ところてんとシーラカンス
山からあふれる水の底にはところてん
ところてんは古くは「こころふと」と称した。
海藻のテングサをよくさらし、干して、煮こごらせたもの。
黒蜜をかける人もあると聞くが、私は辛子酢でしか食べない。これは江戸時代の人もそうであったし、室町時代の人もそうであった。
何を根拠にそう言うかといえば、室町時代後期の「七十一番職人歌合」の最後の巻の歌に辛子酢で食べた証拠があるからである。
室町時代に完成した食べ方が、21世紀の今も尚生き残っている事からして「夏の味覚のシーラカンス」と呼びたいと私は思う。
去年、私は一度もシーラカンスを食べなかった。
昔は駄菓子屋でところてんを売っていた。
あの水鉄砲式のところてんを突き出す道具は「突き棒」と言うそうだ。
今ではところてんはスーパーで売っているにプラスチックの容器に入ったものしか口にしなくなった。
ところてんの「突き棒」だけではない、昔、身の回りに当たり前のようにあった道具がいつのまにか姿を消してしまった。
この突き棒しかり、たらいや洗濯板しかり。豆腐ラッパの音もここ何年か聞いていない。
さて冒頭の句は昭和8年7月15日のもの。この日の日記にはこうある。
『午後は東御嶽観音様へ詣でる、青葉、水音、蝉がなき鶯がなく、とてもしづかな山村だった、そこから赤郷へ河鹿聴きに出かけたが、暑くはあるし、興味もうすらいだので途中から引き返す、往復三里の散歩だ。山の茶屋には筧の水があふれて、ところてんが澄んでいた』
山から引いた水ですっきりと冷えたところてん、喉が鳴るではありませんか。
山頭火の喉も鳴ったに違いないが、日記には食べた形跡がない。
ところてんを横目で見ながらむなしく歩き去った山頭火の後姿を、誰かが見送ったろうか。
それにしても、夏の盛りに往復3里の、つまり12キロの散歩とは、彼の尋常ならぬ体力、脚力を十分に偲ばせるに十分なエピソードである。
山頭火は歩く旅人、歩く紀行作家でもある過剰な体力の持ち主であった。