長いお別れ
〈 長いお別れ 〉
「いやあ、ごめん、飲ませ過ぎた」
「Guten Morgen. Ich möchte das Hund-Wandern」
舌ったらずなのに妙に流暢な発音ーーーしかも英語ですらない。
ふわふわと焦点をうろつかせる教え子を見てちょっと驚いたように青年が眼を見張る。
「三木さん、目離したの?」
「離してないよう。一緒にしこたま飲んだの」
「ああ、ブレーキじゃなくアクセルだったのか・・・・・・」
かくりと青年がうなだれ、先ほどから違う意味で言葉が通じない教え子に手をのばす。
「みーさん、来て」
「はあい」
素直にそう返事して青年の元に進もうとした教え子がよろりとよろめいた。咄嗟にそれを支えるとそこが到着点だとばかりに腕の中で丸くなる。青年の顔が不機嫌そうに歪んだ。
「みーさん、違うよ。そっちは妻帯者の担任だよ。生徒と教師のしかも浮気は流石に不味いから俺にしときなさい。そうじゃなくても俺にしときなさい」
「こいつもう社会人だから関係ないけど」
「うるさい妻帯者! 取るな!」
「自信ないのか」
「んなもんこのひとの前では一切ない! 毎日必死だ!」
「・・・・・・そりゃ上場」
答えて、腕の中ですやすやと眠る少女にーーー元少女に視線を落とし、ため息を吐いた。
同窓会、と言う名のクラス会。大体年に二回もあるので最早同窓会という言葉は相応しくない。仲良いなお前ら。
担任である自分も毎回招待されているので、タイミングが合う時は参加するーーーのだが。
今回は途中参加だった。それがいけなかった。
到着する頃には、参加した三十二人中二十人はべろんべろん状態だったのだ。
そこまで酒に弱かっただろうかと少し驚きながら、もう社会人になった教え子たちを見渡しテーブルに残っていた酒を口に含む。ーーー眉を顰めた。定員が分量を間違えたのかわざとなのかとても濃い。他のグラスもそうだった。いつものペースで飲んだら確実にアウトだ。
酒なんて一杯飲めば味も濃さも曖昧になる。だからこそ気付かずいつものペースで飲んでーーー結果がこれだ。死屍累々。本当楽しそうだなお前ら。
「比較的しっかりしてる奴はいるかー」
「はーい。ここに十二人ー」
「よーしいいぞー」
「でも要くん来たしあとは任せて自分たちも潰れちゃおうかなって考えてるー」
「よーし相変わらず逞しいなーお前らー。先生安心したぞー」
生き残った十二人の中がひとり、三木を見つける。その三木にくたっと凭れかかっているもうひとりも。
「ユキは潰れた組か」
「あーうん、お酒なんか濃かったよねー? 気付いて控え目にしたんだけど、その前のが来ちゃったみたいで」
「そうか。吐いたりしたか」
「大丈夫。他のも今のところ平気」
「そうか。・・・・・・ユキ、起きれるか」
「んぅ・・・・・・」
両頬を手で挟み持ち上げる。くにゃっとした顔の御影がふうわりと眼を開けた。
印象的な黒い眼が、自分を見る。
「・・・・・・かなめくんだ」
ふにゃっと、うれしそうに微笑った。
「・・・・・・そうだよ、要くんだよ。良かったな」
「うん」
子供のように素直に笑ってうなずきーーーそれからくたっとうつむく。
「こいつはもう限界だな。勘定済ませて出よう。その前に家近い奴ら同士組ませて割り振って」
「うん。私やって来る。ユキあげる」
「はいもらった」
任せたとばかりに渡された御影に楽な体制を取らせる。取らせたのだが不満だったようだ。眼を閉じたまま難しい顔をしてごそごそと動く。
「動くな」
「・・・・・・やだ」
「やだじゃねえよ、俺今三木からお前もらったの。今お前俺のだからじっとしとけ」
「・・・・・・はあい」
眼を閉じたまま不満そうな顔をして、それでもしぶしぶうなずく。くったりとこちらに凭れかかった体制で動かなくなった。
薄っすらと化粧しているが、幼い顔立ちーーー社会人になったのに中学時代から変わらない。
「・・・・・・相変わらず童顔だなあ、お前」
「は? うるさい」
中学時代のワードに反応したのか、口調も中学時代に少し戻ったようだった。端的で少し冷たくも感じた、あの短い言葉。
「嫁の貰い手・・・・・・は、あるみたいだけど。逃すんじゃねえぞ」
