跳躍時間
〈 跳躍時間 〉
「ーーーえ?」
電源の切られたスマートフォン。その横に置かれたメモ用紙。
丸みを帯びていない、彼女の外見を思うと連想出来ない達筆な文字。
『一週間で帰れなさそうなら連絡します』
たった一言。たったそれだけ。
「ーーーは、」
一瞬で思考は巡り。
メモを握りしめ駆け出した。二階の、彼女の部屋へ。
ばたんと音を立ててドアを開ける。いない。ベッドの布団をめくったがシーツは既にあたたかさを失い、彼女がいなくなってもう長い時間が過ぎたのだと報せて来る。踵を返し階段を駆け下り外に飛び出すと、車とバイクはそのままで自転車だけがなくなっていた。
「ーーーどこ、に、」
どこに。何だよ、一週間って。帰れなさそうならって。一週間どこに行くんだよ。
「ーーーし、しょう」
家の中に戻り自分のスマホを引っ掴んだ。あっちは今何時だとか考えることなく画面に触れ発信する。幸いにも電話はすぐに繋がった。
『もしもし、どうしーーー」
「みーさんがいなくなった!」
『ーーーは』
「一週間で帰れなさそうなら連絡するってメモだけ残して! スマホは置いて行ってる」
『ーーー誰に呼ばれたんだ?』
「呼ばれた? 何で?」
『その書き方なら何となくーーー呼ばれたというか、誰かがミユキを必要になってそのために時間を割いたみたいなイメージだ』
なるほど、確かにーーー冷静な声に自分の思考も回る。なるほど。ーーー誰に?
『ともり。ミユキのパスポートがどこにあるかわかるか?』
「わかる。机の引き出しに前あるのが見えた」
『緊急事態だ』
「わかった」
もう一度彼女の部屋に入りごめんねと呟いてから引き出しを開けた。
パスポートはなかった。
「……ない。パスポートがない」
『海外か』
彼女は海外に行くのに躊躇しないだろう。金銭面と時間の都合さえ合えば。彼女にとって海外へ行くことは敷居の高いことじゃない。英語とドイツ語圏内ならば何の問題もないのだから。
『……ありえない』
「え?」
『ありえない。あの子が飛行機に乗れるわけないんだ……』
「え?」
何でーーーと言いかけ、気付く。
自分と出会ってから彼女は一度も海外に行っていない。
大学三年時も行かなかったようだし、四年時の今だってーーー国内移動は多々あったが海の外には行かなかった。国内移動も全部陸路だ。
「みーさん、飛行機乗れないの……?」
じゃあ今までどうやって海外の家族に会いに行っていたのだろうと思い呟くとディアムは少し黙った。
ややあってーーー絞り出すように、声が僅か掠れる。
『……あれから一度も乗ってない。たぶん、乗れないんだ』
あれから。ーーー自分と彼女が出会う前の話。
彼女と彼女と出会った誰かの話。
「……」
知らなかった。気付きもしなかった。ーーー今回だって。
どこかに何か予兆はあったのだ。それに気付かなかった。きっと完璧に彼女は押さえ込んで隠した。ーーー今まで自分が知らない内にそうされた多くと同じく。
何も言われなかったのなら。素振りさえ、見せられなかったのなら。
出来ることはーーーさせてもらえることはきっと、何ひとつとして与えられなかった。
「……待つしか、ないのか」
呟いた言葉は、迷い子のように心細く揺らいでいた。
いつ帰って来るかわからないことを隠すことは出来ない。
三木に電話で伝えると、一瞬だけ電話の向こうで黙った。
『そう』
数拍置いて、
『わかった』
微塵も揺らいでいない声。
その自信が羨ましくなる。
「……三木さんはすごいね」
『はじめてじゃないからね。書き置きがあるだけまだまし』
「そうなんだ」
知らない話。出会う前の、話。
『不定期に行方不明になるのはここ数年のあの子の癖だから。ーーー今のところは、帰って来てるよ』
無事ではなかったけれど。付け足された言葉に心臓が痛くなる。
いつだって。ーーーどんな時だって。
自分が傷付くことを選べる彼女。
「……」
帰って来ることも、選んでくれたらいいのに。
その言葉は口にせず、ただ胸の中で苦く溶けて消えた。
「えーーー」
四日ぶりに帰って来た彼女は何故だかとてもテンションが高く、謎だけを振り撒いてスイッチが切れたように力を失いぐらりと横に崩れーーー
「っ、みーさん!」
仄明るい室内、その滑らかな黒髪が儚いグラデーションを描くのを夜の夢のように靡いてーーー虚空を切った彼女の身体を捕まえた。
