彼らの三月
翌日、彼女は退院した。病院に赴くと、ふわりと微笑みかけられる。
「迎えに来てくれてありがとう、ともり」
いつも通り。ーーーまるで昨日のことなどなかったかのように。
それでも、ひとつひとつのことに意味を付けて『くれた』と丁寧に扱ってくれる彼女がーーー好きだ、と、思った。
それは自然な流れだった。
ずっとずっと、彼女を目指して来た。・・・・・・でも、自分を掬い上げてくれたからではない。感謝はしている。けれど、だから恋愛感情に繋がったわけではない。
ーーー好きなのだ。心の底から愛おしい。ーーーただそれだけのことで、世界は輝く。
「手続き終わった?」
「実はあともう少し。ちょっと待っててくれる?」
「うん」
こくりとうなずいて、カウンターに赴く彼女の後ろ姿を見守る。ーーー彼女の親友と共に。
「ともりくんがいてくれてよかった」
ぽつりと落とすように言った三木はーーー親友の姿を、じっと見つめていた。
「ともりくんがいてくれなかったらーーー流石に、今回は危なかった」
「・・・・・・俺じゃなくてもよかったよ。倒れてることに気付ける人間だったら、誰でも大丈夫だった」
首を微かに横に振って答える。少しだけ苦い笑みが小さく漏れた。
「気付きたかったし、気付くべきだった。烏滸がましいけど・・・・・・なにかが起こる前に、気付くべきだったんだ」
少なくても体調不良だったことは気付くべきだった。が、今度は三木が微かに首を横に振る。
「気付くわけないよ。あの子に嘘を吐かれて、気付けるわけがない。ーーーあの子から罪悪感を失くしたら、あの子は立派な詐欺師になれる」
それは自他共に認める一番の友人が告げた、親友への憂慮だった。
「あの子もそれを自覚してる。あの子は本当にーーー嘘が上手い。悲しくなるくらい。自分を傷付ける嘘だって自然と吐けるし、その傷のせいで致命傷を負ってもーーー後悔しない。その傷に痛みを感じる自分を責めるだけで。・・・・・・なかなか、幸せになれない。息苦しい。生き辛い」
それでも、あたたかいものを見るような眼で、三木は彼女を見つめる。
「でもね。・・・・・・あの欲張りを、誰も嫌いにならないよ。傷も痕も痛みも全部ぜんぶ愛して独り占めしようとするあの欲張りはーーーどれだけ辛くても、絶対に愛することを諦めたりしない。忘れたり、しないんだよ」
本当に不器用で、拙くて、稚拙で、陳腐でーーー高潔なひとだった。
なにも考えず、思わず愛してしまう程に。
「俺ね、昨日わかった。ーーーひとを愛するって痛いし、辛いし、覚悟がいる」
わかったこと。昨日漸く、理解したこと。
「みーさんは、俺のことを全然見ていない。そういう風には見ていない。・・・・・・俺はまだ金髪の少年のままで、保護対象で、守るべき相手なんだ。・・・・・・まだ、そこまでなんだ。俺が縋るためにみーさんに触れても、みーさんはなにも言わず受け入れてくれる。抱きしめてくれるし、手も繋いでくれると思う。・・・・・・けど、特別な意味を持って俺が触れようとすることをーーーみーさんは受け入れない」
あの時びくりと震えた彼女の身体。
強張った彼女の身体。
小さくて頼りなくて華奢で、自分と比べて遥かに力のない身体。
その頰に、手に、身体にーーー触れた、ひとがいる。
彼女を愛したひと。
彼女が愛したひと。
彼女の心に身体に肌に、それがそのひとの心のように残る。
受け入れられない。自分なんて到底、受け入れられるわけがない。
「・・・・・・あきらめるの?」
三木の声は不安気だった。少しだけ笑って、首を横に振る。
「あきらめないよ。絶対に、あきらめたりしない。・・・・・・傷も痕も痛みも、過去も今も未来も全部ぜんぶ愛するって決めたんだ」
痛くて辛くて苦しい。
痛くて辛くて苦しくて、ーーーかけがえのない。
何処か遠くを目指し、その深い眼で世界を見るかけがえのない彼女。
「・・・・・・時間、かかるね」
「かかるね」
「大変だね」
「大変だよ」
「まったく、いつまで経っても世話のかかる」
「本当に」
くすくす笑ってーーーそれから、微笑う。
「でも、幸せだ」
「お待たせ。・・・・・・なに二人笑ってるの?」
「別にー。ユキは椎茸が嫌いって話」
「栄養あるのに。今日は椎茸鍋だね」
「えええええ、ちょっと離れた隙にえらいことに・・・・・・」
嘆く彼女の手には、触れられない。少なくても今は。
だから自分は彼女の手から荷物をふわりと攫い、彼女に向かって微笑いかけた。
「帰ろう、みーさん」
いつか彼女が、何処か遠くへ行くまでは。
それはきっと、そんな先の話ではない。
いつか彼女が、後生大事に抱え込んでいた他人の心を置いて、彼女と彼の心だけ持ってーーー彼女のことだけ考えて、何処か遠くへ行ける時まで。
その時までは、一緒に。
少しでも彼女のそばに、行けるように。
〈 少年の三月 少女の三月 青年の三月 女の三月 それからの、三月 〉