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少年の三月



ふしゅうふしゅうと音を立てる炊飯器からは米の炊けるあたたかい匂い。今日は朝炊くことにした。

出汁が少し濃くなり過ぎてしまったけれどなんとか作れた味噌汁。焦がすのが怖くて何度も覗き込んで焼け具合を確認したアジの開き。彼女が大好きなほうれん草のおひたし。目玉焼きの形は涙目になってしまったが、黄身の半熟具合と固まり具合は我ながら自信があった。それにサラダを付け合わせ全部テーブルに並べ、何度も目視で確認してしっかりとうなずく。

出来た。

とんでもない満足感とーーーそしてそれ以上の高揚感。気が急いでエプロンを外す手が覚束ない。わたわたとそれを外して椅子にかけ、彼女を呼びに行こうと階段を足取りも軽やかに登る。

この家に戻って来て、正式に一緒に暮らしはじめて数日。はじめて最初から最後まで自分で調理した。

朝食なのでメニューはささやかだが、それでも全部ひとりでやったことには変わりない。

・・・・・・よろこんでくれるかな。わくわくとしながら階段を登り切り、部屋の前まで辿り付きノックをしようとした瞬間ふと思い当たりーーーか、と顔に血が上る。

あれ。ちょっと待て。待て。

今は朝だ。いつもなら彼女も起きてとっくに下で朝食の準備やらをやっている時間だが、今日は寝坊してしまったのだろう。それでいい。ゆっくりしていてほしい。

でも、でもだ。ということは今ノックしたところで彼女から返事がないかもしれないということか。もう起きていて着替え中なら返事はあるだろう。自分は朝食が出来たことをドア越しに伝えて下に戻ればいいのだから。紳士的に。彼女に恋する健全な同棲人として。

だがしかし、もし仮に今もまだ彼女が眠っていたとしたらどうすればいい。起きるまで寝かせておいてあげたいが、彼女は今日予定があったはずだ。そろそろ起きなければこの後のスケジュールに支障が出る。落ち着いて朝食を食べてほしいし、となると自分が今起こすのがベストだ。

起こす? どうやって? ドア越しに声をかけるだけで起きれるか? そもそも返事がない時点でどうすればいい? 入る? 部屋に? 許可なく? 眠っている彼女に声をかけに? ということは寝顔を見ることになる? なんだその朝からご褒美なうれしいイベント。耐え切れるのか自分。

どうしよう。寝顔なんて見てしまったらそれはもう彼女が起きるまで見つめていたい。彼女に誓ってなにもしないから自分の手で抱きしめて至近距離でその姿を見つめて穏やかな時間を過ごしたい。嘘。本当はなにかしたい。けれどそれはまだ早い。早いからしない。いつかはする。きちんと同意を得てたっぷりと時間をかけてそれはもうお互いに幸せな時間を一緒に過ごす。奮発してどこか景色のいいホテルとかでもいいけど、やっぱり家がいいな。彼女と過ごす大事な場所だから。彼女とのはじめてなんだから、ぎりぎりまで考えて素晴らしいものにして一生の思い出にしたい。どれだけ先の話かわからないが、今から楽しみで仕方がない。

・・・・・・で、その、今だけれど。どうするか。

「・・・・・・みーさん、起きてる?」

こんこん、とノックする。返って来るのはーーー沈黙。身動きする微かな空気すら伝わって来ない。

「・・・・・・みーさんー」

ノック。

返事はない。

「みーさん、起きて。朝食出来てるよ」

ノック。

返事はない。

「みーさん、起きないと部屋入るよ? 出来れば避けたいんだけど」

ノック。

返事はない。

「・・・・・・別に嫌とかではないんだけどさ。みーさん、起きて」

ノック。

返事は、ない。

「・・・・・・」

蕪木灯。覚悟を決めろ。

「・・・・・・頑張れ、俺の理性」

天を仰いで呟いて、そのドアを開く。

片付けられ整った部屋。カーテンは開いたままで、朝の白い光が部屋を満たしている。

その部屋の中に、彼女はいた。

ベッドに横たわらず。

まだ夜や朝は酷く冷える、その中で。

その黒い髪が川のように広がる中。

青白い顔をした彼女が、瞼を閉ざしていた。

「・・・・・・みーさん?」

呟く。呟いて、呼吸を殺されてーーー眼を見開く。

「みーさん!」

その数歩を駆け寄った。床に落ちた彼女を抱え上げ、顔にかかる髪を退けてーーーぞっとした。

酷く冷えている。

体温が低い。ないわけではもちろんないが、いつか抱きしめた彼女の持つあたたかさはどこにもなかった。

「みーさん、みーさん! みーさん起きて! みーさん!」

全力で叫んでいるのに、彼女が眼を開けることはなかった。ぴくりと瞼が動いたが、ただそれだけ。思惑もなにもないまま顔を近付けると微かな呼吸音が聞こえた。息はしている。生きている。ただ目覚めないだけで。

