いつかまで、あと、
ここから先の物語は、『セイリオスの逃亡』に関わる話になります。
どうぞ、そちらを読まれてからお読みください。
〈 いつかまで、あと、 〉
タイミングを見計らって、算段を練った。
「みーさん」
「なあに?」
制作部と精算しなきゃなあと呟きつつレシートを整理していた彼女が顔を上げた。ダイニングテーブルに散らばっていたレシートは今はひとつに纏められ、メモ帳には求められた数字が書き込まれていた。
「作業終わり?」
「うん。クランクアップしたし、あとは打ち上げだけ。ふはー、長かった。二ヶ月。うん、我ながらよく頑張った」
彼女は心底ほっとしたように気が抜けてふにゃりとした笑顔でこちらを見上げて来た。社会人二年目ーーー二十四になった彼女だが、相変わらず年相応には見えない。高校生くらいに見える。
これで自分より学年は三つ上なのだから世の中おもしろい。並んで歩けば必ず自分の方が歳上に見られる。それは逆にうれしいのでいいのだが彼女にとっては不服らしい。「私の方がお姉さんなのに」とぶつぶつといつもーーーまあ、『お姉さん』として見たことは一度もないからそれでいいのだけれど。
「お疲れ様。しばらく休むんでしょ?」
「そうだね。来週からまた動こうと思ってるけど。・・・・・・なにか用事がある?」
こきりと首を傾げた彼女ににっこりと笑いかけ、覗き込むようにして近付いてその華奢な首の後ろに両腕を回した。
「いちゃいちゃしたい」
「・・・・・・」
印象的な大きな眼が触れそうなほど近くでゆっくりと瞬いた。そして、
「・・・・・・は?」
「いや『は?』じゃなくて。いちゃいちゃしたい。いちゃつきたい。スキンシップ。同居人として」
「・・・・・・いやいやいや同居人とスキンシップはしないよ」
「じゃあ在宅ストーカーとして」
「もっとしないよ」
「だってさ!」
「ひゃっ」
「だってさ、二ヶ月! 二ヶ月もみーさんと触れ合ってない! 俺のみーさんと!」
「に、二ヶ月前も触れ合ってないよ」
「細かいところは置いといて!」
「う、うん」
「いちゃつこうよみーさん!」
「う、うーん」
黒目がちな大きな眼が困惑気味にうろうろと彷徨う。なんというか、信頼している相手に対してはどこまでも流され易いところは出会った頃から変わっていない。畜生。有難いしそういうところもかわいいんだけど畜生。外でも流されてないだろうな。
「い、いちゃ・・・・・・スキンシップ? として。なにするの? いやしないけどさ」
「一緒に映画観る」
「・・・・・・それなら確かに二ヶ月前もしてたね。うん、いいね、なにを観よ「抱っこして」」
眼を見開かれた。
「と、ともりを抱っこするの? えーと、・・・・・・や、約二時間?」
「違うよ! なんでそっち側に回ろうとするかなかわいいな! 俺がみーさんを抱っこするの!」
「な、なるほど! 却下!」
「なんで!」
「重いから!」
「撮影で四キロ痩せたって言ってたじゃん! いやそれも問題なんだけどさ!」
「ぐ、ぐう・・・・・・!」
「それにみーさん重くないから! 抱っこ! 抱っこさせて!」
「だ、抱っこしてと強請られたことはあってもしたいと強請られたことはなかった・・・・・・!」
「強請られたことあるのっ? 誰だよそいつふざけんなくそ「トウマがまだ小さい時」微笑ましいね! その時の写真とかある?」
にっこりと微笑むと彼女はじとっとした眼で見て来た。いやごめん。大丈夫、弟くんには嫉妬したりはしません。だって滅茶苦茶気持ちのいい奴じゃん。普通に好きだし良好な関係を築いてるよ。しかも幼少期でしょ? かわいい話じゃないか。写真是非見たいのであとで見せてね?
