は何も言えない。
辛うじて残っていた落ち着きをかき集め、部屋から出ようと
したシュヴァルツだったが、それも不可能だった。
床に落ちていた裁断鋏を蹴飛ばして、大きな音を立ててしま
ったからである。
反射的に振り向くと、寝ぼけ眼のカタリナと視線が合った。
「魔王様?どうしてここに?」
「--。別に用など無い。ただ、何日も姿を見せなかったから
気になっただけだ」
「軍服、着てくださったのですね。着心地はいかがですか?」
言うだけ言って退出しようとしたシュヴァルツだったが、丁
寧な言葉をかけられて、思わず立ち止まった。
不自然な沈黙の後、ぽつりとつぶやく。
「上等だ。いい腕をしているようだな」
「はい。魔王様の為に心を込めて作りました」
少女が満面の笑みを浮かべているのは、気配だけでも十分に
感じることができた。
ただの人間をここまで笑わせたのは初めての体験だったこと
もあり、俄に気恥ずかしくなったシュヴァルツはマントを翻す
と足早に部屋から出た。
二、三歩進んでようやく一番の本音を言う。
「カタリナ=シュナイダー。お前を私専属の衣装師に任ずる。
今後の活躍に期待する」
「--!ありがとうございます!今後も魔王様の為に、全力を
尽くさせていただきます」
なぜ私に尽くすのだ?私は極悪非道な魔王だというのに。そ
れに、本当は--。
冷たく冴えわたる心のどこかが別の本心を囁いていた。
しかし、シュヴァルツは振り向くことなく、私室から出て行
ったのだった。
魔王が変わったという噂は、すぐに配下の軍団に広がった。
他者を寄せつけない圧倒的な風格は相変わらずだったが、と
もすれば地味だった軍服や衣装が、洗練されて相応しいものに
なったからである。
魔王様は外見にも王者らしさを追究されるようになった。
元来忠誠心は高い魔族軍だったが、この変化は予想以上の好
影響をもたらした。
とある拠点を急襲しようとしたイグネイシャス軍を、一致団
結して見事に打ち破ったからである。
「軍団の士気はかつて無い程高まっております。全ては魔王様
に対する忠誠の成せる技と言えるでしょう」
戦いの翌日、シュヴァルツの私室を尋ねた参謀長のボダンは
興奮を隠しきれない様子で報告した。
「ここ数カ月、押され気味でしたがこれで戦況は好転するはず
です。冬までにドルトン城塞の奪還を目指すべく、作戦を立
てているところです」
「ドルトンを奪取できれば、イグネイシャス軍に対して楔が打
ち込めるというわけか。その方向で続けるとよい」
カタリナが作ったばかりの<新作>の軍服に身を包んだシュ
ヴァルツは鷹揚にうなづいた。
ソファーに腰かけて参謀長の言葉を聞いていたが、その威厳
は周囲の全てを圧倒しそうな程だった。
「承知いたしました。では、私はこれで失礼させていただきま
す。仕事を残しておりますので」
「ボダン。お前は非常に優秀な作戦参謀だが、その軍服はあま
り相応しくないな。かなり着古しているのではないか?」
「この軍服は魔王様より参謀長を拝命した時から愛用している
ものです。かれこれ四年になります」
「ならばカタリナに頼んで新しい物を用意させよう。魔族軍の
参謀長たるもの、外見にもこだわりが必要だからな」
冷静沈着な作戦参謀は何も言えなかった。
元来人間嫌いな魔族なので生贄の少女が作った軍服を着こな
すのはもってのほかだった。
しかし、下手に逆らえば雷のごとく激しい怒りが直撃して、
身も心も完全に打ちのめされるだろう。
一度体験しただけで、恐怖は骨の髄まで染み込んでいた。
「今回の戦いで活躍した者には、新しい軍服を支給することに
した。素晴らしい作戦を立案したボダンにも権利がある。受
け取るがよい」
「--わかりました」
非常に苦労しながら嫌悪感を隠して、ボダンは敬礼すると足
早に退室した。
それを待っていたかのように別室の扉が開いて、垢抜けない
ふだん着姿のカタリナが姿を現す。
