君と傷と喧嘩の仕方
『君の世界の入り方』と関連しています。
暴力的な描写がありますので、ご注意ください。
〈 君と傷と喧嘩の仕方 〉
あの忌々しい、いつ思い出しても唾棄したくなるあの事件からほぼ一ヶ月。あの朝自分のベッドで彼女と一線を踵で踏んでからほぼ一ヶ月。
……すっかり普段通りだなと、違和感を覚えるここ数日。
あの朝、自分も彼女もああやって触れ合ったーーー触れたあと、昨晩からの疲労や混乱や安堵がピークに達してほぼ同時と言っていいタイミングでふつりと意識が途切れて眠った。眼を覚ましたらすっかり夕方で、彼女はまだ腕の中ですやすや眠っていた。起きて来たのは風呂を洗い夕飯を作り上げたあとで、ぼんやり寝ぼけた顔をしたままもぐもぐと食事し、ふんわり眠たそうな顔をしたまま浴室に向かい、出て、ふわう、と欠伸をしながらおやすみともりと言って部屋に引き上げて行った。今度は彼女自身の。
……そして次の日の朝、本当に何事もなかったかのようにいつも通りの様子で「おはようともり」と朝食を作っていた。ストールをぐるぐるに巻き、長袖のブラウスにジーンズ姿で。いくら室内とはいえ、まだ六月なのでちょっと暑そうだった。
極端にではないが密かに気を使っていたのだけれどーーー彼女はいつも通りだった。トラウマになっている様子も何もない。ただ彼女は嘘も隠すことも本当に上手くやってのけ『本当』にしてしまうので、いつも通りでもーーー安心は、出来なかった。女の子だ。小さくて華奢な。男には想像することすら出来ない恐怖だってあったはずなのに。
ーーーそういうのって、ちょっと落ち着いたあとふっとフラッシュバックするのだろうか。
そう思い不安になった。ネットで検索すると被害に遭った二ヶ月後などにフラッシュバックに襲われるようになったという話もあり、さらに不安が掻き立てられて大学のスクールカウンセラーのところにも行った。カウンセラーは男だったがそれでも自分より詳しいだろう。彼女と自分の関係を説明するには長い時間が必要なので、『自分が好きな女性』と端的に表現した。『付き合ってはいないが、そのひとからはとても大事にされている』と。
「被害に遭われて大体一ヶ月なんですね。……変わった点もなく、事件前と同じいつも通りの様子」
「はい」
「フラッシュバックがあとからくることはおかしな話ではありません。なので、その場合は周囲の理解と支えが必要です」
「はい」
「ーーーですが、その女性はフラッシュバックが起きていても隠している可能性が高いんですね?」
「ーーーはい」
「難しいお話ですね。本当に大丈夫な場合もありますが、下手に事件の話をしてそれが引き金になる可能性も無きにしも非ずです」
そう。ーーーそれが怖い。
本当に、本当に彼女は大丈夫なのかもしれない。ーーーけれど、本当は大丈夫じゃないのかもしれない。
なにが彼女の『本当』の『本当』なのだろう。
「……少し、気になったのですが」
「はい」
「その女性もですが、蕪木さんの方もカウンセリングが必要なのかもしれません」
「え?」
「……眼の前でその女性が被害に遭われた、そう仰いましたね」
「……はい」
カウンセラーは、眼鏡の奥から、柔和なその眼を気がかりそうに少し歪めた。
「それだって十分、心の傷に成り得ます。……あなただってまた、被害者なんですよ」
言われてみるまでそんなこと思いもしなかった。
どこか呆然としたままキャンパスを出て、電車に乗ってーーー意識せずとも身体は帰る。ーーー彼女のところへ。
「ともり」
地元の駅に着くと、タイミングがかち合い彼女と遭遇した。外でばったり会うのは久しぶりでなんだかうれしくなるし、顔を見れて心がほっとし余計な力が抜けて行った。
