納豆朝飯派
・秋空、はるゞおくられて来た納豆です
ひと昔前までは紡錘形の藁づとに入っていたが、いつの間にかプラスチックの容器に入って売られるようになった納豆。
昔はしょう油をかけるのが当たり前の筈だったのに、これもいつの間にかタレ、からし付きで売られるようになった。
納豆にはしょう油でなくてはならん、この二つは一体にして不可分のものであると言う意見も耳にするが、私は付属のタレ、辛子を愛好する。妻の買ってくるそれはやや甘ったるいのが玉にきずだが、せっかくついているものは使わなくてはなんだか損をした気がする。
刻み葱を加え、時計回り、反時計回りを何回かくりかえし、引いた糸で全体が白くなるまでかき混ぜるのは、まぜればまぜるほどおいしくなると誰かに聞いて以来の事。
温飯にかけ、まんべんなく均等に敷き詰め、垂直掘削露天掘り方式で食べる。
納豆を飯にかけるやいなや、ぐちゃぐちゃにかき混ぜる人がいるが、それではさっき右手が腱鞘炎になる危険を冒してまでひたすらかき混ぜた努力がふいになる。
私は飯の白、納豆の茶色のくっきりとしたコントラストを保ったまま、口中に静かに成仏させてやるのである。
さて冒頭の句の秋空は、昭和7年10月16日のそれである。
「けさの空はうつくしかった、月はもとより、明星のひかりが凄絶、いや冷徹であった」という日の秋空である。
山頭火の元に送られて来たこの納豆、現在スーパーの棚に並んでいる糸引き納豆とは違う。
塩辛納豆である。塩辛納豆は奈良時代に中国から伝わり、古来寺院の食として作られてきたそうな。生産地によって浜納豆、大徳寺納豆、唐納豆などと呼ばれ、とくに大徳寺納豆は一休がその製法を伝えたとされ、一休納豆とも言われているそうだ。
山頭火は上掲の句の前書きにこう書いている。
「浜納豆到来、裾分けして」
おすそ分けした相手の名前はない。
浜納豆は今川義元や豊臣秀吉などの戦国武将が兵糧として珍重したそうで、特に徳川家康は浜納豆が気に入り、江戸時代は歴代の将軍に献上されていたそうな。
見た目は小さな乾いた味噌の粒、見かたよってはヤギや鹿のフンを連想させられ、食事時はその連想を振り払わねばならないが、山椒の風味がきいて、酒のつまみ、お茶漬け、あるいは我家ではすでに実験済みだが麻婆豆腐にも使える。
この到来ものの浜納豆について、山頭火は3日後の10月19日の日記にこう書いている。
「今日の御飯は可もなく不可もなし(略)、大根おろしに納豆で食べる、朝飯はいちばんうまい」
私も納豆はもっぱら朝食時に食べる。ぎりぎり妥協しても昼食までで、例え妻に強要されたとしても晩飯に出されれば勇気をふるって断固食べることを拒否する。
山頭火も納豆朝飯派と知り、我が意を得た思いがする。