「・・・・・・そういうのじゃないから」
「いや、そういうのじゃないと逆に困る。あれ逃して変な男に引っかかられても」
「・・・・・・ともりは一般的じゃないよ」
「尋常な愛情かもしれないが、まあそういう意味では大丈夫だろ。しばらく寝かせてもらえないかもしれないけど」
「は、うるさい」
「まあそれは散々待たせたお前のせいでもあるから精々頑張れ」
「う、る、さ、い、って、ば、セクハラ教師」
ぐりっと頭で腕に攻撃された。別に痛くも痒くも無い。ただ相変わらず小さい身体だなと、そんな風に思った。
「・・・・・・俺がお前を選ばなかったことを後悔しないように、お前も頑張って幸せになってくれよ」
「・・・・・・要くん、わたしを幸せに出来るの」
「馬鹿だね。そのくらいの甲斐性はあります」
あったかもしれない未来。
訪れなかった未来。
後悔は無い。幸せだ。ーーーだから今、少女の幸せを願う。
「お前はなかなか、幸せに成り辛い性格をしてるから。・・・・・・生き辛くて、息苦しい」
「・・・・・・」
「だから。・・・・・・俺らが見てる時だけにしとけ。弱るのは。・・・・・・いくら三月だからって、無理に酒飲むなよ」
「・・・・・・」
ぎゅ、と握りしめられた拳。ーーーなにも握らない。握ろうと、しない。
少女が不安定になる三月。
自分の手から離れた少女が出逢った三月。ーーー少女が傷付いた三月。
その傷がもどかしい。
その傷を知らない自分が腹立たしい。
「・・・・・・寝たのか?」
返事はない。握った拳は、そのままにーーーもう少女ではないはずの自分にとっての少女は、小さな規則正しい寝息を立てていた。
「送ってくれたのは感謝してる。夜女性が二人で歩くなんてとんでもない。だから感謝はしてるけどそれとこれとは話が別だほらさっさと離れろ」
しっしっと手でやる青年ーーーこの春でもう大学三年になるんだったかーーーに、肩を竦めながら腕の中の少女に目を落とす。
「ユキ、聞こえるか。どっちがいい?」
「んぅ・・・・・・?」
「妻帯者! チクるぞ!」
うるさい青年をからかうのをとりあえずやめ、その小さな身体を青年に渡す。ふわりと丁寧にそっと少女を受け取った青年が少女を抱きしめ苦虫を噛み潰したような顔をする。
「・・・・・・茶ぐらいは出す。三木さんに」
「ううん、このまま帰っちゃうー。タクシー待たせてるしー」
「そっか。気を付けて帰ってね。また今度改めて。・・・・・・ほら、上がれ」
「まあほどほどに俺も帰るよ」
「そうしろ。是非そうしろ」
可愛げのない青年のあとに続きリビングに入る。以前見たその時とところどころ違うが、それでも清潔であたたかな空気は変わりない。
そっと、青年が少女の身体をソファーに下ろす。あたたかさが離れるのが嫌だったのか「んん」と小さく唸った少女がその袖口を引っ掛けるようにして指先で小さく掴んだ。ぴしりと青年が固まる。そのまますやすやと眠りはじめた少女の指先をぎこちない動きで一本一本外し、大きく息を吐く。
「襲うなよ」
「襲うか! 頭に血が上った一回しか襲ってねえよ!」
「よかった。今は俺のだからさ」
「あ?」
「吉野のだったんだけどあげるって渡された。だからもらった」
「三木さん余計なことを・・・・・・!」
因みに潰れた二十人は無事素面な面々と共に各自帰路に着いた。三木の手腕だ。
「でも未遂だったんだろ。よく何年も我慢出来るな」
「・・・・・・キスはした」
「あー、三十七人が三発ずつ殴りに来るやつだな。・・・・・・二度目はねえぞ」
「わかってる」
吐き棄てるようにーーー後悔しているように。
そう言った青年にやれやれと息を吐く。
「まあでも、お前の忍耐強さには感心するよ。無事同意を得られた日には何日かは寝かさなくていいんじゃねえの」
「言われるまでもねえよ閉じ込めて周りなんか見えなくなるくらいどろどろに愛でるわっていうか黙ってろセクハラ教師」
「ユキにも同じことさっき言われた」
「何言ったんだセクハラ教師!」
怒声を頰でさらりと跳ね返し、眠る少女を見てーーー青年を見ずに、言った。
「ーーーそろそろいなくなるよ。こいつ。・・・・・・そろそろ、ここじゃないどこか遠くへ行く」
