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親愛なる隣人


〈 親愛なる隣人 〉



ずっと空き部屋だった上階にその少女が越して来たのは、冬がはじまった時だった。



「・・・・・・あっ」

住むアパートのエレベーターから降りた時、袋から零れた林檎がてんっと床に落ちた。荷物を抱えたままそれをどうにか拾おうとすると、細い手が自分より先にそれを拾い上げる。

あら、と思い顔を上げるとーーーそこには東洋人の少女がいた。

「こんにちは」

にこりと微笑みかけて来た黒髪の少女は、印象的な深い色の眼でこちらを見てそう言った。にこりと微笑み返す。

「こんにちは」

はじめて見る顔だった。このアパートに新しく越して来たのだろうか。

「お荷物、重たそうですね。よかったら手伝わせてください」

「あら、ありがとう。それじゃあお願いしようかしら」

にこりと微笑んで少女がうなずき両手をのばす。抱えていた荷物をその腕にそうっと預けると、少女は大事なものを抱えるようにその荷物を包み込んでくれた。

「こっちよ。・・・・・・あなた、上の階に越して来たのかしら?」

「はい。今日越して来ました。ユキ・ミカゲです。よろしくお願いします」

「リタ・グリーンよ。よろしくね」

並んで廊下を歩き出しながら自己紹介をする。自分の子供よりもさらに若い少女。学生かしらと、首を傾げる。

「上って言うと・・・・・・スコットさんとお知り合いなのかしら?」

「はい。友人です」

なるほど、とうなずく。

上の階の部屋はスコット氏の持ちものーーー今はその孫が管理しているはずだ。

管理しているといっても住んでいるわけではなく、定期的にハウスキーパーに掃除をしてもらっているようだった。そこの部屋を少女に宛てがったらしい。

「日本から来たのかしら?」

「はい。日本人で日本育ちです」

「言葉、お上手ね」

「ありがとうございます。養父がこの国のひとなんです」

なるほど、と納得する。少女の言葉遣いは自然で綺麗だった。

「ありがとう、この部屋よ」

「よかったら中まで運びます」

「本当にやさしいのね。ありがとう」

鍵を開けドアを開け、少女に中に入ってもらう。中に入った少女がくるりと振り返った。

「荷物は、こちらに?」

「ええ、お願い」

キッチンに荷物を置くと、少女は微笑んだ。

「素敵なお部屋ですね」

「ありがとう。ーーーよかったら、お茶を飲んで行かない? 甘いものが嫌いでなければ、今朝焼いたアップルパイもあるわ」

「大好きです。お言葉に甘えても?」

「もちろんよ」

微笑み、礼儀正しい少女にダイニングテーブルを促す。が、少女は首を横に振った。

「お手伝いさせてください」

「あら、いいのよ。お客様をもてなすのは老人の数少ない楽しみなの。どうぞ、座っていて?」

「・・・・・・ありがとうございます」

にこっと微笑み少女は腰かけた。丁寧な少女に、素敵なお客様だわ、と、心が華やぐ。

「日本人が丁寧で礼儀正しいのって本当なのね」

「ああ・・・・・・どうでしょう、そう在りたいとは思っています」

「あら、あなたは丁寧で礼儀正しい日本人よ」

「本当ですか? うれしい」

かわいらしく笑う少女に微笑み、お茶を淹れる。美味しくなるまで待って、とっておきのカップにそれを注いだ。

アップルパイを切り分けて、カップとお揃いの皿に乗せお盆に揃え少女の元へと運ぶ。

「お待たせしたわね。さあ、どうぞ」

「素敵なカップですね。それにいい匂い。ーーーいただきます」

ふわりと軽く眼を閉じ、お茶を口にした少女が少し驚いたように眼を開く。

「おいしい」

「よかったわ。パイもどうぞ」

「はい」

パイを口に運び、うれしそうな顔になる。

「パイもおいしいです。ありがとうございます」

「いいえ。さっきはとても助かったし、うれしかったのよ。ユキは・・・・・・学生さんかしら?」

「いいえ、二十四です」

「あら、とっても若く見えるわ。日本人だからかしら?」

「それもあると思うんですけど・・・・・・日本でもわたしは幼く見られていました」

小首を傾げて少女が答える。かわいらしい仕草だった。

「補導されないように気を付けるのが目標です」

「あら」

くすくすと笑う。久々のお客が若く、利発でユーモアのセンスもある少女であることは素敵なことだった。

「ここの辺りは治安がいいのよ。だからスコットさんもあなたにここを紹介したんでしょうけど。でも上の階は、ここより作りが広いからひとりでは広過ぎるかもしれないわね」

この階は同じくらいの広さの部屋が三部屋あるが、上の階は一部屋しかない。家族で住む広さの部屋だった。

「ええ、広過ぎてびっくりしています。荷物をそんなに持って来ていないのでもっと広く感じそうです」

「そうなの」

若い娘さんにしてはめずらしいわ、と思った。

「はい。実はわたし、ほとんど家に居ないんです。・・・・・・あちこちに行く予定で」

「あら、そうなの」

だからこそスコットが部屋を与えたのかもしれない。本拠地を定めさせないとどこまで行ってしまうと考えたのではないだろうか。

「はい。数ヶ月に一度は帰って来ると思うんですが。・・・・・・予定は未定で」