「魔王様、今の話本当ですか?」
「もちろんだ。指揮官や兵たちの間にカタリナの作る軍服にあ
こがれる者が多いと聞いたのだ。迷惑だったか?」
「いえ。そのようなことはありません。魔王様の為に働けるの
はとても楽しいですから。一段と頑張らせてもらいます」
そう言ってカタリナはたおやかに笑った。
無垢で純粋な笑顔は、魔族の王であるシュヴァルツすらも魅
了する程だった。
「しかし、なぜここまで私に尽くせるのだ?お前は生贄として
私の元に送り込まれてきたのではなかったか?」
先程までボダンがいた場所にカタリナを座らせて、魔王は前
から抱いていた疑問をぶつけた。
「私が生贄となったのは半ば成り行きでした。今年の生贄を村
から出すことになったのですが、すぐに村人たちから目をつ
けられたからです」
少女の表情から笑顔が消えた。
シュヴァルツは自分が愚かな質問をしたのに気づいて、拳を
きつく握りしめたが、止めることはできなかった。
「魔王様もご存じのように私は洋服を作る以外の特技はありま
せん。家事とかは村で一番下手だったと思います。それでは
村にはいられなかったのです」
「なぜだ?」
「<村の女たちは働き者で、家事などは完璧に出来ないといけ
ない>。それが村の掟だからです。結婚を考える年までにで
きるようにならなければ、村を捨てないといけない程厳しい
掟です」
「馬鹿げた掟だ。魔族にもそんな掟を作る者はいない」
「でも、私はそれを守れそうにありませんでした。だから、生
贄にされてしまったのです」
カタリナの声は淡々としていたが、それがかえってシュヴァ
ルツの心に見えない傷を作っていた。
その痛みに声を漏らしそうなったが、魔王としての矜持がそ
れを許さなかった。
「訊いてはいけないことを訊いてしまった。済まぬ」
「いえ。魔王様にお仕えできた上に、自分の特技を生かせて私
は幸せです。お気になさらないでください。それより、魔王
様の生い立ちも聞かせてくれませんか?」
「私の生い立ちは大したことがない。父は魔族なら誰でも知っ
ている有力魔族の王だったし、母もそれに見合う立派な女性
だった。私が魔王になったのも定めとしか言えない」
「そうですか--。でも、魔王様は立派です。あれ程の魔族を
完璧に統率して、戦い続けていらっしゃるのですから。イグ
ネイシャス軍のニコル様にはとても及びません」
「いや。そんな事は無い。イグネイシャスは末恐ろしい男だ。
あの勢いが数代も続けば、間違いなく歴史に名を残すはず。
それ程の器は備わっている」
「しかし、参謀長様は<大したことがない>と事あるごとに言
い続けていらっしゃいます。村でも勝ちより負けの方が多い
というので評判は良くありませんでした」
丁寧で控えめな専属衣装師の言葉に、魔族の王は俄に不敵な
微笑を浮かべた。
ごく親しい者にしか見せない、心からの笑みだった。
「天を突くような大木でも、地面から生えたばかりの時は小さ
いもの。イグネイシャス一族は、いつか巨大な樹となってこ
の大陸に君臨することだろう」
「そんな--。その時、魔王様は?」
「その樹を切り倒す者だ」
カタリナが意味を悟るよりも早く、魔王はいつものようにマ
ントを大きく翻して立ち上がると、部屋から出て行った。
その後ろ姿は、いつもよりもずっと大きく、そして覇気に満
ちているのだった。
大平原の長い夏が終わる頃になって。
魔族軍の高級指揮官を中心に、カタリナ手製の軍服が新たに
支給された。
効率一辺倒の今までとはまったく異なる軍服に、多くの魔族
たちは戸惑いを覚えたが、三日と経たない内に。
ほとんどが新しい軍服に身を包んで、本拠地内を堂々と闊歩
するようになっていた。
日頃見下している人間の小娘が作った服を着るのに抵抗があ
ったのも事実だったが、あまりの着心地の良さに文句の言葉ど
ころか、感謝したくなる始末だった。
「たいしたものだ。衣装作りだけでここまで我が軍の士気を高