「大丈夫? 何だかふらふらしてたよ?」
「大丈夫。買い物してたんだね」
「うん。今日はピカタだよ。それにお豆腐とアボカドのサラダ、ご飯、お味噌汁、ほうれん草の白和え、あとホタテが安かったからホタテの……ソテーがいい? フライがいい?」
「うーん、ソテーかな? 前作ってくれたガーリック風味のあれまた食べたい。……持つよ、貸して」
「あ、ありがとう。……了解、ソテーね。にんにくもあるし、鷹の爪もあ」
彼女が持つスーパーのレジ袋を受け取ろうと手をのばし、その手が彼女の手と触れて、
どさっ、と。
反射的に手が強張り、袋を受け取り損ねた。
「あ……」
「……ともり? ごめんね、ちゃんと渡せなかった……」
「あ。……い、や。俺が。俺が取り損ねた。ごめん……あ、卵が……」
あわてて袋を拾い上げ中を覗くと透明なパックの中でいくつも罅が入っていた。中には完全に割れじわりと黄色を滲ませているものすらある。
「あ……ご、ごめ……」
「大丈夫だよ。ピカタだからといちゃうし。問題ないよ。……さっきよろよろしてたし、ともり疲れてるんだよ。早く帰ろっか」
荷物私が持つよ、と言われ首を横に振った。
「大丈夫。持てるから。……帰ろう」
手を繋ぎたい、とふいに強く思った。彼女と手を繋ぎたい。あたたかさを分け合って、幸せな気持ちに満たされたい。と。
「……」
けれど、握らなかった。ーーー手をのばしもしなかった。
空いた手を握りしめ、ポケットの中に入れた。
割った卵は彼女が問題なくピカタに使ってくれた。申し訳ない気持ちとほっとした気持ちと綯い交ぜになってよくわからなくなる。
「いただきます」
「めしあがれ。いただきます」
向かい合って手を合わせて。リクエスト通りのホタテのソテーが並んでいて、何だかぎゅうっと胸の奥が締め付けられる。
心臓の一番やわらかい無防備なところに、彼女は最も簡単にやさしく触れる。
「ん、今日もすごくおいしい」
「本当? よかった。ホタテ久しぶりだからちょっとどきどきした」
ふは、と彼女が笑う。ーーーいつも通り。
じぐっと、どこかが痛む。ーーー何で。
何でいつも通りなはずなのに、こんな気分になるのだろう。
ピカタにかけるお手製のトマトソースがもう少し欲しくなって。気を取り直すように、深みのある小皿に入れられたソースに手をのばした。ーーー瞬間、
たまたま手をのばしていた彼女の手と触れた。一瞬、頭が真っ白になってーーー次の瞬間叩き付けるようにして振り払う。
がしゃん! と自分の手が小皿に接触し、倒れた小皿からばっと赤が飛び散った。
「ーーー」
ばっと顔を上げて。訳もわからぬまま謝ろうと彼女を見てーーー息を、殺される。
飛び散った赤。
白いシャツを点々と赤く染め、胸元や首元にもまた残されたように散りーーーその顎の下、にも。
刃物で薄く切られ、塞がり、もう絆創膏さえ貼っていない滑らかな肌にーーーどろっと、赤が、飛ぶ。
「ーーーッ!」
粘土の高い赤だ彼女の血じゃない。あれはトマトソースだ。わかってはいるのに心まで伝わらず、くらりと眩暈がして胸から何かが込み上げた。
「ふっ……ぐ、」
「ともり」
近付こうとした彼女を手で制してよろめきながらトイレに篭り嘔吐した。ーーーせっかく、彼女が作ってくれたのに。
苦しい。苦しい。怖い。みーさん、怖い。助けて。ーーーぐるぐるぐるぐる、心も身体も彼女に助けを求める。
求められたって困るだろう。自分よりも大きな男に怖い怖いと縋られたところでーーー彼女の方が困ってしまう。やめろ。だからやめろ。