「そうなのね。よかったら帰って来た時、旅のお話をしてくれないかしら? こんなお茶とパイでよければ、いつでもご馳走するわ」

「本当ですか? うれしいです。この国に住むのははじめてなので、グリーンさんみたいなご近所さんがいてくれてほっとしました」

「よかったらリタと呼んで。わたしも、この年になって異国の友人が出来てうれしいわ」

「ありがとう、リタ。なにか素敵なものを見付けたらあなたに買って来ますね」

うれしそうにそう言った少女がーーーふと、黙った。考えるようにーーー想いを馳せるように、時間を置く。

「あの。ーーーリタ」

「なにかしら?」

「気に留めておいて欲しいことがーーーお願いが、あります」

「ええ、なあに?」

「わたしがいなくなったあとーーー何年かしたら、もしかしたら。・・・・・・男のひとが、上の階に住むかもしれません。・・・・・・そうなると、思います」

「日本人かしら?」

「はい。・・・・・・その子のことをーーーその、彼のことを。ーーー気にかけてくれませんか? しっかりしてる、けど。でも・・・・・・異国の地で、慣れないことも不安なことも・・・・・・あると、思うから」

ふわりと、不安そうにーーー少しだけ、心細そうに。

心配そうに。ーーー愛おし、そうに。

「ーーーわかったわ」

微笑んで、うなずく。

「安心して。あなたの大切なひとをーーー素敵な隣人を、見守るから」

ほっとしたように。

少しだけ、安心したようにーーー少女がうなずく。

「ありがとう。ーーーありがとう、リタ」

「いいえ。ーーーその彼は、どんなひと?」

「やさしいひとです。本当に、やさしいひとです。・・・・・・やさしく、してくれます」

「あなたのことを本当に大好きなのね、その彼は。ーーーあなたが彼を好きなのと同じくらい」

その言葉に少女は頬を染めた。眼を逸らし、気恥ずかしそうな顔でーーーそれでもこくりと、うなずいた。




それから数日後、少女は部屋をあとにした。少女の言う通り、数ヶ月に一度か半年に一度しか帰って来ない。

それでも、部屋にいる貴重な数日間の内の一日は必ずリタの部屋を訪ね、この国のあちこちで撮った写真や話をしてくれた。数ヶ月に一度訪れるその素晴らしい日に腕を奮ってケーキを焼くのも、恒例になった。

旅を続ける少女。なにかを探すように、なにかを求めるように旅を続ける少女。

ーーーそれから約二年経った、ある日のことだった。



「・・・・・・あっ」

エレベーターから降りた時、袋から零れた林檎がてんっと床に落ちた。荷物を抱えたままそれをどうにか拾おうとすると、細いがごつごつとした腕が自分より先にそれを拾い上げる。

あら、と思い顔を上げるとーーーそこには東洋人の青年がいた。

「こんにちは」

にこりと微笑みかけて来た黒髪の青年は、鉱石のような黒い眼でこちらを見てそう言った。にこりと微笑み返す。

「こんにちは」

はじめて見る顔だった。このアパートに新しく越して来たのだろうか。

「お荷物、重たそうですね。よかったら手伝わせてください」

「あら、ありがとう。それじゃあお願いしようかしら」

にこりと微笑んで青年がうなずき両手をのばす。抱えていた荷物をその腕にそうっと預けると、青年は細いがしっかりとした腕でその荷物を包み込んでくれた。

「こっちよ。・・・・・・あなた、上の階に越して来たのかしら?」

「はい。今日越して来ました。トモリ・カブラギです。よろしくお願いします」

足を止めて、その青年をまじまじと見上げた。

「・・・・・・どうかしましたか?」

整った顔立ち。国が違っても、青年の顔がとても精悍なのがわかった。

やさしいひとです。本当に、やさしいひとです。・・・・・・やさしく、してくれます

愛おしそうに少女が語った、少女の大切なひと。ーーー少女を大切に思う青年。

ふわりとーーー微笑いかけた。

「いいえ、なんでもないわ。・・・・・・リタ・グリーンよ。この階に住んでいるの。よろしくね。困ったことがあったらなんでも声をかけてちょうだい」

「ありがとうございます。ミセス グリーン。この国に住むのははじめてなのですが、安心して暮らせそうです」

「よかったらリタと呼んで。トモと呼んでいいかしら?」

「はい、リタ。これからよろしくお願いします」

微笑む青年にーーー少女を思う。やさしいひとね、と、胸中で呟いた。

やさしいひとね。ーーーあなたと一緒で、本当にやさしいひとね。

「荷物をありがとう。よかったらお茶をしていかない? 今朝焼いたパイがあるの」

「本当ですか? よければお言葉に甘えたいです」

「ええ、是非。・・・・・・日本の話をしてくれないかしら?」

「はい、もちろん」

そしていつか、聞かせて欲しい。

あなたがどれだけ、少女を大切にしているのか。



青年が部屋に住むようになってから、少女は青年がいる時は部屋に帰って来なくなった。

いじらしい。不器用で拙くてーーー必死になって、向き合おうとしている。



大切だから。本当に、大切なひとだから。

だからこそ時間がかかることも、あるのだ。




〈 親愛なる隣人 親愛なる、あなたへ 〉



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