彼の少女
〈 彼の少女 〉
こっちだよ。ーーーそう、音もなく呼ばれたような、気がした。
ふ、と顔を上げる。身体中がだるく、力という力が無防備な部分から抜けて行っているような気がしていたーーーここのところ、ずっと。
祖父の遺したものーーー古く、価値のあるものだーーーを、どうしても故郷に帰してやりたくてなんとか自分のルーツでもあるこの国に来たのだが、なんとかその最期の仕事をやり遂げると、自分の中のぎりぎり細い糸で残っていた残りの力はぷつんと途切れてしまったようだった。タクシーで空港まで辿り着いたのはいいものの、ロビーに並ぶソファーに崩れ落ちるように座り込むというより倒れ込み、そこから一切、動けなくなった。
(・・・・・・これで終わりかな)
心が、最後の想い残りを嘆く。ーーー誰もいなくなった家でたったひとり生きる祖母。ーーー最期に一度、会いたかった。ーーー自分から、逃げていた癖に。
(・・・・・・怖い)
身体が鈍く沈んで行くにつれて心まで釣られて行ったはずなのに、恐怖や寒さだけは克明に背筋を冷たく焦がす。
怖い。怖い。ーーー心細い。ーーーその時。
誰かに呼ばれた気がして、顔を上げた。
緩慢にしか動かなくなっていたはずの身体が、その誰かを求めるように視線を巡らせてーーーその少女を、捉える。
日本人なのであろう、ひとりの少女。日本人の女性ということを差し置いても小柄に感じる小さな体躯。が、手脚はすらりとのび、幼い顔立ちと相まってその雰囲気を静かに際立つものとしている。
そして、その眼が。
深く深く、世界のその全てをそのまま呑み込むような、どこまでも深いその不思議な黒がーーー自分を、視た。
長い睫毛が、一度ゆっくりと瞬く。
ーーー呼ばれた、気がする。
ーーー呼びたいと、思った。
ふ、と、その眼が伏せられ、その長い睫毛の向こうにその眼は隠れてしまう。それは幼い顔立ちに似合わずとてもゆるやかなどこか憂いのある仕草でーーー下心もなにもなく、惹かれるように思わず手をのばしそうに、なる。
「・・・・・・あのさ」
その視線が欲しくて。眼が欲しくて。
自分をその世界に入れて呑み込んで欲しくて。
なにも考えないまま声をかけーーー少女が、呼応した。
「・・・・・・はい、なんでしょうか」
サンドイッチを持った手を膝の上に下ろしながら丁寧に言った少女にーーー続ける言葉がなくて、咄嗟に口に登ったでまかせを言葉にする。
「今何時?」
「え?」
少女がはたりとする。その黒い眼がふわりと
こちらの腕にある時計に行ったのがわかった。ああ、そうか、まだ腕時計は売ってなかったんだっけとその時思い出す。
自分のもの。
自分の名残の残るなにか。
なにひとつ、遺していきたくなかった。ーーー自分の棺には、自分の躯以外なにも入れなくていい。ーーーなにも持つ資格なんて、ないのだから。
「・・・・・・あの」
「ん・・・・・・」
「あの、これ、食べますか?」
そっと窺うようにサンドイッチを差し出してくるお人好しな少女を見てーーー少しだけ、微笑んだ。
誰でも良かった。自分の恐怖を心細さを寒さを、少しでも誤魔化してくれるのならば、誰だって。
でも、呼ばれた気がしたのは事実だ。ーーーそっちじゃない、こっちだよ、と、少女が何度も何度も自分を呼ぶ。
何度でも、何度でも、少女が自分を選んでくれる。
「オーリ」
「うん?」
「なにか考えごと?」
「んー」
どうしたの? というように、少女が小さく小首を傾げる。その深い全てを呑み込む黒い眼が、まっすぐ自分に向けられる。
「考えごとっていうか、どうしようっていうか」
「どうしよう?」
「うん。まあ」
自分のもの。
自分の名残の残るなにか。
なにひとつ、遺していきたくなかった。ーーー自分の棺には、自分の躯以外なにも入れなくていい。ーーーなにも持つ資格なんて、ないのだから。ーーーでも。
選ぶから。
何度でも何度でも、少女が自分を選んでくれるから。
少しだけ今までとは違った意味で触れてもーーー赦してくれるだろうか。
「大丈夫だよ」
くい、と、繋いだ手を少女が軽く引く。
青い世界の路の上、本当に幸せそうに少女が微笑った。
「大丈夫だよ。もう、着く。もうすぐオーリは帰れるよ」
かえりたい。・・・・・・ただそれだけの言葉を、後生大事に抱えてここまで一緒に来てくれた少女。
その思いを幸せそうに抱えて、少女が微笑う。
「だから、なにも『どうしよう』じゃないよ」
「・・・・・・うん」
そういう意味ではなかったけれど。
「・・・・・・ありがとう、ミユキ」
少女の言ってくれた言葉もうれしくてーーー微笑む。
「あともう少しだよ。・・・・・・本当に、あともう少しだ。・・・・・・じゃあ、それまでに次の話題。映画で好きなシーン抜粋」
「っ! うん、まず好きな映画挙げよっか!」
楽しそうに楽しそうに少女が語る。楽しそうにーーー幸せそうに。
「オーリ、あのね、わたしーーー」
何度でも、何度でも、少女が自分を選んでくれる。
少女と手を繋ぎ、海も空も越えてついに辿り着いた街の前で顔を寄せ、その深い全てを呑み込む黒い眼に自分が映っているのを見て眼を閉じてーーー
ーーー今までとは違った意味で、少女に触れた。
〈 彼の少女 少女が選んだ彼 〉