少年の二月
〈 少年の二月 〉
あ、忘れてた。そう思ったのは自分の愛すべき親友のうれしそうな笑顔を見た時だった。
「吉野ありがとう! 味わって食べるね!」
「あー、うん、心して食べなね」
「うん!」
「八倍返し待ってる」
「どこから出て来たのその数字!」
「私、八人に渡したから」
「な、納得したような疑問が増えたような、」
ま、まあいいや。来月楽しみにしててね、と、狼狽えつつも結局笑顔で言った親友にうなずいた。あとで電話しよう。
たまに近況報告をして来る少年に電話すると、その少年の声は電話越しでもわかるほど沈み切ったものだった。しょんぼりと項垂れているのだろうなあと思うと素直に申し訳なくなる。
「やほ。元気、ではないね」
『・・・・・・そりゃそうですよ』
低い力無い声。溜息が電話の向こうで下の方に転がり、少年の期待値が大きかったことを知らせて来る。
『・・・・・・みーさん、なにか作ってましたか?』
「なにを?」
『・・・・・・チョコとか』
訊かなくてもわかるだろう、とでも言いたげな気配をこれでもかというくらい押し出しながら少年が問う。いやごめん、つい。いじめてるつもりはないんだ。
『・・・・・・今日、バレンタインですよね』
そう、今日は世の中の男女が浮かれる日。甘いお菓子や選んだプレゼントが飛び交い、愛であれ恋であれ思いを伝えたり伝えられたりする日。
今現在、親友から離れた場所で暮らす少年のことを思う。高校に通う少年は、転校生であるものの恐らく非常にもてているのではないのだろうか。受験生ではあるが市販のチョコくらい胸焼けするほどもらっていそうだ。
「誰にももらわなかったの?」
『・・・・・・叔母からはもらいましたよ。チョコレートケーキだったので、デザートに一緒に叔父叔母と三人で食べました』
「おいしかった?」
『非常に。レシピ今度教えてもらう約束しました』
みーさん甘いもの好きですよねと続ける少年は、親友に作ってあげる気満々らしい。器用そうなので料理もすぐ上手になるだろう。
「他のひとにはもらわなかったの? 学校とか予備校とか」
『くれようとしてくれたひとはいましたけど。断りました』
「全部?」
『全部』
「泣かれなかった?」
『・・・・・・なるべく丁寧に断りました。好きなひとがいるから受け取れないって』
まあ告白を『要らない』『必要ない』と断っていたという過去からすれば格段な変化だ。
『叔母は特別だから、それはまあ別枠だろうと』
「ああ、うん、いや、他の子からもらっても不誠実にはならないと思うよ? 付き合ってるわけではないんだし」
『『今はまだ』付き合ってないだけです』
ぶすっと拗ねたような声音で少年が言った。
『絶対逃がさないって決めてるんです。何年かかっても』
ちょっと愉快になってしまうくらいの強さだった。少年が卒業して親友の家で正式に暮らすことになった暁には自他共に認める在宅ストーカーになりそうだった。
『で、三木さん。みーさんチョコ作ってたんですか? 作ってて俺にはくれなかっただけですか?』
「もしそうだったらどうするつもりなの?」
『変わりませんよ。そっちに戻った瞬間から口説き続けるだけなんで』
なにこの子本当強い。
『真野にあげてたら真野は吊るし上げます』
「なにそれ真野さんかわいそう。・・・・・・いや、安心しな、真野さんも誰も、それこそ私ももらってないから」
『三木さんも?』
少し驚いたように少年の声が上がった。
『え、みーさん誰にもあげてないんですか? 友チョコとか楽しそうにやってそうな気がしてたんですけど』
「うん。誰にもあげてない。その点に関しては我らが愛すべきクラスメイトを代表してF組三十六番三木 吉野が謝ります。非常に申し訳ない」
『どういう?』
「あの子の中でバレンタインはあげる日ではなくてもらう日です」
『・・・・・・? あ、義父が外人だから?』
「ああ、あっちだと男女逆も全然あるみたいだね。・・・・・・そうじゃなくて、本当、私たちのせい。あの子高校時代からバレンタインはあげる習慣ないの」
