おでんの謎
ありとあらゆる食べ物を俳句に詠んだ山頭火。
アイスキャンデー、ビフテキ、チャンポン、睡眠薬のカルモチンまで句に詠んでいるのに、なぜかおでんの句はない。
おでんも「いつものやうに梯子酒でおでん屋を飲みまはつた」(昭和15年5月29日の日記)とあるように酒の肴としては大好物であったのだが、何故かおでんを詠んだ俳句は皆無だ。
ただ一句だけ、彼の昭和10年9月29日の日記に書きつけられた句の前書きにおでんが出てくる。
おでんや
・更けると食堂の、虫のなくテーブル
このおでん屋はどこのおでん屋かというと前日9月28日の日記に答えがある。
この日、山頭火は湯田の町を四時間行乞し、それから「千人湯にずんぶり、ああありがたい」と汗を流してから
「四時過ぎて周二居訪問、いつものやうに本を借り御馳走になる、そして句会。
まことによい一夜であつた、S夫人のへだてなさ、K君の若さ、H嬢のつゝましさ。
散会したのは十時すぎ、いつもの癖でおでんやで飲み足す(鈴木さん、すみません)、そしてもう汽車もバスもなくなつたので、駅のベンチで寝る」
ということで山口の温泉町湯田のおでん屋である。
秋の彼岸も過ぎた9月28日に駅のベンチで寝るのは寒かろうにと思うが、そこは野宿の達人山頭火にあってはごく日常の風景なのである。
おでんの季語は冬。
我が家の食卓におでん鍋が登場するのも11月になってからで、3月までの5カ月間は食卓のエースの一角を務めて先発のみならず、中継ぎ、抑えとして八面六臂の活躍を見せる。
我が家では冬に限った料理だがいつもテレビで見ている「吉田類の酒場放浪記」には夏でもおでんを出す居酒屋がたまに登場する。
そのような店は山頭火がガンガン酒を飲んでいた昭和の初期でも存在したのは彼の日記からわかる。
例えば昭和14年8月22日の日記にはこうある。
「呉郎さん十郎さん来訪、三人ぶら/\山口へ、おでんや、料理屋、喫茶店、愉快に飲み食ひして談笑する、日が暮れる前に戻つて来たが、今日は飲むことも飲んだが、酔ふことも酔うた」
これは山口のおでん屋。
昭和15年8月23日の日記の舞台は四国の松山だ。
「酔っぱらって和尚さんから少々借りて道後へ―更に一杯、おでんやでまた更に一杯、二杯三杯…泥酔して路傍に倒れている所を運よく通りかかったお隣の奥さんに連れて帰っていただいた、いけない、いけない、恥ずかしい限りである、―私自身は、はっきり覚えては居ない―なお悪いじゃないか。(略)阿呆め、年寄りは年寄りらしく振舞うたら如何だ、戦時ではないか、しっかりしろ、しっかりしろよ山頭火」
と、この夜も今まで何度となく性懲りもなく繰り返してきた自己反省。
松山と言えば昭和14年11月21日の日記にこんな記述がある。
「ほろ酔いきげんで道後温泉にひたる、理髪したので一層のうのうする、緑平老のおせったいで、坊ちゃんというおでんやで高等学校の学生さんを相手に酔いつぶれた!それでも帰ることは帰って来た!」
このおでん屋の店名は松山を舞台とした夏目漱石の小説「坊ちゃん」から拝借したと思われるが昭和14年と言えば80年以上も前のことだ。
この店が今でもまだ営業しているのなら「山頭火がこちらのおでんを食べたんですよ」と店主に耳打ちしたいものだ。
山頭火の好きなおでん種は何だっただろうか?
彼自身の具体的な証言は日記にないがヒントは残されていて、たとえば次のような記述だ。
「大根の煮たの、あの香、あの味、あの団欒、あの雰囲気!」(昭和9年12月28日)
「大根は日本的で大衆的な野菜の随一だ」(昭和10年1月11日)
「大根はうまいかな、大根はあらゆる点で日本蔬菜の主だ。」(昭和12年11月31日)
以上のような大根賛歌。
また次のような彼の料理は簡易おでんとも言えるだろう。
「雪の大根をぬいてきて、豚の汁で煮る」(昭和8年1月26日)
ということで山頭火の好きなおでん種の一つは大根であると私は信じる。
山頭火がおでんの句を残していないので、こちらも松山の出身であり、漱石に「吾輩は猫である」の執筆を勧めた俳人、高浜虚子のおでんの句をかりてこの項を終える。
おでんやを立ち出でしより低唱す