アラの味噌汁
朝がひろがる豆腐屋のラッパがあちらでもこちらでも(昭和8年9月19日の句)
これはは広島の牛田の豆腐屋が吹くラッパの音である。
この日、山頭火は牛田に住む大山澄太の家を出て東に向かっている。
途中、行乞し、その日の宿をとったのが、一貫田である。現在の広島市安芸区瀬野である。
宿は本業が豆腐屋で、前は魚屋。
その晩出された食事は魚のアラでとっただしの豆腐汁と素麺汁であった。
山頭火が泊まったこの宿、現在は営業していないが家は残っている。
その敷地内に、地元有志の尽力で作られた山頭火の句碑がある。
句碑には次の句が刻まれている。
一歩づつあらはれてくる朝の山
この瀬野の宿の夕食に出た豆腐汁、彼が旅先で泊った各地の安宿でもしばしば夕食の膳に上っている。「アラでだしでとった」豆腐汁に私はひっかかった。何の魚のアラだろう。
彼が瀬野で泊った宿の裏には細く瀬野川が流れている。その清流を覗いてみると小魚が泳いでいる。
私にひらめくものが会った。
「鮎のアラだ」
山頭火の生まれ育った防府から北東に位置する山代の地、その川沿いの集落では正月の雑煮のだしに、焼き干しの鮎を使う。入れる具は、にんじん、こんにゃく、せり、そしてわらすぼで包み煮たすぼ豆腐である。瀬野も川沿いの山間地、条件はドンピシャリである。
私はこの説を、瀬野の歴史談話会の会長S氏にぶつけてみた。
「瀬野川に鮎はいますか?」
「私の子供の時分にはたくさんいました。今は稚魚を放流しているようですが」
氏の子供時分とは昭和10年代の筈だ。山頭火が亡くなったのは昭和十五年。
竿の先にヒットがあった。
私はここぞとばかり「鮎のアラ」説を開陳した。
「すばらしい、これで私も積年の謎が解けました」
と感激すると思いきや、S氏はじょうぶそうな白い歯を見せ、さわやかに笑いながら
「それはありません」
と言下に否定した。
氏の子供時代にも、瀬野の魚屋は広島市内の市場に仕入れに行っており、時には刺身だって食べたとの事。
アラは、鯵、鯖、はまちなどのそれであろうというのが、氏の意見だった。
事実の前に、私は引き下がるしかなかった。
山頭火より1歳年下の美食家北、大路魯山人は、『魯山人味道』(中央公論社)の「鮎の食い方」の中でこう書いている。
「私がまだ子供で、京都にいた頃のことであった。ある日、魚屋が鮎の頭と骨ばかりをたくさん持って来た。鮎の身を取った残りのもの、つまり鮎のあらだ。小魚のあらなんていうのはおかしいが、なんと言っても鮎であるから、それを焼いてだしにするとか、または焼き豆腐やなにかといっしょに煮て食うと美味には違いない。」
この一文に百万の援軍を得た私は、この本を持って再びS氏のもとに馳せ参じようとして、辛うじて思いとどまった。鮎のアラに異常に執着する、薄気味の悪い暇人と思われることを恐れたからだ。
「うどん供へて、母よ、わたくしもいたただきまする」
これは、山頭火が母親の命日にささげた歌だ。
10月の山頭火の命日に、今年私は鮎を買うつもりだ。
三枚に下ろし、身は洗いにして食べ、残ったアラで取っただしで豆腐汁を作り、山頭火にささげ、「私もいただきまする」。