いつも通り。いつも通り。ーーーそれはおかしい。彼女はどの瞬間かで、何かを呑み込み、そのまま隠した。ーーー嘘を本当にして、美しいほど残酷に、自分の傷を隠した。
傷付いているのに自分の前では微塵も見せず。
いつも通り、やわらかく微笑う。ーーーわかっていたこと、なのに。覚悟していた、ことなのに。今までだってきっと、そういうことはあったのにーーーどうして、どうして今回はこんな、
思考が纏まらないまま、吐くものを全て吐き切り、何度も水を流して、……漸くトイレを出た。
薄暗い廊下に彼女が立っていた。水の入ったペットボトルを差し出してくれる。……彼女が下の方を持っていたので、その手に触れずに済んだ。
「ともり……」
リビングから漏れる光に微かに照らされ、彼女の髪がふわりと色を変えーーーその眼は、内包から静かに輝くようにきらりと深く静かに光る。
「ごめん、やっぱり体調、悪かったみたい。……ごめん、怪我、なかった? ソースも……服、染みにしちゃって……」
まだ拭きもしていない、彼女の肌に服に残る、薄暗い中赤黒く見えるそれを見下ろそうとしてーーーぱ、と、小さな手がそれを覆った。
「え……」
「大丈夫だよ。怪我してないし、こんなの洗えば落ちるから」
ぐい、と肌を擦って、飛び散った赤を薄くする。
「全然大丈夫だよ」
にこりと。ーーーその手は、首筋に当てられたまま。
ぐらりと眩暈がした。ーーーその笑顔にも、その仕草にも。
ーーーもしかしたら。
もしかしたら彼女の傷は、自分が触れたことから生まれ与えられた。
眼の前で彼女が蹂躙されていた。凶器を手にする手はそれを憂慮することなく肌を這い、真っ白な肌に薄く薄くいくつも赤い筋を付ける。
何度も落とされる唇。指を食い込ませるくらい強く鷲掴みにされる胸。鮮血みたいな痣を首筋に胸元にいくつもいくつも付けられた彼女が、何の表情も浮かべないまま、何も出来ず立ち竦む自分を見る。
透明な眼が、自分を、見た。
瞬間、場面はリビングではなく階段に切り替わる。彼女を階段に押し倒し、そしてそのまま無理矢理唇を重ねる。薄く空いた隙間から咥内に捩じ込み、そのあたたかさを貪るように味わう。
彼女は抵抗しなかった。あの時と違ってーーー噛み付くことも、拳で殴りかかってくることも。何でーーー
バターを削り取るようななめらかな感触が手にあって、なんだろうと身を引いて確認した。ーーーぎょっとして息を殺される。
冷たく輝く凶器。なめらかに肌を裂き、彼女の脚が一線に滲み出る鮮血に色を添えるように対照的に映る。
「や……め、」
やめろ。自分にそう言いたいのに心は硬直したまま身体は勝手に彼女を求めるように動く。いつの間にかにまた場面は変わり、あの日の朝のように自分の部屋のベッドに彼女を閉じ込め何度も何度も肌をなぞって上書きする。
あたたかい身体はそこにあった。ーーー自分の下に。
彼女の眼には、何も感情が含まれていなかった。
透明なほど深い眼が、ただただ何も言わず、ぼんやりと自分を見ていた。
翌朝、最悪な気分で起床し、自分が横たわるベッドにすらぞっとするような居心地の悪さを抱いて嫌になり抜け出た。まだ早朝と言ってもいい時間だったが二度寝する気にはさらさらなれなかった。
そっとリビングへ下りて、冷たい水を飲む。……若干意識がはっきりし、ほっとしながら冷蔵庫に寄りかかる。
一ヶ月。
彼女はあの事件から数日後、中期の撮影に入り、あまり家にはいなかった。
仕事に集中していたからきっと、あまりあのことを深く考えずに済んだのだ。
けれどそれも終わって今は少しの間また休みになっている。……久々にゆっくり彼女と過ごせるはずなのに、どうにも、身体は上手く動かなかった。