「た、体重は置いておいて・・・・・・だ、抱っこは流石に・・・・・・」
「じゃあハグ!」
「ハグっ? 二時間も?」
「いや、もう我儘は言わない。短時間」
「ど、どのくらい?」
「ぎゅーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー、くらい」
「わ、わからない・・・・・・」
うろうろと視線を逸らされたのでむっとして「みーさん」と呼ぶとのろのろと視線を合わされた。こちらを見上げてくるので自然と上目遣いになる。ああかわいい。ずっと見ていたい。
「じゃあさ、膝枕。膝枕しよう」
「・・・・・・ひざまくら?」
「うん、膝枕」
いいでしょ? と微笑みかけるとかくりと彼女は頭を落とした。やり取りに疲れたのかあきらめたのか疲れたのか疲れたのか、まあ結局のところ自分の勝ちだ。
彼女の手を引いてソファーへ行き、ぽすりと座ってぽんぽんと膝を叩いた。それでも逡巡するように彼女が身じろいだので一度手を離し彼女をひょいっと抱えるようにしてソファーの上へやる。
「ひゃ」
驚いて声を上げた彼女をぽすんと倒して膝枕の状態まで持って行った。困惑気味の彼女をさくっと無視して背もたれにかけてあったストールを彼女の身体にかける。
「・・・・・・ありがと?」
「いーえ」
「・・・・・・これ、どのくらい?」
「うーん、三十分くらい?」
「・・・・・・さんじゅっぷん・・・・・・?」
長くない? とでも言いたげな彼女をふたたびさくっと無視して肩に手を置いた。ぽんぽん、と小さく叩く。
「本当は今すぐ閉じ込めて保護してどろどろに甘やかして俺だけのものにしたいんだけど、それはまた今度にしようね」
「そんな夕飯のメニュー繰り越すみたいに言われても・・・・・・」
「しょうがないよ。俺の持つ独占欲も保護欲も性欲も愛情も全部みーさんに向いてるんだから」
「特にひとつコメントに困るのがあった」
「しょうがないよ三大欲求だよ? 結局は子孫繁栄歴史を繋げるってことなんだからさ。そう考えると大事だよ」
「ん・・・・・・そうだね」
「それにさ」
「? なあに?」
「俺が無理。他の女」
「ん・・・・・・」
「『女なら誰でもいい』とか聞くけどね。実際そういう男はいるだろうけどーーー俺レベルの女嫌いだと無理。嫌悪感の方が先に来る」
ふつり、と、軽く前髪を引かれた。
視線を落とすと彼女がふわりと手をのばしこちらの前髪を軽く摘んでいた。
心配そうな顔。小さく首を横に振って微笑み落とし、その手を取って頰に触れさせた。
「・・・・・・誰でも良くないからさ」
「うん」
「みーさんとがいいな」
「・・・・・・」
そっか、と、
口の中で小さく呟かれたのが、わかった。ーーー今はそれで十分だった。
なんとなく、静かになってーーーそれからしばらくして聞こえてきたのは小さな寝息だった。その吐息が規則正しく穏やかなのを確認してそっと微笑む。
愛情をほとんど音にならないくらいの吐息でささやいて、額の端に唇を落とした。
二ヶ月。
二ヶ月だ。
一緒の家に暮らしていてもほとんど顔を見ることが出来なかった二ヶ月。
彼女の仕事は心配だが、それに文句を付けようなんて思わない。進む彼女をいつまでも見ていたい。ーーーけど。
ーーー終わったらこうして独占したいと思う程度には、足りなくなる。
不足して。
渇望して、戯れ合って、満たされる。
自分が齎した高校時代の人間関係の問題を彼女や友人たちも巻きこみ過ごしたあの夏の日からすぐ、彼女は長期仕事に入った。
だから話せていない。あの日あの夜彼女がくれた言葉を、欲をーーー触れ合って気持ちにしたくて。
