名前のない手紙
〈 名前のない手紙 〉
弾む足取りで歩く。心は浮き足立って、足はついつい駆け足になる。
無闇に走ると危ない、転ぶぞ。気持ちはよくわかるけど、お前が手にしたものは失くならないんだから、自分のペースで来な。・・・・・・一緒にいる時言われた言葉を思い出し、駆け足になりかけた歩調を早足で抑える。・・・・・・ついつい走り出したくなる理由を知っている自分の兄にそんな言葉をもらったのだから、もう、天まで昇るくらいうれしい。
お前が手にしたものは失くならない。・・・・・・ずっと、居てくれる。京子がなにを恐れているのかきちんとわかった上で、やさしい言葉をかけてくれるひとがいる。やさしくて、あったかくて・・・・・・京子のことを想って言ってくれる言葉。ふわふわとして、心地良くて、くすぐったくて、幸せ。愛されていると、心の隅々までが感じられる。
「ーーーただいまっ」
歩調はなんとか抑えても、その顔までは抑え切れなかった。持たされている鍵をかしゃんと開けて、玄関にぴょんっと入る。
慣れ親しんだ一軒家。きれいに整えられているのは家主が代わった今も変わらない。あたたかい雰囲気は自分の姉が残したそのままだ。
そのままだがーーー今はしんとしていた。兄がいる時間なのだが、いつもある出迎えがない。不思議に思いつつドアを閉めてきちんと鍵をかけ、中に上がった。リビングへ続くドアをそうっと開ける。
「ただいま。ーーー蕪木?」
兄を呼ぶーーー電気は点いておらず、外光だけが部屋に差し込むほんの少し薄暗い室内、その青年は、兄は、ソファーに横たわり目を閉じていた。
「・・・・・・」
音もなくドアを閉め、そっと近付く。・・・・・・いつもは磨かれた鉱石みたいな、けれどどこか野性味のある色合いの眼が自分を見下ろして来るのだけれど、今は目蓋に閉ざされている。長い睫毛が外光を受け細く繊細な影を落としていた。
男のひとなのに女のひとよりもきれいな肌。形良くのびる眉に、艶やかな漆黒の髪。
(・・・・・・綺麗だなあ)
見たことのないレベルで顔立ちが整っている。見慣れはしたが、いつも思う。・・・・・・女のひとが黙っていないだろうが、基本女が苦手であまり好きでなく女性の影はいつもない。・・・・・・心に決めて追い求めているひとがいるから。
兄の心に決めた女性ーーー自分にとっての姉を思う。
肩より少し長い黒い髪。けれど日の光を浴びると繊細なグラデーションを描き、その髪は綺麗な茶色へと変わる。考えごとをしている時など無造作にそのやわらかい髪をくしゃりと小さくいじる。もしかしたら本人はあまり意識していないかもしれないが、そうするとふわりと色が変わって見ていてとても綺麗なのだ。兄はよく、眩しいものを見るようにその仕草を見つめている。
髪もさることながら、姉は眼も印象的だった。どこまでも深い色合いの黒い眼に見つめられると、受け入れられている安堵感を覚える。ほっとして微笑うと、姉はいつもにこりと微笑み返してくれる。
顔は自分と同い年に間違えられるくらい幼い。海外に行ったらさらに幼く見られているだろう。
(海外・・・・・・かあ・・・・・・)
今は海の向こうにいる姉を思う。今はどこにいるのだろうか。またひとを拾っていたりして。そう思うと少し嫉妬してしまうし、でも姉らしいなとくすくす笑いたくなる。
姉は今、少し疲れている。
自分たちにとってはとんでもないレベルの事件に巻き込まれ、単なる被害者として関わりーーーそして命を賭けて事件を解決し、この国をあとにした。
兄曰く、それだけが原因ではないらしい。あの事件に纏わることは姉の心残り、気がかりではあり、きっかけではあったけれど、それだけが原因でここをあとにしたわけではない、と。
いつかどこか、ここではないどこか遠くへ行くことは決まっていたのだと。
なんにせよ、姉は少し、疲れてしまっていてーーー今は逃亡中の身にある。その心を休めるために。そこで国内ではなく国外に飛び出してしまうのが姉のすごいところだ。普段は比較的大人しめなのにたまに比較的さらっと大胆なことをやってのける。
(・・・・・・さみしいだろうな)
眠る兄を見下ろして、小さく胸が締め付けられる。
兄は本当に姉のことが好きだ。自分にとっては姉と兄であるけれど、二人にはもちろん血の繋がりはない。自分にとって、二人が一緒にいるのを見るのはとても幸せで、・・・・・・それがずっと続くといいと、思っている。
自分も姉と離れてさみしい。さみしい、けれどーーー兄の方が、きっともっともっとさみしい。・・・・・・それを京子に見せたりはしないけれど。
いつか姉がソファーで眠っていた時、姉は背もたれと向かい合うようにして横向きに身体を横たえて眠っていた。・・・・・・今それとそっくりそのまま同じ体勢で眠る兄に、・・・・・・なんて、声をかけたらいいのかーーーわからなく、なる。
「・・・・・・あ」