めるとは」
魔族軍最高指揮官としての職務を終え、私室に戻ってきたシ
ュヴァルツは感嘆を込めてつぶやいた。
これまでも自らの強烈なカリスマで一筋縄ではいかない魔族
たちを率いてきたのであるが、その見事さには脱帽せざるを得
なかった。
これを機に巻き返せればいいのだが。少しずつ、戦況は悪化
してきている。軍が動けなくなる冬まで持ちこたえれば。
目下のところ、魔王が一番悩んでいたのはイグネイシャス軍
の執拗なまでの攻撃だった。
反撃の狼煙を上げるはずだったドルトン城塞の奪還作戦は兵
力の差で押し切られて失敗し、前線は全盛期よりかなり後退し
ていた。
参謀長ボダンは必死になって作戦を考案し、軍団指揮官たち
も魔王の期待に応えようと戦い続けていたが、人間たちはゲリ
ラ戦すらも厭わずに魔族軍を切り崩しつつあった。
やはり、ここは私も前線に出るべきかもしれぬ。ボダンは反
対したが、魔王が一番安全な場所にいるわけにはいかない。
先程までの激しいやりとりを思い出しながら、カタリナの部
屋に通じる扉を開ける。
魔王の専属衣装師は、新しい軍服の仕上げに熱中していると
ころだった。
「魔王様。お帰りなさい」
「ああ。相変わらず熱心だな」
「これが私の仕事であり、楽しみですから。それより、少しお
疲れではありませんか?」
「いや。大したことはない。私は魔族たちの全てを統率する立
場にあるのだからな」
「戦況は、どうなのですか?」
「率直に言うなら、少し押されている。カタリナが作ってくれ
た軍服のお蔭で士気は保たれているがな」
カタリナの精密な刺繍を施していた手が止まった。
溜め息まじりにつぶやく。
「私にも、何か出来ないものでしょうか?全ての人たちが戦っ
ているのに私はただ、楽しんでいるだけ。不公平です」
「不公平などではない。それがお前の役目なのだ。このような
立派な軍服を作り出すことで、戦っているではないか」
「--。済みません。余計な事を言ったりして」
シュヴァルツは無言のまま首を振った。
目の前の少女の明らかにならない本心は分かっていた。
この魔族たちの本拠地の中で、純粋な人間であることがつら
くてたまらないのだ。
ボダンのような極端な人間嫌いは少なかったが、魔族たちに
とって人間は生存圏を争う宿敵でもあった。
「戦況は、私が魔王としての誇りにかけて好転させる。その後
十分に力を見せつけたところで--」
カタリナの悲嘆に暮れる横顔を見る内に、シュヴァルツはボ
ダンにさえも話していない本当の目的を話していた。
「この大平原の一部を我々の国にするように認めさせる。そう
すれば、我々と人間の戦いは終わる。その後は少しずつ、普
通の国にしてゆくつもりでいる。時間をかけて--」
「そんなこと、できるのですか?」
「わからない。ただ、やらねばならないのだ。我々魔族はこの
ままでは滅びるしかない」
断言したシュヴァルツの横顔には、悲壮感すら漂っていた。
「だから私は手をこまねいてはいられないのだ。明日からは少
しでも前線に出るようにする。カタリナには悪いが、これが
私の戦いなのだ」
少女は納得したように大きくうなづいた。
多少なりとも気持ちが晴れたらしい事に気づいて、魔王は珍
しく微笑すると、最近の出来事を話し始めたのだった。
玉座の間を覆う空気が重苦しくなりつつあった。
秋も深まった頃になって、魔王シュヴァルツは緊急に配下の
高級指揮官を招集した。
急坂を転げ落ちるような戦況の悪化に、我慢が限界に達した
からであるが、集まってきた魔族の数を数えて、すっと心が冷
たくなるのを感じた。
かつて大平原を我が物顔で闊歩した強力無比な軍団は、半分
近くが永遠に失われていてからである。
「魔王様。お気持ちはよく分かりますが、急に指揮官たちを集
めるのはお止めになってください。色々な危険が--」
「ボダン。戦況はどうなっている?」