「……」
彼女に今、会いたくなくて。二階に行き手早く着替えてテーブルに書置きを残した。
『早く行かなきゃいけなくなったのでもう出ます。昨日は本当にごめんなさい。
夜は遅くなるから、先にご飯食べててください』
カウンセラーのところに顔を出すとぎょっとしたような顔をされた。朝一番カウンセリングルームが開いた瞬間来られればそうなるだろう。
「酷い顔色ですよ。どうされたのですか」
そうではなかったらしい。
「大丈夫です」
首を横に振るとそれでも気遣わしげなカウンセラーは冷蔵庫からジュースを出してくれた。りんごジュースだった。ありがたくもらい、喉を潤す。
「……ありがとうございます。これおいしいですね」
「青森で作られてるりんごジュースなんです。りんごにもこだわっ……いえ、どうでもいい話でした」
「いえ。よければメーカー教えてくれませんか」
少し驚いたような顔をされたがカウンセラーは教えてくれた。スマホにメモする。彼女にも飲ませてあげたかった。
「……お疲れのようにも見えます。もし、問題がないのでしたら、少しひとりでゆっくりされてみては?」
「……」
「ひとりで考える時間もまた、大切なものですよ」
微笑まれる。
ひとりでーーーひとりで。
彼女から、離れて。
夜遅くなる、と書置きしたが、大学的には夕方には終わってしまう。キャンパス内に居座ろうとしたがどこに逃げても遠くから感じるひとの気配や声が億劫で、結局早々に引き上げた。人気のないところを探し、ふらふらと家の方まで足を進めーーー結局、駅から家へのルートをのろのろと辿っている。
嫌だな、と思った。
この状況、この状態が一番嫌だ。
深く深く溜息を吐き、眼にかかりそうになった前髪をふるっと振り払い、前を向いてーーー途端に、心が凍えた。
彼女が歩いていた。ひとりではない。隣に誰か、男と並んで。
恐らく真野だ。ここ一ヶ月、彼女に仕事が入っていたとはいえ真野は遠慮するように彼女を避けていた。何があったかは、どんな結末を迎えたかは三木が説明している。恐らく少しずつ彼女と連絡を取り、もう会っても大丈夫だと思い来たのだ。
『普通』な男。普通に気遣えて、普通を知っていて、普通に彼女をーーーごくごく当たり前のところから見守り、手をさしのばせる男。
車が接近し、真野がそっと、車道側を歩く彼女の肩を抱き寄せ、歩道側にやった。ふわりと、ロングスカートのようなラップパンツが揺れる。
さ わ る な
何かが切れる音がして、気付いた時には全力で駆け出していた。足音に気付いたのか、彼女と真野が振り返りーーー真野を押し退けるようにして、彼女を捕まえる。
勢いに押され転倒しそうになる彼女を抱きしめ、ふわりと泳いだ身体を支えた。
「……」
「……」
「……」
三人が三人、それぞれ驚いたように。
世界が停止した。
「……と……も、り……?」
ややあって。ーーー腕の中で、彼女が微かに身動ぎする。
こちらを見上げ、きょとんとしたような、驚いたような顔でーーー瞬きし、小首を傾げる。
「どうし、たの? 顔色悪いよ。やっぱりまだ、具合がーーー」
するりと腕が抜け、気遣わしげに頰に手がのびーーー
ばっと彼女を離して距離を取った。頰を微かなあたたかさをもって彼女の指先が掠め、離れたところでまた世界が停止する。
「っ、……あ……」
呆然とした声が漏れた。ーーー自分から。
取り残された彼女は、その深い深い眼を見開いていた。
瞬きもせずーーーその眼が、光を抱くその眼が、ゆらりと、感情を持て余したように、歪んで。
