その名前を隠して
〈 その名前を隠して 〉
そういう眼をするようになったのは、夫が死んでしばらく経ってからのことだった。
「幸」
名前を呼ぶと娘はふわりと顔を上げた。年齢相応のまだ幼い顔付き、ぱっちりとした大きな黒い眼がこちらを向いてーーー微笑む。少し、疲れたように。
最近、こういう顔を見ることが多くなった。ーーー名前を呼ぶ度に。
「・・・・・・こんばんは、義姉さん」
静かな口調でそう言いながら夕方と夜の間にやって来た義弟は、無表情ながらも少し居心地の悪そうな顔付きだった。
彼の兄である夫はいつも微笑みを絶やさない穏やかな顔付きで、義弟はいつもどこか薄く無表情で比べると取っ付き難く感じるが、義理堅く律儀でフランクに接してくれるので友好関係も広い。娘の幸も「おじさんおじさんねえおじさん」と彼がやって来た時はその後ろをちょこちょこと追いかけ回している。
「久しぶり。お仕事忙しいの?」
「ん、今はそこまでは」
「ならもっと来てくれればいいのに。前みたいに」
「・・・・・・」
視線を外そうとして、外し損ねた。そんな顔をした。
「まあいいわ、で、今日はどうしたの? 話があるってことだったけど」
「・・・・・・今週の日曜、幸を海に連れて行っていいですか」
「海?」
「こないだ会った時どこか行きたいところはあるか訊いたら、海に行きたいって言ったので」
「そう、海に・・・・・・」
初耳だった。考える。ーーー海。本人も行きたがっているというし、とてもいい気分転換になりそうだった。
「お願いしてもいいの?」
「大丈夫です」
ほっとしたように義弟がうなずいた。
「大丈夫です。ーーー日曜、また、迎えに来ます」
「うん。ーーーお願い」
お願い。
夜、学校から帰宅した幸とお風呂に入る。もうとっくにひとりでお風呂に入れる子ではあったが、ここ一ヶ月程で事情が若干違って来ている。
左耳の裏に残るまだ生々しい傷跡。
段々薄くなるとはいえ、一生残ると言われていた。
その傷跡になるべくお湯がかからないように髪を洗うのは、まだ幼く短い腕を持つ娘にとってはなかなか難しいことだった。
「幸、流すよ」
「ーーーはい」
ふ、と、呼び戻されたように幸が答える。なにかを考えていたのかーーー無意識に思いをどこかに馳せていたのか。
何度かお湯をかけ髪をすすぎ、完全に泡が落ちたところでそのやわらかく濡れた髪をひとつに纏めてやる。今は濡れてよくわからないが、いつもならーーー失った夫と、同じ儚い髪の色をしている。
並んで湯船に浸かりながら、今は黒々としているその髪を見てーーー口を開く。
「今度の日曜、海に連れて行ってくれるって」
「え?」
「幸がそう言ってたからって」
「・・・・・・ほんとう? うれしい」
唐突だったが、幸は少しだけはにかんだ。すぐに消えた笑顔だったが、それでもそのやわらかさは本物だった。
「うん。お礼言わなきゃね。・・・・・・泳ぎたいの?」
「ううん。こわいからいい」
ふるりと小さな頭を横に振る。泳げる子なので水を怖がっているわけではない。傷口を海水に濡らすのを怖がっているようだった。確かにまだ生々しい傷口を海水に晒すのは怖い。
「海が見たいの。空とか、船とか、飛行機とか」
「そっか。カメラも持って行く?」
写真を撮るのが大好きな娘だ。明るい声音でそう聞いたが、幸は笑いもはにかみもせず首を横に振った。
「ううん。ーーー要らない」
怪我をしたのは一ヶ月ほど前。
公園で一度別れ家に戻り、もう一度公園に向かう途中で、頭から血を流し今にも転びそうな足取りでそれでも走り続けようとする娘と遭遇した。
なんの悪夢かと、思った。
呼びかけても答えず、譫言のように、けれど眼だけはきらきらと光を映し、なにかをすべて呑み込んだその眼でーーー何度も同じことを、繰り返す。
お願い。
誰か守って。ーーー守って、あげて。
ーーー誰を? 誰を守って欲しいの?