『・・・・・・なんで?』
「そもそも愛すべきクラスメイトたちと同じクラスになったのは二年と三年だったんだけどーーー最初の年、二年のバレンタインの直前ね。あの時あの子、風邪ひいちゃって。休むほどではなかったんだけど、この状態でひとにあげるもの作るのはなあって言って自主的にやめたの。でも友チョコ自分も作って交換したかったみたいで、当日山ほどチョコもらってもなんとなくしょんぼりしてて」
手作りのお菓子をもらう度にうれしそうだがどことなくしょんぼりする親友。自分も自作のお菓子を持って来て参加したかった、と、その表情全てで語る。
「ほら、私たち、自分たちの手であの子を狼狽えさせて困った顔させるのは大好きだし大好物なんだけど、あの子が落ち込んだり他の誰かに困らされたりするのは大っ嫌いで」
『うん』
「だからクラスメイトが慰めるつもりで言ったの。『全員が全員バレンタインに渡してちゃつまらないから、ひとりくらいホワイトデーのお返し側がいた方が楽しいよ』って。その結果、あの子は『そっかっ!』って顔したあとにこにこきらきらの笑顔になってもらう側のバレンタインを楽しみました。ホワイトデーには張り切ってお菓子を作って愛すべきクラスメイトに配ってました。三年時も、卒業してからもそれは同じ。二月に会えばあの子はもらう側だし、三月に会えばあの子は渡す側です」
電話の向こうで少年が絶句した。それから絞り出すような声で、
『っていう・・・・・・こと、は・・・・・・俺がなにか渡すべき・・・・・・だった・・・・・・?』
「ああ、うーん、今回は受験生だし離れてるし、違うんじゃない? ただ、もらえなくて落ち込む必要ないよって話」
『うわあ・・・・・・みき、さん・・・・・・それ早く言って・・・・・・』
「ごめん、忘れてた。ごめん」
『俺・・・・・・もう、期待してたからショックでショックで・・・・・・』
期待していたのか。一応試験は全て終わってあとは結果待ちの状態とはいえ申し訳ないことをしてしまった。
『来年は、絶対・・・・・・絶対、渡す・・・・・・』
「う、うん。そうしてあげて? 勢い余って押し倒したりしないでね?」
『努力する・・・・・・同意得てからにする・・・・・・』
「同意、するかなあ・・・・・・」
『何年かかってもしてもらう・・・・・・させてみせる・・・・・・』
恐ろしく顔立ちの整った男に一途に思われるなんて世間一般的に見て女として幸せなことのはずなのに、どうしてこうも鬼気迫るものを感じるのだろう。不思議だ。
「まあ・・・・・・だからさ、三月にきっともらえるよ。でさ、もしあれだったら来年の二月にあの子になにかお菓子でもあげてあげて? すっごくよろこぶよ」
『滅茶苦茶重要な情報ありがとう、三木さん』
「どういたしまして」
『出来ればもう少し早く聞きたかった』
「だからごめんて」
それから数日後、受験結果が発表された。
少年は見事、親友の家から通える国立大学に合格し、翌月の頭高校の卒業式が終わった次の日にはもう親友の元へ駆け戻った。
去年の今と同じ二人で、けれど少しだけ関係を変えてーーー邂逅し、今度は正式に一緒に暮らしはじめた二人。
親友と少年。
少年が楽しみにしていた三月のその日も、親友が楽しみにしておいてと言っていた三月のその日も、実際には来ることはなかった。
なにが原因なのかはわからない。なにがそこまで親友を追い詰めたのかも、まだわからない。またわからない。ーーー親友が顕著な動揺を見せたのは去年の年始、決して、三月ではないのだ。
なにがあったのかわからない。なにがそうさせたのかわからない。
けれど、あの、親友が音信不通の行方不明となった年始から一年と少しが経った、三月のある日。
親友が二十一になって数日後。
ホワイトデーを前に、親友は倒れた。
部屋からは、睡眠薬が見付かった。
〈 少年の二月 親友が隠した三月 〉