「率直に申し上げます。ティッセン村とクルップ村を結ぶ第二
次防衛線が破られました。イグネイシャス軍は勢いに乗って
第三次防衛線を突破しようとしています」
「そこを破られれば残すは本拠地のみ。後一カ月もたせること
はできないのか?」
「お言葉ですが--」
ボダンの横から、補給など後方支援を担当する参謀が控えめ
に口を挟んだ。
「第三次防衛線で阻止しない限り、この危機を乗り越えても冬
の間に補給が途切れて我々は餓死するしかありません。イグ
ネイシャス軍は二重の作戦で望んできています」
無言のまま、魔王は握りしめていた拳を玉座に叩きつけた。
派手な音がして豪奢な装飾の一部が吹き飛び、補給担当参謀
もボダンも、集められた指揮官たちも顔色を変える。
「このままでは座して死を待つのみというわけか。もういい。
私が直接指揮を執る!」
「お待ちください。魔王様」
反論を許されない激情を乗り越えるようにして、一人の指揮
官が進み出たのはその時だった。
「その前にするべきことがあるのではありませんか?正直に申
しますと、我々の作戦がイグネイシャス軍に漏れています」
相手の出方を伺うような慎重な物言いだったが、波紋は一瞬
の内に広い玉座の間に広まり、反射した。
それに勇気を得たかのように発言が続いたからである。
「オクティヌスの言葉に嘘はありません!反撃を企てたとたん
に急襲されて、我が軍は大変な損害を被りました!」
「オレもだ。奇襲をかけたはすが待ち伏せされて、多くの優秀
な兵を失った。誰かが情報を漏らしているに違いない!」
「考えられるとすれば、あの小娘だ。いつも魔王様の側にいる
からな!新しい軍服で俺達を油断させる作戦だったんだ!」
「全てはあの人間の小娘が来てからおかしくなった!あいつが
諸悪の根源に違いない!」
突如として、騒ぎ始めた魔族たちの中央に雷が落ちた。
想像を絶するような轟音が響き渡り、広間だけでなく本拠地
全体を揺さぶる。
怒りで白皙の横顔を紅潮させた魔王が、魔力の雷を放ったか
らである。
「今後カタリナの事を悪く言うものは、私が処刑する。どんな
に功績を上げていても考慮するつもりはない」
「魔王様。落ち着かれてください。皆感情的になっているだけ
です。誰もカタリナ殿が内通していると--」
「カタリナが内通?そんなはずはない。それは私が保証する。
しかし、裏切り者がいるのは事実。それは私が突き止める」
「そ、そのような事は私に--」
「ボダンは今の事態を打開する方法を全力で考えろ。裏切り者
を出したのは私の不始末。決着は自分でつける」
いつの間にか、大広間を満たしかけていた不穏な空気は魔王
の手によって完全に消滅させられていた。
皆落ち着きを取り戻したのか姿勢を正して、立ち上がった主
君を見つめていた。
「次の戦いからは私が指揮を執る。私もお前たちと苦労を共に
する。この地に我々の国を作る為にも」
異論は出なかった。
それどころか、一度は失われかけた忠誠と情熱が一気に沸き
上がってシュヴァルツを包み込んだからである。
先程までの騒ぎを完全に忘れたかのような興奮が、集った指
揮官たちに宿っていた。
奇跡的な逆転劇を信じて--。
しかし、願いは届かなかった。
裏切り者が見つかり、粛清された時には魔族軍は総崩れ寸前
になっていたからである。
魔王シュヴァルツ自らの前線指揮、参謀長ボダンの必死の作
戦立案、指揮官たちや兵士たちの必死の防戦、そしてカタリナ
の心からの祈りも虚しく、戦線は後退を繰り返し、十一月の声
を聞くころには本拠地を残すのみとなっていた。
イグネイシャス軍はすぐ背後に迫った最強の敵<冬将軍>に
背中を押されながらも攻撃を繰り返し、魔族軍の戦況は絶望的
になっていた。
それでも。
カタリナは魔王の説得にも応じず、残り続けていた。
すでに新しい衣装を作るのも不可能になっていたが、たまに
疲れきったシュヴァルツが私室に戻ってくると、一生懸命励ま