ふるっと、その小さな身体が震えた。ーーー何かを呑み込んで、呑み込み損ねて、
ーーーそれでも、なんと言ったらいいのかわからないように、
「ーーーっ、ともりのっ、!」
言葉が不自然に途切れ、
「ーーー……っ!」
「わっ!」
彼女が持っていたレジ袋をぶんっとこちらに投げ付けた。咄嗟に受け止めたもののぐちゃっとかそんな嫌な音がし一瞬そちらに気を取られると、ばっと踵を返して彼女が走り出した。荷物を捨て身軽になった彼女の足はびっくりするほど早く、あっという間にその姿が点になる。
「……何て顔してんだ、お前。大丈夫か」
停止から解放されない自分を真野が見た。本気で心配している顔に心底申し訳なくなる。ーーー駆け寄った時自分は、何かあと少しきっかけがあったら滅茶苦茶に真野に殴りかかっていたというのに。
絶対俺は余計な者だからお前が全部一人でなんとかしろと言われ情けなくも悲鳴をあげたくなった。そのままさっさと真野は道を引き返してしまうので文字通り途方に暮れる。
が、その時スマホが鳴った。彼女のはずがないのに彼女かもしれないと期待しディスプレイを見て、やはり彼女ではないもののその存在の力強さにどっと心が安堵した。
「みーーーみき、さん」
『ひろ先輩からともりくんに電話しろって連絡受けたんだけど、何が起こってるのー?』
「み、みーさんと……」
口早にここ数日の説明をした。彼女が走り去るまでを縺れる口でなんとか説明し切ると、
『……っぷ……!』
電話の向こうで三木は盛大に吹き出した。そのまま楽しそうに笑い出す。
「へ、え……?」
『こ……堪えたんだ! 寸前で堪えた分どうしたらいいのかわからなくなってパニックになってレジ袋投げたんだ! 相変わらず喧嘩下手だし不器用で馬鹿! ああもう本当かわいいんだからあの子は!』
「ど、どういうこと?」
『ともりの馬鹿、って言いかけたんだよ、きっと。昔要くんと喧嘩した時そう叫んだんだよ。要くんの馬鹿! って』
「み、みーさんが?」
『ユキが。要くんはほらそういう面ではへたれ馬鹿だから、普通にショック受けちゃって。なんとか仲直りしたあとも、あの子が『要くんの馬鹿』って言うのは禁止になった。からかいたい時は『頭がお粗末!』とか『思考回路が通ってない!』とか変化球にしないと駄目になったの』
「そ、それは別の意味で問題な気が。……じゃあ何で今回は言わなかったの?」
『傷付けたくなかったからでしょ。冗談抜きに馬鹿って叫んで要くんは傷付いた。まあ言葉よりもあの子にそこまで言わせたってところにショックを受けてたんだけどね。あのひとは。……ともりくんを傷付けたくなくて寸前で堪えて呑み込んで、そしたらその分どうしたらいいのかわからなくなって、パニックになって思わず持ってたもの投げ付けちゃったんだよ。それでさらに『なんてことしたんだ!』ってあわてて、もうどうしたらいいのかわからなくなって逃亡。あー馬鹿かわいい』
「……俺が避けたから、……触って、傷付けたから。みーさんは怒ったのかな」
『……ともりくんを傷付けたから、嫌われたって思ったんだよ』
「え? いつ?」
『本当はねーーー』
吉野は言った。あの時のあの彼女自身を囮にした作戦に、全くこちらが関わるはずではなかったのだと。
一階の和室が充てられたあれ。深夜に彼女が帰って来れば、一番に気付く。
こちらはいないはずだった。二階の自室で眠ったまま、自分のいないところで全てははじまり、終わるはずだった。
ーーー計算は派手に狂った。家に到着してみれば自分とあれが取っ組み合い、下手したらその凶器が自分の身体に埋まり込むほど容赦なく、自分たちは争っていた。
ーーー橘くん!
