一人で雑煮を
ひとり煮てひとり食べるお雑煮
この句は昭和6年1月1日の日記にある。
前年の昭和5年12月、山頭火は熊本市内の春竹琴平町に一室を借り、「三八九居」と名付け、一人で自炊生活を始めている。よってこの元旦の日記は熊本で書かれたもの。
その日記はこう始まっている。
「いつもより早く起きて、お雑煮、数の子で一本」
この雑煮の餅については前年の昭和5年12月30日の日記にこうある。
「午前は元寛さん来訪、夜は馬酔木居往訪、三人で餅を焼いて食べながら話した、元寛さんは元寛さんのやうに、馬酔木さんは馬酔木さんのやうに、どちとも(ママ)すぐれた魂を持つてゐられる。……
元寛さんから餅と数の子とを貰つた、ありがたかつた。」
山頭火が元旦に食べた餅と数の子は熊本在住の句友、石原元寛さんからもらったそれだった。
さて、一人暮らしの山頭火が自分で作った雑煮はどんなものであったろうか。
彼の生まれ故郷、山口県周防南部の伝統的お雑煮は、「聞き書 山口の食事」によると次のようなものだそうな。
「白餅の雑煮で、具にはかぶを使う。いりこでだしをとった汁に、醤油で味付けする」
いたってシンプルな雑煮だ。
雑煮は多くの人にとって一年一度の食べ物だけに刷り込みの度合いは大きい。山頭火が自ら拵えた雑煮もこれだったのではないだろうか。
私が高校に上がる頃までは、大晦日が近づくと田舎の祖父の家に親戚一同が集まったものだ。
年始の膳が終わると、祖父は決まって私たち孫にこう尋ねた。
「餅はいくつ食べた」
この場合の餅とは雑煮の餅のことだ。広島の山間にある祖父の家の雑煮は、ゆでた鰤の切り身と蛤、かまぼこ、みつ葉の入ったすまし汁仕立てのなかなか豪華なものだった。
餅は年末に男たちが臼と杵でつき、女たちが丸めた出来立てだ。高校生のころの私は大ぶりのそれを八つほど食べていた。
大学進学を機に広島を離れ、正月を祖父の家で迎えることはなくなったが、年末に帰省した実家で食べるのも同じ雑煮だった。
今年の正月もまた私は同じ雑煮を食べた。
六十年以上ほぼ同じ雑煮を元旦に食べ続けてきたことになる。
たった一度の例外を除いては。
学生時代のある年、大みそかまでアルバイトがあったため、元旦を京都で迎えたことがあった。
アルバイト先の奥さんが私を家に呼んで雑煮をごちそうしてくださった。
出された白味噌仕立ての椀の中を見ると、餅の他には大根とにんじんだけという質素さ。
雑煮は日本中同じものを食べていると思っていた私は驚き、さらにこう考えた。
「さすがは京都だ。奥ゆかしいもんだ。中の具はこれから出て来るのだろう」
今で言うトッピングはこれからしずしずと登場し、それを各自椀の中に盛り込むのだろうと想像したのだ。
しかしご主人は「さあ、食べて」と私を促すではないか。
私には餅入りの味噌汁にしか見えないそれは、食べてみると素朴でおいしくはあった。
しかし胃袋への欠落感はいかんともしがたく、帰省した広島で一日遅れのいつもの雑煮を食べ、やっと正月を迎えた気分になったものだ。
私は妻と成人した子供二人の四人家族だが、正月の雑煮に特別な執着を持つのは私だけである。
他の三人はせいぜい一つか二つの餅を食べるだけで雑煮に対する態度は実にそっけない。
六十歳を過ぎた私だけが三度お代わりをして六個の餅を平らげる。
元旦の朝の正しい伝統を伝えるべく、子供たちが幼い頃から、率先垂範の精神で食べ続けて来たが、その努力が徒労に終わったのはもはや誰の目にも明らかだ。
「お餅はいくつ食べた」と子供たちに尋ねるのも私の父母の代で終わってしまったようだ。
大食いの山頭火が雑煮の餅をいくつ食べたかは、私は競争心をそそられ大いに興味のあるところだが、日記に数までは言及がない。
山頭火の餅好きは餅を詠んだ彼の多くの句でそれと分かる。
何しろ亡くなる二週間ほど前の昭和15年10月2日の日記にはこう書いているくらいだ。
「この夜どこからともなくついて来た犬、その犬が大きい餅をくわえておった、犬からすなおに受けて餅の御馳走になった。ワン公よ有りがとう、白いワン公よ。」