フグの黄金時代
これが河豚かと食べてゐる
昭和5年11月16日、大分県中津にある筑紫亭で句会があった。
句会の後は宴会になり、山頭火は「フグチリでさんゞ飲んで饒舌つた」。
この日の日記にあるのが上掲の句である。
筑紫亭は明治32年創業の鱧料理でも知られた料亭。
玄関脇にはこの句を刻んだ山頭火の句碑がある。
この句の「これが河豚か」は二つの解釈が可能である。
この日、山頭火は生まれて初めて河豚を食べたと見る立場。
今ひとつは筑紫亭の河豚のうまさに、今まで口にした河豚は何だったのかとか、あるいは
豚とは本当はこんなにうまいものだったのか、という驚きの「これが河豚か」という解釈。
この問題に答えを与えるべく私は山頭火の句集を見直した。
大正2年の「層雲」に発表された彼の句に
「窓に迫る巨船あり河豚鍋の宿」
がある。海沿いの宿で河豚鍋をつついていたら、突然窓の外を大きな船が通っていったのだ。山頭火はこのとき河豚鍋をつついていたと私は解する。
さらに言えば大正2年といえば、山頭火は31歳。
明治40年に25歳で種田酒造を開業し、当時としては特権階級の納税義務を果たしていた、今でいえば青年実業家時代である。
しかも種田酒造は河豚の本場下関と同じ山口県防府にあった。食いしん坊で強靭な胃袋の山頭火がこの当時河豚を口にしなかったとは考えにくい。
これが河豚かと食べてゐる
この句を読んだ日から3年後の大正5年4月、種田酒造は巨額の負債を抱えて倒産。
父竹次郎は行方不明になり、山頭火は妻子を連れて熊本へと夜逃げ同然に流れていく。ここから山頭火に一生ついて回る貧乏暮らしが始まる。河豚どころか食べる物にも事欠く日が珍しくなくなる。
そして昭和5年、「焼き捨てゝ日記の灰のこれだけか」の句とともにそれまでの日記を全て焼き捨て、放浪流転の旅が始まる。
日記を焼き捨てた彼はそれまでの自己と決別した。
そして昭和5年11月16日のこの日、ほぼ10年ぶりに口にしたフグに、むかしの味の記憶がよみがえってきた。
「ああ、河豚とはこんな味だったのか」
その記憶の感動を詠んだ句だと私は解釈する。
私の一年に一度だけ、正月に「これが河豚か」と食べている。
この昭和5年は山頭火にとって、河豚に関してはリッチイヤーだった。
11月19日には門司の句友、源三郎宅で「ぞんぶんに河豚を食べさせていただいて」いる。この日の河豚もうまかった。その喜びを2日後の11月21日になって次の句によんでいる。
久しぶり逢つた秋のふぐと汁
鰒たべつゝ話が尽きない
11月26日になってまたもや中津の筑紫亭の河豚を思い起こして
「はじめての鰒のうまさの今日」
と日記に残している。
しかし山頭火にとっての河豚の黄金時代はこの昭和5年11月に限られていたようだ。
その後は昭和7年に
汐風を運ばれる鰒がふくれてゐる
がある。
そして最後の河豚の句は昭和13年3月16日、「これが河豚かと食べてゐる」の句をよんでから8年の月日が流れた。九州を旅する山頭火は再び河豚の黄金郷中津にやって来た。
「中津は鰒の本場だ、魚屋といふ魚屋には見事な鰒が並べられてある、それを眺めていたら、店番のおばさんから、だしぬけに、「おとうさん、鰒一本洗はうか!」と声をかけられた。」
と言い、次の句を残している。
春寒の鰒を並べて売りたがつてゐる
つまりこの日は、ふぐは山頭火の舌を喜ばせることはなく、山頭火は河豚の前をただ通り過ぎただけだった。