彼女があの時自分ではなくあれを呼んだのは、一瞬でも早く、自分からあれを引き離すためだった。
眼の前で襲われることも。彼女が襲われているのに何も出来ない全てが崩れてゆく絶望感も。
見せるつもりも味あわせるつもりも、彼女は一切なかったーーー。
「ーーー、だ、から、」
だからあのあと。
彼女は何度も謝った。
遅くなってごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
傷付けるつもりはなかったし傷付けるはずでもなかった。ーーー結果はどうだ。自分は頭から血を流し全身くまなく打ち付けて、そして心も傷付いた。
ごめんなさい。ごめんなさい。
あの数日後また仕事が入って。家に帰っては来るけれどなかなかゆっくり話せなくて。
ーーー傷付けたと、そう痛いほど思いながらもどうしたらいいのかわからない彼女。
きっと嫌われたと、そんな風に思って身動きの取れなくなった彼女。
『そんな風にぐちゃぐちゃになってた矢先にともりくんがフラッシュバックに遭って。心配で心配で仕方ないのに、近付こうとしたら逆にそれがともりくんを追い詰めるようで。ーーー自分の存在自体が許せなくて、でも心配だからつい近付いてしまって。ーーー拒絶されて、ああやっぱり嫌われたんだと真っ暗になって。それでも心配で、もうどうしたらいいのかわからなくなって。これ以上傷付けたくなくて言葉を呑み込んだら代わりに物投げ付けちゃって。ーーー今頃罪悪感で死んでるかもね』
「っ、洒落にならないから、それ、」
吐いたあと、あの痕を連想させる赤を彼女は隠した。
思い出させないように。見せないように。
これ以上、傷付けないように。
ーーー馬鹿だ。
これ以上ないくらい想われているのに、どうしてこんな風にしてしまったんだろう。
「ありがと、三木さん。……ごめん一回切る」
『そーしてください。あの子殺したらぶっ殺す』
「うん」
『たぶんね、クローゼットの中にいるよ。要くんの時もそうだった。風のように教室に駆け戻って来て掃除ロッカーに飛び込んでしばらく出て来なかったの。あの担任どうしてくれようと、そのロッカーみんなで見守りながら考えたものだよ』
「わかった。ーーーあのさ、」
『なに?』
「本当みーさんってかわいいよね」
『うん。ーーーともりくんより前から知ってるよ』
うん。
そうだね。
全力で走って帰った家、立ち止まらずレジ袋をリビングに落とすように置いてそのまま二階の彼女の部屋へと向かう。ノックもせずに中に入り、一応見回してベッドにも机の間にも彼女がいないことを確認してから備え付けのクローゼットを開ける。整頓されたその中、彼女が膝に顔を埋めるようにして入っていた。
「みーさん、出て来て」
ぴくんと揺れたが返事はない。肩に手をかけるといやいやするように振り払われた。
「や! 触らないで」
「……さわらないで……」
普通にショックを受けた。自分にとっては触らないでが彼女との禁句になりそうだった。崩れ落ちかける精神をなんとか奮い立たせてもう一度肩に手をかけクローゼットから彼女を引きずり出した。
「やあっ、やだやだ!」
「みーさん、こっち見て」
「やだ!」
手をのばしクローゼットの中に戻ろうとする彼女の手を掴み床に押し倒した。身体のサイドに手と膝を付け体重を軽くかけて押さえ付ける。小さく悲鳴を上げられたので一瞬ぎくりとしたが、単に驚いただけのようだったようでそこに怯えた様子はなかった。ほっとし、今度こそ捕まえた彼女を見下ろす。
「みーさん。あのね。みーさんは悪くないから。タイミングが悪かっただけだから」
「嘘!」
「嘘じゃない。俺があれと揉み合ってるなんて想定外もいいところでしょ。みーさんは悪くない。自分を犠牲にさせたのは、前も言った通り赦せないけどーーーその他のところで、みーさんは何も悪くないんだ」
傷付いていないとは、言えない。ーーー明らかな嘘だから。
傷付いた。確かに傷付いた。
眼の前で蹂躙される彼女。
何も出来ない自分。ーーーそして。
「ねえ、みーさん。……みーさんは、俺もあんな眼で見る?」