咄嗟に引き寄せ、彼女を抱きしめる形で静止してーーー「ーーーえ……?」その細く華奢な身体を抱えたまま呆然とする。
「……みー、さん……?」
くったりと胸に凭れかかるる彼女の顔を覗き込む。顔色は少し赤い。高揚したように頬は上気していたがあまり健康的には見えず、眼の下にはクマがあった。……ひょっとして四日間眠っていないのだろうか? あわてて首筋に手をやると少し早くはあるがとくとくと鼓動を伝えてくれ、そこで漸く、心の底から安堵した。
しばらくそのままじっと、彼女のあたたかさと心地良さを味わってーーー深く深く、息を吐く。彼女を起こさないようにそっと片手をのばしスマホを手繰り寄せた。
「……もしもし、師匠? みーさん帰って来た」
『よかった……無事か?』
「首のところ怪我してる……ナイフで切られたって……手当はされてる。深くはないみたいだ」
『……そう、か』
「あと何だかとってもテンション高くて、来月一緒に家族のところへ行こうって」
『……飛行機で?』
「……たぶん」
『……ミユキは?』
「スイッチが切れるみたいに寝ちゃった。今ここで寝てる」
抱きしめたままの彼女を起こさないように抑えたトーンで応じると、ディアムも電話の向こうで声を落とした。ふうっと息を吐く音。……漸く、安心出来たようだった。
『そう。そうか。……行っておいで。もし金銭が必要なら出そう』
「大丈夫……だと、思う。……たぶん」
貯金は少しずつ出来ている。だが海外へ行ったことがないので全く値段の想像が付かなかった。パスポートも。本当に難しそうなら短期で時給がいい肉体労働系をしようと心に決める。
『ミユキのパスポートはある?』
「パスポート?」
『スタンプが押してあるはずだ。どこの国に行ったのかわかる』
知らなかった。抱きかかえた彼女のコートのポケットに手を滑り込ます。小さなノートのようなものを手繰り寄せると案の定それはパスポートだった。本当に海外へ、飛行機で行っていたのか。
彼女を落とさないように体勢を整えつつ肩と頬でスマホを挟み片手でページを捲った。彼女の顔写真とサイン、いくつか押されたスタンプーーーそこにあった、四日前と今日の日付のスタンプ。ヨーロッパに存在する王国の名前。世界的に有名な名探偵がいるとされた都市。
それをディアムに伝えると電話の向こうでたっぷりと沈黙された。落としたトーンのまま名前を呼ぶ。
「……師匠? どうしたの」
『……今日回って来たニュースだ。その都市のある貴族の屋敷で死体が発見されたらしい』
「……」
『白骨死体らしい。どういうわけか報道規制が敷かれていてそれ以上の情報は出回っていない。ただーーー貴族が関わる事件だ。大きなニュースになるはずなのに奇妙なくらい静かだ』
「……」
それ、は。
「……誰が」
誰が発見したんだろう?
『……』
腕の中で懇々と眠り続ける彼女。
この細く華奢で小さな身体に、驚くべきほどの力を持つ彼女。
類稀な思考跳躍力と並外れた精神力を持ち世界そのものをそのまま映し呑み込む眼で世界を視る彼女。
白骨死体がそこにあると知っていたわけではないだろうーーー彼女が。
白骨死体がそこにあると知っている誰かに呼ばれたのだーーー彼女が。
彼女を知る誰かが。
『……体調は、良さそうかい?』
「クマが出来てる……たぶん、ろくに眠ってなかったんだろうと思う」
『ゆっくり寝かせて……起きたらまた話を聞こう』
「……うん」
彼女が何も語らないだろうというのは、お互いにわかっていた。
三木にも連絡を入れ(『帰って来て眠ってる? ふうん、叩き起こせ』)、後日家に来る段取りを付けて電話を切る。大きく息を吐いてから少しの間じっとして、彼女を抱え直し立ち上がった。子供を抱っこするような格好でそのまま二階の彼女の部屋へと向かう。換気だけは毎日していた部屋、ベッドに彼女をそっと下ろし見下ろす。カーテンの隙間から差し込む光の下、彼女の肌は透き通るくらい白かった。
身を引こうとして視界の端に引っかかる。眉を顰め指先をのばしてーーー眼を見開き彼女に馬乗りになった。シャツがのびるのも構わず襟元を引っ張る。
「ーーーは、」
肩にくっきりと遺る痣ーーー指の形。まるで背後から思い切り掴まれたみたいに。
あわてて全身を見下ろす。首元には治療痕、シャツを胸下までめくり上げると右脇腹に数カ所抉ったような青い内出血。見覚えがある。これは彼女の自傷癖だ。以前見た時より数は少なかったが確かにそれはあの傷だった。それとは別に服の下は打ち身から出来たような痣だらけで、ジーンズの裾をめくり上げると脚も同じように痣だらけだった。