し、世話をして助けたからである。
ハルツ山地に冬の訪れを告げる初雪が舞った日だった。
魔族軍の本拠地を包囲したイグネイシャス軍は指揮を執るニ
コルの号令を合図に、今年最後の総攻撃を仕掛けてきた。
すぐ近くで激しい攻防戦が続いているようだった。
魔王シュヴァルツはただ一人、玉座の間でまんじりとしない
時を過ごしていた。
すでに最前線は本拠地の内部となり、兵力の差も圧倒的にな
っていた。
絶大な信頼を寄せた多くの指揮官たちは魔王に忠誠を誓った
まま戦死し、残った者たちも絶望的な抵抗の中に死に場所を探
しているようにさえ見えた。
それは、シュヴァルツも同じだった。
全ての兵士たちを失ったら自分も精一杯抵抗し、巻き添えを
増やしてから壮絶な戦死を遂げよう。
そう思いながら、魔族軍「最後の時」を待ち続けていた。
カタリナ。済まない。これが魔族の王として生き続けなけれ
ばならなかった私に相応しい最期なのだ。お前まで巻き込むわ
けにはいかない。
魔王専属の衣装師は私室で、シュヴァルツが戻るのを待って
いるはずだった。
<もし戦況が絶望的になったら戻る>。
それだけ言い残してここに来ていたからだったが、その言葉
を実行に移すつもりはまったく無かった。
カタリナのお蔭で最後の最後に楽しい時を過ごさせてもらっ
た。しかし、私はその恩に報いる方法を知らない。できるのは
これだけだ。
言えなかった言葉を、心の中で反芻した時だった。
「魔王様!ここにいらしたのですか!?」
聞き慣れた、可憐な少女の声が耳に届いて、シュヴァルツは
心の底から驚いた。
大きな包みを抱えたカタリナだった。
「なぜお前がここにいるのだ!?部屋に居ろと言ったはず--」
「死ぬつもりなのですね、魔王様。あなたは死んではいけない
方です。あなたは生き残るべきです」
「何を根拠に言う。私は悪逆非道な魔王。それ以外の何者でも
ない。多くの人間を殺し、略奪し、村々を滅ぼしてきた。そ
の罰が今下されているのだ」
少女は小さく首を振っただけだった。
既に全てを知っていると言わんばかりに。
「それは事実ですが、魔王様自身は何もしていないのではあり
ませんか?魔王様の役目は軍団の中心となって士気を鼓舞す
ることだけ。違いますか?」
「違う。私は魔族の名門に生まれ、「王」として生きるように
定められた。残虐な事は幾らでもしてきた」
「もう無理はしなくてもいいのです。魔王様は--」
何かが崩落するような轟音と震動が玉座の間を揺さぶった。
小さな悲鳴を上げてカタリナはその場に膝をつき、駆け寄っ
た魔王は不器用な手つきで介抱する。
「優しいのですね。魔王様は」
「優しくなどない。ここでお前に死なれでもしたら私は魔王と
しての誇りも威厳も失いかねない。とにかく、部屋に戻って
じっとしていろ。いずれイグネイシャス軍が見つけて救助し
てくれるはずだ」
「ならば、最後に一つだけお願いがあります。実は、私の部屋
に小さな裁断鋏があります。それを今生の別れの印に、魔王
様に差し上げます」
「裁断鋏?」
「はい。衣装を作る時に使っていた物です。それを持ってきて
下さい。とっさの事だったので、持ってくる暇が無かったの
です」
形容しがたい違和感が、魔王の胸に芽生えていた。
しかし、腕の中に抱いた少女の願いを無視する事はできなか
った。
「わかった。とにかく、ここにいろ。すぐに戻る」
「はい。魔王様、もう一つだけ言わせてください。もう、無理
はなさらないでください。全ては終わったのですから」
巫女が下した神託のような、純粋で色々な思いと意味が込め
られた言葉だった。
思わず手が止まりかけたシュヴァルツだったが、すぐにカタ
リナを立ち上がらせると、マントを翻して玉座の間から飛び出
してゆく。
一瞬だけ肩越しに見た少女の表情は、今まで見たことが無い
程穏やかで澄みきっているように思えた。