そう問うと。拘束から逃れようともがき、しかし全てをいなされていた彼女が、ぴたりと動きを止めた。ややあって困惑した、何を言われたのかよくわかってない表情でのろのろとこちらを見る。
「……あんな眼?」
「……感情のない眼。あれが、みーさんに触れてた時ーーーどうでもいいものを見るみたいにしてた、あの眼」
心底どうでもいいと。
視界に映しているはずなのに、それになんの意味も感じないと。
彼女はあの時、あれをそんな眼で見ていた。ーーーその眼のまま、自分を見て、
ーーー次の瞬間、激昂しあれに攻撃した。
「……なんで?」
さらに困惑が深まった、ゆらゆらと揺れたいつもよりも幼い声。
迷子みたいな声。
「なんで、ともりを?」
本当に心底意味がわからないと、その眼が言う。
「……っ、」
瞬間、彼女を抱きしめた。強く強く。ーーーあの時みたいに、強く。
心の底から安堵し満たされる。呼吸を取り戻し、鼓動が確かなものになる。
やわらかな髪を何度も梳き、彼女の耳元に直接注ぎ込むようにしてささやいた。
「……みーさん、大好き」
ーーーと。
「っ!」
ぴしっと彼女は硬直した。かちんと身体が固まり動かなくなる。どうしたのだろうと少しだけ身を離し顔を覗き込むと、
「……え?」
その頰も、首筋も、覗く鎖骨も。
全てが真っ赤に染まり、眼が合った瞬間思い切り逸らされた。
「……え? 何で?」
「……っ、なんでもない。ともり、どいて? ご飯、ご飯作るから」
「いやご飯はいい。今はそれよりこっちが大事」
「だ、大事じゃない。もういい、放すの、ともり放すの、」
「放さない。どうしたの? 真っ赤になって。いつもこんなにならないのに」
「ふあっ」
指先で首筋をなぞると硬直した身体がぴくんっと跳ねた。あわてたようにぐいぐい彼女が押し退けるようにこちらを非力な力で押し、何とかこちらの下から逃げようとぐるりと上体をひねって這い出ようとした。意地でも逃げようとする彼女に少しむっとしてその身体を呆気なく捕まえる。そのまま抱き上げて彼女のベッドにーーーよりもあっちがいいと部屋を出て自分の部屋に向かった。自分のベッドに彼女をほんの少しだけ乱暴に落としまた身体で閉じ込める。
「な、ん、で?」
「な、なんでもなにも」
「なんで?」
「はーーーはずかし、い」
「いつも言ってることじゃん。何度でも言うことじゃん」
「そ、そうだけど。ーーーっ、もうこの話終わり!」
「終わらせない」
「も、もう十分ですっ、と、ともりのこと、よくわかんないけどそんな眼でこれからだって見ないし、」
「うん。嫌われてないのがよーくわかってほっとした」
「……? だから、なんでともりを嫌うの? そこが本当わかんない……」
「わかんなくていいよ」
ちゅ、と額に口付けた。それだけでまたぴしっと彼女は固まる。
「みーさん?」
「……っ、私、も。き、嫌われてないのわかったし。……きらわれて、ないんだ、よね?」
「みーさんみーさん、キスしていい?」
「だめ」
「するね」
「だめだってだめふわっ」
ちゅ、と今度は頰に唇を落とす。これ以上ないくらい真っ赤に染まった彼女がもう石じゃないかというくらい強く強く固まる。
「みーさん?」
「……っ、ともり、は! なんだか余裕、だけど! 私はそうじゃないから!」
「……へ?」
瞬きして彼女を見下ろす。真っ赤になった彼女……あの朝のあと、自分が眼を覚ますとくうくう腕の中で眠っていた彼女。
「……でもみーさんもあのあとぐっすり眠ってたし、余裕で……」
「限界で寝ちゃった、けど! ともりより早く起きてました!」
「えっ、そうなの。声かけてくれればよかったのに」
「無茶言わないで!」
無茶って。なんで寝たふりなんかーーーそう考えて、はたと思い当たる。
寝たふりをするしかなかった彼女。
どんな顔をしたらいいのかわからなかった彼女。
「……」
「だからともり、放そう。も、もう無理だからまずいから。……なあに、その眼。なんだかちょっとこわ、ふあんっ」
首筋に顔を埋めて唇を落とした。下から上へ、辿るように落とし唇でなぞり、ぺろ、と舌を這わす。
「ひあんっ。ふ、あっ。ともり、とも、り、」
