残された痕跡を辿って
〈 残された痕跡を辿って 〉
自分が選ばなかったのは少女が高校を卒業した数年前。
そして、選ばれなかったのを悟ったのはその数年後の今。
少女の様子がおかしかったと吉野から話は聞いていた。その二ヶ月後の三月のある日ーーーまたも吉野から連絡が来た。
少女が少年を拾ったと。
「吉野から話聞いたんだよね」
待ち合わせ場所として指定された喫茶店。
オフホワイトのブラウスと刺繍が細かく入った深い色合いの緑のスカートにカーディガンという落ち着いた格好で現れた少女は、その細い首を小さく傾げた。昔から変わらない、少女の癖。
その耳元から覗く灰色と青色を混ぜたような複雑な色合いの石が、その動きで受けた光で色を深め輝いた。
「・・・・・・またひと拾ったのか」
「うん、まあ」
「・・・・・・ついに三人目だな」
「違う。四人目」
きっぱりと答えた少女が、ゆるりとかぶりを振る。
「三人目は別にいる」
「・・・・・・」
いる。ーーー何処に?
自分が知る二人目はーーー結局、少女も自分も今どこにいるのか知らない。
一人目は、その存在すら知らない。
「・・・・・・吉野が、心配してる」
誰かを人質に取るような言い方は、少女は好まない。我慢してくれるがーーーそれは自分が線の上にいるからだ。
信頼という名の線。
踏み外すことを、もしかしたら望んでいたかもしれない線。
「・・・・・・吉野に」
ぼつりと少女は落とすように言った。少女にとってはめずらしい、暗く沈めるようなーーー眼だけはそのまま、すべてを呑み込むいつもの輝きを映して。
「吉野に言った。・・・・・・吉野には一生、名前を呼んでほしくないって」
「・・・・・・」
それは。
それを。
それを通して自分に、なにを言おうとしているのか。
「でも言った。・・・・・・それでも、ずっと親友でいてほしいって。ーーーそれは、吉野とわたしの間では我儘じゃないって」
その深い深い眼が、自分を呑み込み、映す。
「ーーー要くんにとっては、我儘」
クエッションマークが付かない問い。ーーーそれでわかった。悟った。ーーー理解した。
少女を選ばなかった未来である今に残ったのは、少女に選ばれなかった今だった。
少女は選んだ。選んで、望んだ。ーーー自分ではない誰かを。自分の知らない誰かを。
望む。望む。その眼が、すべてを呑み込むその眼が云う。痛いほど云う。
そのひとが欲しいと。そのひとを望むと。ーーーそのひとが特別で、そのひとだけを選ぶと。
選ばれた誰か。
現れた三人目。
少女はその誰かを心から愛し、そして。
その誰かに、心から愛された。
「ーーー失くしたのか」
「聞きたくない」
言ってーーー少女が立ち上がる。
頼まれたコーヒー。ゆるく湯気が上るそれを見向きもせず、少女が一度眼を閉じ開ける。
「聞きたくない。聞かない」
「失くしたんだろ」
「うるさい」
「失くしたんだろ」
「うるさい。たかが永遠だ」
「失くしたんだろ。ーーー失くし、たんだろ」
その手を掴む。細い細い手首。中学時代からなにも変わらない、華奢で頼りなくて小さくてーーーあたたかい手。
「ユキ。ーーー俺の前で、泣けるか」
クエッションマークのない問い。
少女が答える。ーーー身体の底から一瞬で湧き上がったそれを。
手が振り払われるーーー拒絶。
「泣けない」
泣かない。ではなく、泣けない。
「絶対に泣けない。絶対に、絶対に。・・・・・・でもこれは離別じゃない」
見据えられる。どこまでも深い黒色。
「これがあなたにとって我儘なら、私はもう、あなたの気付けないところにいる」
云って。
踵を返して立ち去ったーーー美しい後ろ姿。
どこか遠くで、ドアのベルの鳴る音。
「・・・・・・は・・・・・・」
小さく、ほんの僅か息を吐くようにして声を漏らしーーー振り払われたままの手を、力なく落とした。
まだ湯気の上るコーヒー。ミルクも、砂糖も入っていない。
そこで気付いた。少女は自分の家で淹れた特別な『コーヒー』でしか飲めない。外でオーダーする時はいつもカフェラテやなければ紅茶だった。
それが、コーヒー。・・・・・・最初から、時間をかけるつもりすらなかったのだ。
「・・・・・・あーあ・・・・・・」
昔はあんなに小さかったのに、と、巫山戯るようにして思ってーーー眼の奥が熱くなるのを感じて、かくんとうつむいて眼を片手で覆った。
最初から小さかった。ーーー本当に、小さな少女だった。
最初から華奢だった。ーーー折れそうなくらい、儚かった。
最初から強がりだった。ーーー必死に、世界と折り合いを付けようとしていた。
最初から凛としていた。ーーーどれだけ息苦しくても、そうしていた。
途中錯覚した。ーーー好きなんじゃないかと。
途中思った。ーーー好きなんだと。
途中保留にした。ーーー触れてはいけない少女だと。
途中見送った。ーーー卒業する少女を、特別な関係ではないただの担任として。
今思う。ーーーどこかで安心していた。
今痛感する。ーーー心の底で望んでいた。
今幻滅する。ーーーこのままの関係がずっと続けばいいと。
今懺悔する。ーーー少女の中の大きな部分を、自分で占めたままでいたかった。
独占したかった。しなかった。
約束したかった。しなかった。
告げたかった。告げなかった。
選ばれたかった。選ばなかった。
ーーー少女は、本当にいつか、自分の知らないどこか遠くへ行く。
ここではないどこか遠くの片鱗を、もう眼にしたのだ。ーーーそのすべてを呑み込む眼を見開いて、自分ではない誰かと手を繋いで。
ずっと見えていて、けれど背けていた時計が、その時音を立てて動き出すのがわかった。
動き出す。止まらない。ーーーカウントダウンは、はじまった。
もうその手は握れない。特別な意味で握れない。ーーー第三者ではなく、少女に近しい人間として、その姿を見続けることになる。
「・・・・・・我儘じゃ、ねえよ・・・・・・」
やさしさだけを残して、少女は云った。
これは離別じゃないと。
これが我儘でないのならば、これは離別ではないと。ーーー言葉の届く位置には、まだ居てくれると。
少女。
自分の知らない誰かの痕跡を、その身いっぱいに纏った少女。
その誰かとの思い出を、後生大事に抱えた少女。
誰かの少女。
「・・・・・・馬鹿野郎」
自分へ向けて、吐き棄てて。
コーヒーもそのままに立ち上がる。
ーーーしばらくしたら、少女に会いに行こう。
泣かない少女に会いに行こう。
謝らない。謝らせない。そういう問題じゃ、ない。
選ばなかった未来。
選ばれなかった自分。
少女が選んだ誰か。
少女に選ばれた誰か。
「・・・・・・『ーーーその時、ふと気付いた』」
私が焦がれて、けれど選ばなかったその未来は、
気持ちの形を変えて、一生輝き続けるものなのだとーーー
〈 残された痕跡を辿って 遺された痕跡を思って 〉