「うーーーそだ、ろ、」
細く白い指先。気付かなかったが右手の指にはベージュのテーピングが施されていた。何をしたらこんな満身創痍になるんだ。死体を発見するとそうなるのか。
「っ……」
俺のいないところで。
傷付いて欲しくなんかない。
自分が救うと言えるほど傲慢じゃない。
覚悟はとっくに決めてある。ーーーでも。
自分に何も出来ないのはもう思い知っているから。ーーーだから。
唇を噛み締めて、縋りたくなる衝動を堪えた。
俺の知らないところで、彼女は俺の知らない傷を負う。
彼女は眠り続けた。懇々と、本当に四日間一睡もしていなかったかのように。
そして丸一日眠り続け、次の日の朝漸く眼を覚ました。
ぼんやりとした顔だった。
それでも眼だけは水の底の光のように意思を湛えた、そんな輝きを孕んでいた。
「……みーさん」
恐る恐る呼びかける。ぴくりと彼女が微かに揺れ、その長く繊細な睫毛がゆっくりと閉じそして開く。
深い深い眼が、自分を見つめた。
「……おはよう、ともり」
何事もなかったかのように。
小さく微笑まれ言われたその言葉に泣き出しそうになって必死で堪え、溢れそうになる言葉を呑み込んで唇をまた噛み締めた。
彼女が起きる前に自分のスマホに送られて来たメール。
『彼女 傷 残 否
治癒 少 週間
自分 呼 彼女
彼女 応答 自分
自分 認識 君 欲 彼女
逆説 仮定 君 無力 未来
皆無 向上 心
自分 彼女 迎
忘却 否』
漢字だけの言葉の羅列。ーーーそれでも、言いたいことはわかった。
唇を噛み締めて、スマホをきつくきつく握りしめる。
抉り出したその言葉は、宛先エラーで届くことはなかった。
彼女は何も話さなかった。
何も。
やって来た三木に平謝りし、こちらもどこからともなくやって来た担任にも謝りーーーいつも通り。
いつも通りに。
「……」
ソファーに腰掛け、天井を見上げる。
どこか遠くで、外の空気の音。
かちゃりとドアが開き、風呂上りの彼女が入って来たのがわかった。
「ともり、お風呂ーーー」
言葉が奇妙に途切れ、
沈黙が下りる。
「……」
沈黙を破ったのは、
「わっ」
彼女だった。ぴょんっと跳び隣にぺちゃっと座る。ぼふっというやわらかい着地音。「え、なーーー」なに、と言う前にふわっというよりかは些か早く彼女の顔が近付いた。思わず動けなくなって固まったこちらの額に彼女が軽く頭突きを入れる。痛みはそれほどではなかったが予期していなかった分ダメージはあった。
「った……え、どうしたの……」
「ふは」
「みーさん?」
「ふは」
「……みーさん……?」
「ふは」
「……」
唇を少しだけむっと結んで、何やら少しご機嫌な彼女の両肩を掴む。怪我していたんだと思い出し腕にスライドさせ、仕返しとばかりに顔を寄せた。
ちゅ。
同じく頭突きを食らうだろと思い眼を閉じていた彼女が、ふわっと眼を開く。
額に口付けられた彼女がややあって、困惑気味にじわじわと眼を上げる。
「残念。乗ってあげません」
怒っていいんだよという彼女からのメッセージは、受け取ったそのまま違う形に変えた。
怒っているわけではない。ーーー彼女に。
焦っているだけ。ーーー自分に。
早く。早く早く。
早く、彼女を追いかけられる力を。
「怪我治ったらみーさんが一週間風呂掃除当番ね。あと換気扇も。それから窓拭きーーーは、二人でやろう」
「はい……」
「それから」
「うん?」
「苛っとは来たから復讐」
「ふ? く……ふ、は! くしゅ、くするったい! うったい!」
ぺいっとソファーに押し倒していい眺めなポジションを陣取って触れた。ぴゃあぴゃあ騒ぐ彼女をさくっと無視して戯れ合うように擽る。怪我に響かないよう、けれど彼女が逃げられないくらい躊躇せず。
傷付くことを選ぶ彼女。
傷付くことを平気で選べる彼女。
知らない場所の、知らない時。
知らない誰かと、負った傷。
「……みーさん」
「ふ、ぁ?」
「噛みたい。噛むね」
「ふあっ?」
顔を寄せてーーー華奢な首筋。
その誰かに対抗するように、今度は唇を噛み締めず口付けるようにして痕を残した。ーーー誰が。
誰が離すかよ。
絶対に。
だから見てろ。ーーー見せてやるから。
ほら。ーーー黙って、見てろ。
〈 跳躍時間 沈黙と雄弁 〉