「これで当分、ーーー俺とみーさんが本当の意味で同意するまで、こんな風には触らないから」
「んんっ、ふ、あ……」
「だからね。今日また、一線踏ませて? あの時みたいに上書きじゃなくて」
慰謝料でもなんでもなく。
残された赤を辿るわけでもなく。
ただただあなたを愛するが故に、触らせてほしい。
覗く鎖骨にぺろりと舌を這わせると彼女の身体が小さく跳ねた。その隙を縫ってブラウスを脱がせあの時みたいなキャミソール姿にする。これ以上は脱がさない。だからラップパンツはきっと皺になる。ごめんね。
夕飯時、彼女は顔を合わせてくれなかった。疲れ切らせてくったりとさせた責任があるので夕飯は自分が用意し、脱がせたのは自分とはいえ肩口の肌も露わな彼女と食卓を囲んだら食事ではなく今度こそ完璧に彼女の方を食べてしまいそうだったので彼女の部屋から一着服を拝借した。くてっとベッドで力無くまるまる彼女に永遠に返って来なくて構わない貸したパーカーを着せ、抱き上げようとしたら彼女が全力で拒否したので手だけ貸し、階下へ降りて夕飯を食べた。ラップパンツはやはり皺になっていた。
まだしないと心に固く決めた上で手を出したのだが、よく自分我慢出来たなあーーーとつい遠い目になってしまうのは致し方ないだろう。
体調はそれはもうすっかり元気になっていたのでごくごく普通のメニュー。ご飯にお味噌汁、昨日ほとんど手を付けられなかったピカタにほうれん草の白和えにホタテのソテー。彼女が投げ付け自分が落とし置いたレジ袋の中の卵はまた割れていたので消費するため野菜たっぷりのスペイン風オムレツ。具合が悪いから消化にいいものを作ろうと、いつもの卵雑炊を作ってくれようとしていたらしい。
結局雑炊にはならず、昨日より一品増えたメニューを食べる。多かったがよくよく考えてみれば昨日の夜吐いてから何も食べていない。もりもり食べるこちらに対し、彼女の箸の進みは鈍かった。
「……ともり元気だね……」
「うん。男女差じゃない?」
「……聞かなかったことにするよ」
漸く顔を合わせてくれた彼女に続ける。恥ずかしくて合わす顔がなくてそうなっていたことはもうとっくにわかっていた。
「ぐったりさせちゃった責任取るよ。一緒にお風呂入ろう。髪も身体も俺が洗う」
「聞かなかったことにするよ……」
まあ冗談だけれど(彼女がうなずくものなら本気だが)。ふ、と笑い、ふいにクローゼットに隠れてなかなか出て来なかった彼女を思い出した。泣いてはいないもののいやいやとぐずり、言葉もいつもより子供っぽく幼くて。……感情を持て余し、なのにいつものように呑み込むことも出来なくて。自分でもどうしたらいいのかわからずパニックになって、そして、あそこまで拗ねた。
ぷっと吹き出した。
「ん? なあに、どうしたの?」
「んー……いや。あのね」
「ん? うん」
「かわいかったなあって」
「……?」
「怒って拗ねたみーさん。仲直りしたあとも、そのあとのみーさんも」
「……!」
がちゃん! と、落とすように彼女は茶碗を置いた。
「ご、ごちそうさま! おいしかった!」
「ほとんど昨日のみーさんが作ってくれたやつだけどね」
「オムレツが!」
「そう? ありがとう。お風呂入って来て。俺まだ食べるから」
「そうする!」
食後のお茶も飲まずぴゅうっと消えた彼女にくすくす笑い、まだ物足りないと、ホタテに箸をのばした。
風呂から出てリビングへ行くと、入れ替わりに出た彼女がソファーでまるっと丸まっていた。規則正しい寝息は穏やかで、キャミソールにショートパンツに例のパーカーと、この季節特に最近板に付いた格好で眠っている。
横に屈み、彼女を見下ろした。今は肌の色はいつも通り白く、真っ赤に染まってはいなかった。ーーーいや。
真っ白な首筋に、鎖骨に、胸元に。転々と散らばる赤い痕。きっとしばらく、また彼女は家の中でもストールを巻く。
当分、この先数年、こんな風に触れることはないんだろうなあと思いを馳せ、
ーーーこれが今回、本当に最後、と、
胸元に顔を寄せ、そっと痕を残した。
〈 君と傷と喧嘩の仕方 君の心と特別な触り方 〉