抱きしめたい。キスしたい。それ以上のことだって。
少しずつ少しずつ。自分を伝えていって。自分の中で精一杯心を込めて作り上げた気持ちを伝えていって。
いつか聴けるかな。聞きたいな。
愛してるよって。
ともり、愛してるよってーーー
立岡弥子の足音が余韻を残して消えた。
大きな眼を見開き、呆然と立ち尽くす女。
鶴野天音
ーーー立岡弥子がどうしても守りたかった存在。
なにを犠牲にしても。
どれだけ苦しくても。
立岡弥子が自分のことを好きでいないのははじめから知っていた。ーーーあの眼は見たことがある。
誰かを愛おしく思っている眼だ。
本当に愛している眼だ。
それがどれだけ辛くても苦しくても痛みを伴っても、決して決して、愛することをやめたりしない眼だ。
弱いけれど、決して、なににも敗けない眼だ。
ーーーそういう女に弱いんだよな、と胸中でひとりごちる。愛する彼女といい愛すべき妹といい。
自分の女嫌いにも、例外が出来た。
「・・・・・・中学時代、クラスメイトからからかわれる立岡さんを庇ったんだってね」
「・・・・・・それが」
鶴野天音の声は震えていた。震えていたが、そのままで張り上げていた。
ぐらぐらと揺れた、けれど芯のある声だった。
「それが、なんですか。ーーーたったそれだけが、なんですか」
顔を上げて。睨むようにまっすぐこちらを見据えて。
その眼を受けて、微笑った。
「たったそれだけだ。ひとが聞いたらそれがなにと笑ってしまうような取るに足らないものだ。ーーーそうだよ、たったそれだけ」
たったそれだけ。
それだけ。
「ーーーでも、立岡さんは笑わなかった」
しんと静まり返る。
ここにはもう、あの波のようなあたたかく愛おしいノイズはない。
「立岡さんは笑わなかった。たったそれだけのものを後生大事に抱えて、そしてなにかを返したいと必死に足掻いていた。形振り構わず全力で、見苦しいくらい必死になって。ーーー鶴野さん」
温度を込めて、言葉を紡いだ。
「鶴野さんはそれを笑う?」
沈黙。
どこか遠くから、風に葉が流れる音。
「・・・・・・時間くれてありがとう」
また、とは言わなかった。それは鶴野天音が決めることだ。
近付く。すれ違う。遠去かる。ーーー振り向かない。鶴野天音も恐らく振り向かない。
鶴野天音にとって必要な人間は自分ではなく、あの不器用でお人好しで頑固な自分の元カノなのだから。
外へ出ると少しだけぬるくなった風がふうっと駆け抜けて行った。少し風が強い。ーーー恐らく彼女のいるところほどではないだろうけれど。
「・・・・・・七ヶ月ぶりかあ」
七ヶ月ぶり。彼女と別れたあの雨の日から七ヶ月。
重ね着していた季節は薄手のシャツに変わりつつある。
「・・・・・・また無茶してないといいけど」
体重は減ってないだろうか、病気はしていないだろうか、怪我はしていないだろうか。あっちは拳銃社会だ、ああくそ護身用にナイフ持たせとけばよかった・・・・・・ナイフも銃もある程度なら扱えるんでしょ? あんまりそういう話してくれなかったけど知ってるよ。
なにも持たず自分の心だけ抱えていった彼女。
逃げていて。その心がどこかに追い付けるまで。
大丈夫。あなたがどこまで逃げてどこで迷子になろうとも、大丈夫。
「大丈夫」
大丈夫なんだ。
聴覚ではなく心に甦るのはノイズ混じりのあのやさしい声。
広い広い世界のどこかで今深呼吸している彼女の声。
ーーー愛してるよ
「ーーーうん」
うん。
ーーー知ってる。
〈 いつかまで、あと、 いつかから、あと、 〉




