怖いものの話をしようか 6
お父さん似ね、と、子供の頃言われたことがある。その時はそれがお世辞なのか真実なのかはわからなかった。
今だから言えることがある。似ていたくない。
あんな恐ろしい、自分の手を汚さずひとを傷付ける人間にーーーあんな黒いひとに、塵ほども似たくないのだと。
規則正しい揺れの中、凭れたドアを伝いずるずると崩れ落ちた。この時間電車は空いている。もう電車は発車した、席に着けばいいーーーわかってはいたが、身体に力が入らなかった。なんとか立ち上がろうとするのに足も手も自分の役には立たず、ただ温度を失って冷たくだらりと下がっているだけだった。
どのくらい乗っているのか。どのくらい走ったのか。わからない。アナウンスすら、耳に入らなかった。
「・・・・・・お兄ちゃん、大丈夫か?」
遠巻きに見ていたのかもしれない。乗客のひとりの、スーツ姿の中年の男が目の前に屈み込んだ。スーツ。ホームの向こうに見たあのひとと重なりぞっとした。込み上げてきた嘔吐感にえづき、必死で抑え込む。
「大丈夫か。顔真っ青だぞ・・・・・・次の駅で降りるか?」
ぶんっと首を横に振った。降りる? とんでもない。少しでも遠くへ行かなきゃいけないのに。
嫌だ。
嫌だ。
捕まる。また、捕まる。
不幸にされる。俺はーーー俺はもう、不幸にならないのに。二度とそれを、選ばないのに。
「大丈夫か・・・・・・喋れるか? 名前、言えるか?」
なま、え
口を開けてーーーかひゅっと、震える吐息しか出なかった。ーーーあれ。
声が。
「・・・・・・しゃべれ・・・・・・ない、のか?」
そんな馬鹿な。ふるふると微かに首を横に振り、声を出そうとーーー出ない。
息が震えるだけで。
声も、音も、なにも。
「 」
眼を見開く。
ああ。ああ、どうしよう。
なにも失いたく、ないのに。
身体が弛緩する。ーーー絶望して。
視界が歪む。ーーー悲しくて。
どこまで逃げても、自分は。
俺は。
俺が誰だか、わからなくなるんだよ。
吐息が溢れたーーー瞬間、
ばあん、と、勢い良くーーー連結扉の開く音が、した。
「ーーーともりッッ!」
顔を上げるーーー心を呼ばれて。
息を切らした大声ーーー名前を呼ぶ声。
自分の名前ーーー俺の名前。
何度でも、何度でも、あなたが俺を呼ぶ。
「ーーーっ、」
みーさん。応えたはずの声はーーーやはり、声にはならなかった。
が、彼女は気付いた。真っ直ぐにこちらに視線を、水の底の光をすべて呑み込んだ、世界のすべてを呑み込むその眼が光を映し、真っ直ぐに走って来てーーーその手が、自分に触れた。
抱きしめられる。強く、強く。ーーーあたたかくてやさしくて小さなかけがえのない身体で。
「ともり。大丈夫、大丈夫・・・・・・大丈夫だよ。迎えに来た」
「っ・・・・・・、っ、」
「うん。うん。大丈夫。何度だって、何処にだって迎えに来るから・・・・・・大丈夫だよ」
僅かに身体を離した彼女が両手で頬を包み込んでくれた。あたたかい。本当にあたたかくて、心が満たされる。
「帰るよ、ともり」
ーーー心が、勝手に、呼応した。
「ーーーう、ん・・・・・・」
ぼろりと涙が零れてーーーその雫を見て、彼女がやさしくて微笑った。
「・・・・・・さ・・・・・・みー、さ・・・・・・こえ、でない・・・・・・」
「大丈夫。出てるよ。それに出なくても大丈夫。出なくてもさっきちゃんと聞こえたから」
「でない・・・・・・やだ、みーさん、よべな・・・・・・」
「そう? でも大丈夫。聞こえたから。大丈夫。御影さん、意外とすごい時あるんだよ」
「・・・・・・しってる・・・・・・でも、や・・・・・・ちゃんと、よびた・・・・・・」
「うん、わかった。ーーー大丈夫だよ。大丈夫。ーーーともり」
やさしくやさしく微笑った彼女が、そっと、耳元でささやいた。
「帰ろう、ともり」