傷を抱え、大量の血を流しながらまるで祈るように繰り返し続けた娘。
ーーー誰を守って欲しいのかは、わからない。
けれどその日から、幸い頭に異常はなく抜糸も済み元気になった今でも娘はあの公園に行かない。少年に会わない。
ーーーまるで必死に、守っているように。
波の音が耳に迫る。心地よく聴覚を満たし、すうっと心が軽くなる。
見渡す限り広がる、青。
握った小さな手をきゅっと握ると、幸もまたきゅっと握り返して来てくれた。
やって来た日曜日。海ーーーだった。
「・・・・・・広いな」
「・・・・・・広いね」
「・・・・・・広いねえ」
全身に風を受けながら、瞬きすることすら惜しく、広がる世界を受け入れる。
「・・・・・・いいのか、砂浜じゃなくて」
「うん、いい」
ひと多いだろうし、と海から眼を離さず言う娘は年の割にはどこか達観していた。
堤防の上に腰かけた娘を見て、義弟と少し離れたところでそれを見守る。
「・・・・・・幸、どう?」
「・・・・・・落ち込んでる」
あまり笑わなくなった。
公園に行かなくなった。
名前を呼ぶと、疲れたように微笑むようになった。
それでもーーー毎日学校に行き、日常を過ごし、ーーー心配を、かけないように。
「・・・・・・」
じっと、その眼を開いて海を見続ける娘。
ーーー幸。
幸福たる者。幸せたる者。
ーーー呼ぶと、辛そうに、する。
「・・・・・・」
なにを守っているのか。なにを押し隠しているのか。
わからない。ーーーわからない、けれど。
立ち上がってーーー隣に、腰かけた。
「・・・・・・どう? 海は」
「・・・・・・気持ちいい。来れてすごくうれしい」
「そっか」
さらさらと流れ、その色を変える髪をーーー夫の色をそっくりそのまま受け継いだその髪を撫でる。以前ならくすぐったそうに笑って戯れ付いて来たが、今は背筋をのばしてひとりで芯を正している。
「海と空と船と飛行機が見たかったの?」
「うん」
小さく、けれどしっかりとうなずく。
「どうして?」
「・・・・・・見ておこうと思って」
静かに静かに、ーーー幸は答えた。
「広くて、遠いから。ーーー見ておこうと、思った」
広がる海に、続く空。それを越える飛行機に、どこまでも進む船。
どこかーーー遠く。
ここではないどこか遠くへと続く、遠くへの行き方。
生き方。
「・・・・・・」
いつか。いつか娘は、幸は。
どこか遠くへ行くのだろうなと、その時はっきりとわかった。
押し殺す。抑えて秘める。ーーー大切なこと。
守りたいこと。大事にしたいこと。
隣に在る、小さくて華奢で頼りない身体。
ひとりで抱え込んで、絶対に離さない。どんな小さなものでも後生大事に抱え込む心。
覚悟をーーー決めた。
「・・・・・・幸」
「なあに?」
「幸は、幸って名前好き?」
幸の黒い眼がーーー夫にも、自分にもない、すべてを呑み込みそのまま映す黒く深い眼がーーー海と空と世界の輝きを抱き、自分を見る。
「うん。大好き」
「ーーーそう」
ならいい。そうならば、いい。そう思ってくれているのなら、うれしい。
「ねえ、ユキ。ーーー引っ越そうか」
あなたの心すべてが抱えるもの。
ひとりで抱え込まなくていいんだよ。ーーーそう言っても娘は、きっと笑うだろう。
困ったように、疲れたように小さく笑うだろう。
それが出来ない。ーーー不器用で、息苦しく、生き辛い。
だったら、少しでも楽にさせてあげたい。少しでも息苦しくないところへ連れて行ってあげたい。
名前を呼ぶと苦しむように。ーーーその名前を隠して、心からの気持ちを込めて。
ミユキ。ーーーユキ。
「お母さん」
ユキが微笑む。疲れたような、それでも少しだけ昔を思い出させる、悪戯っぽい笑みを薄く乗せて。
「叔父さん、ありがとーって言いながら背中押したら叔父さんびっくるするかな」
「・・・・・・びっくりするんじゃないかなあ」
「やってみる」
手加減した少女の力に押されて落ちる義弟ではないだろう。だから、放っておいた。
止めなかった。ーーーそれは、よく海に連れて来てくれた夫もよくやっていたことだから。
わあっ!
わああっ! びっくりしたあ! お父さん、落ちちゃうよ!
あはは!
落とすわけないだろうと、夫が娘を抱き上げる。
きゃっきゃとうれしそうに声を上げる娘が、父親を見てーーーそれから、こちらを見る。
お母さん!
「うわっ! 落ちるだろ!」
「落ちないよー」
戯れ合う二人が、娘が、こちらを見る。
「お母さん」
ふわりと微笑む。ーーー流れる、儚い色の髪。
「・・・・・・っ、楽しそうね、混ぜてー!」
「親子して俺を落とそうとしないで! 押すなユキ!」
「あっ見て飛行機雲」
「聞け!」
堪えて、呑み込んで、押さえ込んで。
それでも長く、生きていこう。ーーー進んでいこう。
大丈夫。ここではない、どこか遠くへ行ったあともーーーわたしたちの娘は、きっと幸せになれる。
大丈夫。どれだけ辛くとも、幸せに向かって努力し続けられる。
進み続けられる。ーーーわたしの大好きな、あなたのように。
〈 その名前を隠して その名前で、呼んで 〉




