この線の上の世界
〈 この線の上の世界 〉
一度、少女が泣いている時があった。
少女がまだ中学生の時だ。
その時の自分は少女にとって教師ですらなく、かといって保護者を名乗れるほど少女を良く知っていたわけでもなくーーー本当に、ただの部外者で第三者で。
それが悔しかった。それが、歯痒かった。ーーー心から。
自分の心をそんな風に揺さぶる誰かは今までひとりしかいなかったのでーーーだからこそ少女の存在が自分にとって驚きだったし、自分の心がまだこんなにも動くのかと驚いた。
不器用で、生き辛くて、息苦しい。
泣いている癖に決してこちらを見ようとはしない、高潔な少女。
その細い肩が震えるのを見てーーー自分は背を向け、けれどもその部屋からは出なかった。
嗚咽すら聞こえない押し殺した泣き声。
殺して殺してーーー必死にゼロに近付けようとした泣き声。
ーーーそんなことをしても、あったことはなかったことにならないのに。
ーーーそんなことをしなくても、泣いていることを責めたりしないのに。
赦さない。認めない。揺るぎなく。
少女が一番赦さないのはーーー少女自身。
少女が背中を向けることなく誰かの前で泣けるのならーーーその相手は。
少女の一生の相手だろう。選んで、選ばれた、一生涯の相手だろう。
泣いている少女。もうどうしようもなくて、泣く子供。ーーーいつまで経っても、人間は泣く子供だ。
頑張って、頑張って、頑張って、頑張ってーーーそれでももう、どうしようもない。
なにも出来ない。
そんなどうにもならない時に泣くことくらいーーー誰にだってある。
「・・・・・・お前さ」
どうしてそう言ったのか、その時も今もわからない。ーーーけれども。
その時自分が言ったその言葉が、少女の運命を変えた。
「要くん」
起きて、と、揺さぶって来る少女。
ぼんやりとした思考のまま眼をうっそりと開けると、眼の前にその時の少女がいた。ーーーいや。
違う。今の少女だ。あの黒く沈めるようなセーラー服ではなく、自分の教える高校の制服であるブレザー。窓から差し込む午後の光に微かに色を変える髪と、その光を呑み込みそのまま映す大きな瞳。
「要くん。資料まとめ終わったよ。・・・・・・結局全部私がやったよ」
唇を微かに尖らせ、少しふくれた声で言った少女の少しゆるめに下がった赤いリボンが描く透明な軌跡を眼で追う。つっぷしていたテーブルから顔を上げた自分の眼先ーーーふわりと遠ざかろうとしたそれを、指先で挟んで止めた。
「・・・・・・要くん?」
小首を傾げる。さらりと、髪が流れ儚いグラデーションを描く。ーーー少女の癖。
「・・・・・・ご苦労」
いつもより近い距離にいる少女の眼をじっと見てーーー誤魔化すためそう言うと、ぶう、と声だけでなく少女の顔がふくらむ。
「横暴教師」
「いや、ユキが下僕生徒なだけ」
「あ、そういうパターンですか・・・・・・」
流される。簡単に。
それが信頼の上にあるものだと、知っている。
「・・・・・・要くん?」
「ん」
「リボン、どうかした?」
未だに挟んだままのリボンーーーというよりはこちらの指先を不思議そうに見る少女。
「・・・・・・別に。目に付いただけ」
「? そう・・・・・・じゃあ離していいんじゃない?」
「・・・・・・そうだな」
「・・・・・・?」
ゆっくりと指を離したこちらを不思議そうに見つめ、まあいいかと特に気にした様子もなく開いた本に眼を落とす少女。
信頼の上。線の上の世界。
そこから一ミリでも動いたらーーー事故でも無意識でもなく、意思を持ってまっすぐ眼を見て動いたら。
どんな貌を、するだろうか。
すべてを呑み込んでーーーどんな言葉を、吐くだろうか。
「要くん」
「ん」
「これ、なんて読むの?」
「ん、どれ」
粗いペーパーブックを片手に細い指があるドイツ語の一文を指差す。
それを覗き込んで、その皮肉に少し笑った。
ーーーその時、ふと気付いた。
私が焦がれて、けれど選ばなかったその未来は、気持ちの形を変えて、一生輝き続けるものなのだとーーー
〈 この線の上の世界 その境界線の、先 〉