急ぎに急いで、魔王は自分の私室に戻ると、そのままカタリ
ナの部屋へと足を踏み入れた。
大きな寝台も作業用の机も、衣装を作るのに活躍した色々な
道具もきれいに整頓されていたので、目的の物はすぐに見つか
ったのであるが--。
裁断鋏の下に手紙が置かれているのに気づいて、シュヴァル
ツはこみ上げてくる予感を押さえ込みながら手に取った。
それには、カタリナの綺麗な字でこう書かれていた。
<魔王様。真に申し訳ありません。あなたはやはり生き続ける
べき御方です。その理由は、あなた様が一番ご存じのはずで
す。この手紙を読む頃には、私があなた様の衣装を使って囮
となります。その間に、私の為に用意してくださった脱出口
から抜け出して下さい。おそらく魔王様の身代わりとなって
死ぬことになると思いますが、後悔していません。
最後に、前に嘘をついたことをお詫びいたします。私は無理
やり生贄にされたと言いましたが、実は自分から名乗り出ま
した。自己犠牲など、高尚な理由ではありません。一度だけ
姿を見かけて以来、あなた様に身も心も捧げる決意を固めた
からです。村人たちに罪はありません。どうか、復讐だけは
お考えにならないで下さい。
あなた様に出会えたことを心から、感謝しています。
魔王専属衣装師 カタリナ=シュナイダー>
読み終わった瞬間。
津波のような歓声が聞こえてきた。
耳を澄まさなくても意味はわかった。
<魔王>がついに死んで、イグネイシャス軍の長きにわたる
戦いが終結したのだ。
おそらく、自分の作った魔王の衣装を身にまとったカタリナ
は必死になって逃げ回り、最後には本拠地の隅に設けられた監
視所からでも身を投げたのだろう。
魔族軍の城は険しい崖に作られていて、落ちたら最後死体は
決して見つからない。
完璧な偽装が可能だった。
「なぜだ?なぜ、お前が死なないといけないのだ?死ぬのは魔
王であるこの私でないといけないはずだ。私は--」
シュヴァルツの言葉が虚しく、永遠に主を失った衣装作りの
部屋に響く。
歓喜の声はまだ続いていたが、魔王は手紙と少女が愛用して
いた裁断鋏を手に、ただ呆然と立ち尽くしているだけだった。
冷たい雨は弱まることなく、降り続けていた。
陰鬱な共同墓地の片隅で、シュヴァルツは長い時間動かずに
自分が愛した少女の墓標を見つめ続けていた。
イグネイシャス軍が本拠地を占領した直後に脱出し、しばら
く身を潜めた後に来たのが、この小さな村だった。
黒ずくめの衣装に貴族を思わせる横顔の青年はかなり目立っ
たが、村人も駐留する兵士も、誰一人としてかつての<魔王>
とは気づかなかった。
カタリナはここで生まれ育ったのだな。一度だけ魔王として
巡察した時にも穏やかでいい村だと思ったが、その時カタリナ
は私を見初めたのだろう。自分の運命を決めるとは知らずに。
全身が濡れるのもかまわず、青年は思い続けていた。
いや、これが私の運命だったのかもしれぬ。カタリナはそれ
に巻き込まれたに過ぎない。
底知れない悲しみ、少女の決意を見抜けなかった自分に対す
る苛立ち、それでも捨てきれない純粋な思い。
全てが複雑に渦巻いて、シュヴァルツは動けなかった。
それでも。
青年は再び歩き始めなくてはいけなかった。
おそらく自分と参謀長ボダンの話をこっそりと訊いていたの
で、真実を知っていたのであろう。
カタリナはこう言い残したからである。
<もう、無理はなさらないでください。全ては終わったのです
から>
ゆっくりと、シュヴァルツは立ち上がった。
水滴をしたらせる髪をかき上げ、目深にフードを被り直すと
魔王になってから身に付けた威厳ある歩き方で、夕闇が迫りつ
つある共同墓地から立ち去ってゆく。
強力な魔力を持つばかりにさらわれ、突然指導者を失った魔
族軍を率いる<魔王>を演じざるを得なかった人間の青年は、
自分の全てを愛してくれた少女の形見を秘めて、新たな道を歩
き始めたのだった。
(終わり)