小さく、声を上げる。ソファーの前のローテーブルに置かれた分厚い本ーーー異国の言葉で書かれた本。
なにが書いてあるか。なにを兄が目指しているのか。ーーーそれを理解して、目頭が熱くなる。
「・・・・・・ん・・・・・・」
気配を感じたのか、兄が微かに声を上げて、・・・・・・ゆっくりと眼を開いた。その真っ黒な眼が京子をぼんやりと視界に映し、眉を顰める。
「・・・・・・え、なに。どうした。なんでキョウ泣いてるんだ」
「ふっ・・・・・・う、ひっく・・・・・・」
「どうした。なにがあった。虐められたか?」
上体を起こし、腕をのばして軽く京子を抱き寄せぽんぽんと頭を撫でる。どうした、と、低くてやさしい声が訊ねる。
「大丈夫。大丈夫だ。ーーーお前の手にしたものは、絶対に失くならない」
それは。
姉のことであり、兄のことであり、自分の大切なひとたちのことでありーーー京子が本当に大切にする全てのこと。こくこくと何度も何度もうなずき、それから首を横に振る。
「だーーーだいじょう、ぶ。だいじょうぶ。・・・・・・なにがあったわけじゃ、ないの」
「そうか」
「ただーーー少し、さみしく、なって、」
「ーーーそうか」
宥めるようにやさしく背中をあたたかい手が叩く。そうか、と、穏やかな声がうなずく。
「絵葉書、来たんだろ?」
「・・・・・・うん、来た」
声が小さくなる。『元気? 体調には気を付けて』と書かれた絵葉書。名前はない。ただその文だけが書かれたポストカード。
知っている。ーーー兄には一切、なにも届いていないことを。
どうしてだろう。どうしてだろう。
姉は、姉だってーーー兄のことを、大切に思っているはずなのに。
どうして、兄だけ。
「蕪木、はっ・・・・・・さみしく、ないの?」
姉と兄が暮らした家。
そこに残り、暮らし続ける兄。
音沙汰はなにもない。周りの人間にはあるのに、自分にだけ。京子なら、さみしくてさみしくて、仕方ない。
「・・・・・・さみしいよ。会いたいし、会って思い切り抱きしめたい」
言葉を隠すことも飾ることもなく兄が言った。その声には少しだけ笑みも混ざっていて、少し驚きながら小さく身を引く。
そうやって向かい合った兄は、京子の眼からこぼれる涙を少し困ったような顔をして指先で拭ってくれた。
「でも、これが最大限の甘えなんだなって思うから、うれしくもある」
「・・・・・・あまえ?」
すん、と鼻をすすりながら問うと兄はうなずいた。
「そう。甘え。・・・・・・今あのひとはじぶんのことに必死で、周りを考える余裕なんてないはずなんだ。なのにこうやって絵葉書を送ってくれる。・・・・・・でも、ひとりに一通しか来ない。もうぎりぎりなんだ。余裕なんてないんだ。それでもなんとか、力を振り絞ってあのひとは周りを気にするんだ。・・・・・・それがあのひとのやさしさだから。不器用で、息苦しくて生き辛くてーーーでもそれが、あのひとだから。
そんなひとがね。そんなやさしいひとが、俺にだけなにもないんだ。俺にだけ一切なにも言って来ないんだ。・・・・・・甘えてるんだよ。俺にだけは、甘えてくれてるんだ」
ーーーそれは本当に不器用で下手くそで切実なーーー姉の甘え方だった。
笑わない。笑わない。笑ったり、しない。
こんなに拙くて、こんなに真剣な想いをーーーどうして、笑ったり出来るのだろう?
穏やかな貌で微笑う兄の顔を見てーーーぼろぼろと涙が零れる。
ーーーああ、『その時』はきっと、ずいぶんと前に終わったのだ。
京子の知らないところで、姉と兄はーーー二人は、大切な言葉を交わした。
だからもうなにも怖くない。なにも疑わない。ーーーただ信じて、自分のすべきことを最大限の力で乗り越えていけばいい。
信じている。信じられている。
どれだけ時間をかけても、どれだけの距離を離れても、ーーー一瞬たりとその心が途切れたりは、しない。
揺るがない。
絶対に揺るがない、大切な気持ち。
「・・・・・・蕪木も、きっと、ここじゃないどこか遠くへ行くよ」
「・・・・・・そう?」
「うん」
「そっか。ーーーありがとう」
小さく微笑って、くしゃりと髪を掻き混ぜられる。
「でもキョウ。俺たちがどこか遠くへ行ってもーーーそれはなにも、怖いことじゃない」
「え?」
「どこに行ってもお前の手にしたものは失くならない。いつどこにいようがお前は俺の妹だし、お前はみーさんの妹だよ」
みーさんは俺の姉じゃないけど、と付け足される。一瞬きょとんとしてーーーうれしくて、本当にうれしくて、大きくうなずいて微笑んだ。涙が弾け、零れたがーーーそれはもう、新しい涙ではなかった。
「おかえり、キョウ」
「ただいま、蕪木」
「じゃあ早速だけど、いちごのシェイクかさくらんぼのシェイクかどっちか選べ」
「どうしよう、兄が残酷・・・・・・!」
いつか兄も、ここではないどこか遠くへ行く。
大丈夫。怖くない。
ねえ、ユキ。
元気だよ。なにも怖く、ないよ。
〈 名前のない手紙 来ることのない、手紙 〉