「ーーー」
青年が、
静かに呼吸を止めたのがーーーわかった。
「俺も会うの年に二度程度だから。だからこれがしばらくの最後になるかもな」
「・・・・・・みーさんが、なにか言ってたの」
「なにも。ーーーただ、昔からこういう勘は比較的当たる方でね」
当たって欲しくない勘ばかり当たる。この少女にしろ自分の妻にしろ。
不器用で、必死で、自由過ぎるのだ。ーーー自分が好きになる女は、みな。
「だからーーーお前の真価が問われるのは、これからだよ。ーーー本当の意味で置いて行かれたくないなら、頑張れ」
「頑張るよ。ーーー頑張って、来たよ」
青年が。その黒曜の眼に光を貯めてーーー云う。
「俺云ったよね。やめられない。あきらめられない。けど、約束する。絶対にやめない。あきらめない。絶対、絶対にだ」
約束した。
なににだって誓った青年。
本当に、本当に、少女が大事だと言い切った青年。
「ここからいなくなってもそれは同じだ。離れ離れになってもそれは同じだ。絶対はーーー絶対だ」
「ーーーそうか」
気負うことなく、小さく笑う。
「じゃあ、俺は用ないな。お前にあげるよ。・・・・・・ユキに云っといて」
落とした言葉を聞いてーーー青年が顔を顰める。
不安そうなーーー少しだけ、恐れる貌で。
だから微笑う。微笑って、その考えを否定してやる。
「違うよ。そういう意味じゃない。ーーー俺の教え子になら、伝わるから」
その言葉に青年は小さくうなずいてーーーそれからちょっと、もどかしげな顔になる。
「なに」
「・・・・・・あんたみたいなのが俺の人生にもっと早くいたら、・・・・・・なにか違ったのかな」
「・・・・・・その言葉は教師にとっては最高の褒め言葉だなあ」
くしゃくしゃと、自分よりは背の低い青年の頭を撫でてーーー眠る少女に眼を落とす。
幸せに成り辛いだけで、成れないわけじゃない。
幸せになれ。幸せになれ。ーーーどれだけ時間がかかっても、構わないから。
「・・・・・・うわぁ、おはよう・・・・・・」
「おはようみーさん」
いつもよりは遅く眼を覚ました彼女の顔色を見る。悪くない。少し白く見えるがそれは朝だからだろう。
「昨日のこと覚えてる?」
「吉野と要くんが送ってくれて・・・・・・玄関の前までは、飛び飛びに・・・・・・」
基本お酒を飲んでも記憶は飛ばないひとだ。飛び飛びなのは眠ったり起きたりしているからだろう。
「みんな大丈夫かなあ。死屍累々だったんだよ」
「三木さんが上手くやったみたいだよ」
「流石吉野。私の」
「そうだね。・・・・・・でもあげる相手は選んで欲しいと思う・・・・・・選んだんだろうけど」
「うん?」
「なんでもない。・・・・・・担任から伝言があるよ」
「伝言?」
首を傾げた彼女にその伝言を伝える。
たった、ひとことだ。
「『さようなら』・・・・・・ーーーそう、云ってた」
彼女の、深い眼が。
深い深い、世界を全て呑み込んで映すどこまでも深い黒い眼がーーーふわりと、見開かれる。
そこに哀しみは無い。
動揺もーーー疑問も。
ただ、心から信頼する担任が抱いた予感を理解しーーーその言葉の意味をーーー全てを呑み込む。
そして映す。ーーー彼女の持つ魂の煌めきのような、ぎらついてすべてを呑み込むきらめきがーーー受け入れる。
「ーーーそっか」
そうか、と。
「うん。ーーーわかった」
「ーーーそっか」
「うん。ーーーありがとう」
「ううん」
さようなら。ーーーその言葉に、彼女はなにを受け取ったのか。
「ーーー諸説、あるんだけどね。でも」
少しだけ微笑ってーーー彼女は髪をゆっくり梳いて耳にかけた。
「ーーーわたしが。ーーー選んだ説が、ある」
「ーーーそっか」
もう一度うなずいてーーーそっと、胸に落とすように覚悟する。
もうすぐだ。ーーーもうすぐ彼女は、いなくなる。
知っていた。わかっていた。ーーー覚悟も、決まった。
彼女は時間をくれたから。
自分が覚悟を決めるまでの時間を、くれたから。
「みーさん」
「なあに?」
「みーさん、大好き」
「うん。ーーーありがとう」
さようなら。さようなら。
その時までーーーあと少し。
〈 長いお別れ 長い長い、時間 〉