「っ・・・・・・!」

ベッドから毛布を剥がし彼女を包んでその身体を抱き上げる。過去彼女の心を無視して押し倒した時に、その身体の小ささと華奢さは目の当たりにしていた。けれども今はその時よりもぞっとする。こんなにも、こんなにも彼女の身体は軽かった。

彼女を落とさないように最速で階段を降り、大股で玄関に向かった。車のキーを取り玄関を飛び出てリモコンでロックを解除する。後部座席に彼女を横たえて運転席に飛び乗った。エンジンをかけながら震える手でスマホを操作しアドレス帳からひとつの番号を呼び出す。数コールで電話は繋がった。

『・・・・・・もしもし、どうした?』

「師匠、助けて。みーさんが」

『ともり? ミユキが?』

「みーさんが起きない。返事しない! びょうい、今から病院行く、どうしよう、みーさん、みーさん死ぬの? なんで、なんでこんな、」

『ともり!』

電話の向こうで名前を叫ばれてーーー黙る。

『・・・・・・落ち着け。大丈夫。ミユキは息をしてるのかい?』

「してーーーる。してる」

『眠っていて起きない? 意識が戻らない?』

「うん、返事、ない・・・・・・」

『今運転中かい? 病院に行くんだろ?』

「そう、車、俺、今車運転してる」

『病院の場所はわかるかい?』

「わかる。大きな病院がある」

『ともり。とりあえずまずスピーカーフォンにするんだ。危ない』

赤信号で停まり、言われた通りに操作した。スマホを横に置く。

『病院まではもうすぐ?』

「もう着く。この信号の先」

『着いたら先生にまず任せて、落ち着いたら日本にいるミユキの親しいひとに連絡するんだ。心当たりあるね?』

「ある・・・・・・三木さん、三木さんに連絡する」

『そう、じゃあミキに連絡するんだ。大丈夫、ミユキの友達なら絶対に助けてくれる』

「わかった。・・・・・・なにがあったんだ? 昨日まで普通だったのに、」

『・・・・・・』

「師匠?」

『・・・・・・大丈夫だよ。少し・・・・・・少し、ミユキは疲れてるだけなんだ』

「ーーーなにが、あったの」

『・・・・・・大丈夫。さみしくて、心細かっただけなんだ。きっと。大丈夫だよ、ともり』

「師匠」

『・・・・・・』

「師匠」

『・・・・・・』

「俺、みーさんが好きだ。ーーーみーさんを、愛したい。過去も今も未来も傷も痕も全部ぜんぶ愛したい。そう決めた。・・・・・・ねえ師匠」

彼女に、

「なにが、あったの」

『・・・・・・一年前の、今頃』

ぐらぐらと揺れている声だった。ディアム自身、まだ傷もなにも塞がっていない、痕にもまだならない生々しい傷を晒している声だった。

『ミユキを心から愛して、ミユキが心から愛した男がーーーいなくなった』

いなく、なった。

自分と彼女が出会ったのが一年前のおよそ一週間後ーーーあの時、泣き腫らした眼をしていたがなにからも眼を逸らさなかった彼女。

いなくなった。失った。ーーー永遠に。

「・・・・・・みーさんは」

自分も消えようと、した?

『違う。・・・・・・違う。ただーーーどうしようもなく、辛かっただけだ』

その答えは、当たっていた。

病院に辿り着き、医者に彼女を診せてわかったことは、睡眠薬の摂取。

きちんと処方された薬で、過剰摂取もなにもしていなかったらしい。

だがしかし、数日間ろくに眠っていなかったことと、ろくになにも食べていなかったことが災いした。弱っていた身体には適量の睡眠薬は効き過ぎで、深い昏睡のような眠りになってしまったらしい。

時間が経てば目が覚める、と言われ、点滴を受けながら眠り続ける彼女を見つめる。三木にはもう連絡し、一度家に寄ってもらってからこちらに来てくれるという話だった。

ベッドサイドにある椅子に腰かけ、恐る恐る彼女の手に触れる。

微かな体温。いつもより低いそれ。青ざめた顔のまま眠る彼女。

どんな夢を見ているのだろう。

夢の中では、会えているだろうか。

「・・・・・・」

なにも食べていない。・・・・・・食事は、摂っていた。一緒に食卓を囲んだ。彼女の手作りのあたたかい料理を。

食べたあとーーー吐いて、いたのか。

同じ家にいて

なにも気付かず、彼女のそばにいられる幸せに目が眩んでいた自分。

「・・・・・・みーさん」

わかった。感じた。ーーー思い知った。

「・・・・・・これが『好き』なんだ」

わかった。ーーー彼女の気持ちが。

失うとあまりにも辛い。

立っていられなくなる、世界が音を立てて崩れる絶望感。

彼女の世界はーーー崩れたのだ。

愛し愛されたひとを失って。ーーー眠ることも、食べることもろくに出来なくなるくらい。

「・・・・・・ごめんね」

それでも自分は。彼女を失いたくない。

ーーー例え彼女の心が微塵も、自分のことを見ていないとしても。



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