君の世界の入り方 3
一緒に暮らしていた他大学に通う幼馴染みのルームメイトに彼女を取られたらしい。帰宅して目の前にあった光景は、親友と彼女の決定的な瞬間だったと。
「ずっと卒業制作ばかりでかまってくれなかった、さみしかった」「こうなってしまったのは自分も悪いけれど、彼女にさみしい思いをさせたお前も悪い」等罵られ、茫然自失して家を飛び出した先に思い付いたのが在学中よく世話になった彼女の存在だったらしい。漸く会えた彼女を見てつい感極まって抱きしめてしまったのだと。赦せるわけがないしそもそも他のところ行け。
「……俺、今日ここで寝ていい?」
「え?」
「客用布団持って来るから」
「……大丈夫だよ?」
「俺が大丈夫じゃないの。気になって眠れない。いい?」
「……わかった」
「ん、ありがと」
あれには一階の和室を充てた。布団と畳、十分過ぎるだろう。
まさか此の期に及んで夜這いなどないとは思うが万が一を考えるだけでぞっとする。あれがいなくなるまではそうしよう。
「……ともり、眉間に皺寄ってる」
「知ってる」
「……怒ってるね……」
「……怒ってはないよ」
嘘だった。今は彼女にも少しだけ怒っている。
結局彼女は数日間だけならとあれの滞在を認めた。歳下に甘い。いつだってそうだった。ーーー見知った相手とはいえ、男の力で無理矢理抱きしめられて怖かっただろうに。見知った相手だからこそ生じる恐怖もあっただろうに。だから奪い返した時、あんなにほっとした様子でされるがまま離れなかったのだ。
彼女は甘えない。甘えて来ない。が、それでも声音にはたじろぐような迷うような色が含まれていた。ここで「怒っている」と言葉にしたらーーー彼女はほんの少しでも、この件に関して甘えるどころか自分に近寄ることもしなくなる。
「怒ってないよ」
彼女の部屋、ベッド上でぺしゃんと座っているその横に腰かけた。ぎしりとベッドが軽く軋み、彼女が僅かに傾く。あれに風呂場を使わせる気になれなかったので自分とあれは近場の銭湯に行き、その間彼女には普通に家で風呂に入らせた。自分たちが帰って来るまでに絶対に自室に引き上げているよう言い聞かせた(メールで確認もして)。だから格好もこの時期によく着る寝巻きのショートパンツに首元のラフなシャツ、ただしその上に先ほど着せたパーカーを羽織っていた。小動物のようで非常に愛くるしいのだが気に入ったのだろうか。
「……あのさ、ともり」
「なに?」
「怒ってないならさ、」
「うん」
とた、と彼女はベッド上を移動した。背後に回り込まれた、と思った次の瞬間、ふわんと軽い重みが背中に寄りかかって来た。するりとやわらかいあたたかさを伴って両腕と身体の間を彼女の脚が滑り込み、まるで大きなぬいぐるみを背後から抱きしめるかのような形できゅうっと力を込められる。背中に頰が埋められ、小さく息を吐かれたのがわかった。
……絶対に真正面からは来ない。抱きしめてもらい安心することを、彼女の心は選ばない。甘えるな、と、彼女が彼女に向ける声がする。
自分から一方的に抱き着くことが精一杯の譲歩なのだ。本当はこれでさえ避けたかったはずで、それでもぎりぎり鬩ぎ合って怒っていないか何度も確認して、恐る恐る触れて来る。……そんなに自分を追い詰めなくても、誰も彼女を責めたりしないのに。
……あの日、自分はもっと残酷なことを彼女にした。傷を抉って、抉って、抉って……それでもまだ足りないとばかりに彼女を力づくで押さえ付けた。……一度も自分を許したことはないし、許されるべきだとも思わない。でもこうやって、彼女が酷く怖がった時こんな風に触れる相手として選んでもらえたことに心の底からほっとしている自分がいた。よかった……本当に、良かった。
背中に感じるやわらかな重みとやさしいあたたかさが、彼女の吐息が、視界に入る細く白い脚が、安心したようにくたりと力を抜き纏う空気が丸みを帯びる。決して自分から彼女に触れず、その吐息が規則正しく安らかなものになるまでじっとしていた。
眠ってしまった彼女を起こさないようそうっと腕を脚を身体を断腸の思いで解き、くるんとそのまま丸くなった彼女をベッドの中に入れた。彼女、眠る時まるまる癖がある。ソファーで眠る時も仰向けに眠っていることはまずない。
頰にかかる髪を梳きさらさらと流して、その長い睫毛が自然に閉じられているのをじっと見る。決して満足することはなかったが満ち足りた気分でそっと立ち上がり、音を立てずに部屋を出た。布団を取ってこよう。あとーーー
部屋の中に布団を運び、再び部屋の外に出る。真夜中もいいところだったが微塵も気にせずスマホのディスプレイをタップした。
ワンコール、ツーコール……五回めのコールでふつっという音と共に声が繋がる。
『ーーー何だ、御影に何かあったのか?』
「ある」
圧し殺した声は怒りをそのまま相手に伝えた。そもそも近況報告で連絡するわけもない相手だ、こんな時間に電話があった時点で彼女に何かがあったことは自明。
「橘とかいう奴が来たよ。俺が帰って来たら彼女がそれに無理矢理抱きしめられてた」
『っ、』
「怯えて必死に逃げようとしてた。それを無視して抱きしめ続けるぐらいには知性も何もかもが足りてない」
『あいつ、彼女出来たってーーーわ、るい、俺が、』
「責めてるんじゃない。これは単なる通達だ」
告げる。ーーー責めてなんかいない。共通の先輩であるらしい真野を、絶対に責めたりは。
責めるも何も、彼女に関する責任はなにひとつ他の男に持たすつもりはない。
責任も覚悟も慰めるのも壊すのも。
全部ぜんぶ、手にするのは俺だ。
「手は打つ。あんたもかわいがってたかもしれねえけど、容赦はしない。……それだけ」
じゃあ。ーーーあってもなくても同じような言葉だけは、間に合わせのように告げた。
返事も待たずに通話を切る。暗い廊下の虚空を、眼を細め睨むようにして睥睨する。
あれは唯一絶対の逆鱗に触れたのだ。




