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呼吸する人形


〈 呼吸する人形 〉



「はじめまして、こんにちは」

その家庭教師とはじめて会った時、その容姿の特別さに唖然とした。口がぽかんと空いていることに気付いたのはしばらく経ってからだった。

家庭教師ーーー中学二年という、中一の時のハジメマシテ感はとうに抜け、高校受験なんて恐ろしい言葉とはまだ少し縁が遠いこの中弛みの時期。塾には行きたくないと言ったら母親が提示したのは家庭教師だった。確かに塾と比べて往復時間や集中度を考えると家庭教師の方が利点が多いが、にしても割高ではないか。普段はあんなに節約節約と意気込む癖に、息子の学力のためなら厭わないらしい。息子としてはゲームの方が欲しいのだが。小遣いアップも。

「あっ、ども、杉並です。よろしくお願いします」

へこへこっと頭を下げる。家庭教師、女がよかった。男と知らされた時こっそりそんな風に思ったのだが、今はそれどころじゃなくこのひと以外なら誰でもいいのにと思う。目に毒だ。ーーー本当の意味で。

こんなに顔立ちの整ったひとを今まで見たことがない。

痛んでいない真っ黒な髪は最近の大学生の学年色とも言える茶色ではない。染めていない。それが逆にめずらしいとすら思う。

目も同じ黒さで、肌はキメの細かい女みたいにきれいだ。唇は薄く、自然と結ばれていて冷静でひんやりとした印象を周りに空気のように与える。背も高く痩せ型で、すらりと形の良い手脚がバランスよくのび、教科書を取り出す指先は手が好きな人間には堪らないくらいじゃないだろうか。

まるで作りものみたいな。

精巧な人形のような、人間。

「蕪木です。この春から大学生になりました。・・・・・・早速だけど、杉並くんが今どこにいるのか知りたいから、これを解いてもらえないかな」

差し出されたのはプリントアウトされたテスト形式の問題だった。それと一緒にノートも渡される。

「途中式とか、それに繋がる計算は全部こっちのノートに書いて。・・・・・・時間は一時間くらい取ろうか」

「あ、はい」

うなずいて無意味にかちかちとシャーペンの頭をプッシュする。出過ぎた芯を戻して、今度は適切な長さを出した。恥ずかしい。

渡されたプリントを前に、意識を数式に飛ばそうとーーーする。

「・・・・・・」

ちらり、と、こっそり蕪木を伺った。

軽く落とされた伏し目がちな黒い眼。スタンドライトの光を受けてきらりと光る。

テレビの向こうのアイドルや若手俳優なんて目じゃない。

長い睫毛が物憂げで、男なのに女よりきれいだ。

こちらを見ない。見ない、というより。

見ないようにしている、のか。ーーー集中の妨げにならないように。

「・・・・・・」

軽く息を止め、落とすようにして吐く。

唇を軽く舐め、シャーペンを持ち直す。

すとんと落ちていくように、意識は数式に沈んだ。




ぴぴっとアラームが鳴ったところではっと我に返った。一瞬というよりは少し長くぽかんとしてからあわててシャーペンを置く。

「あ、ごめんなさい」

「や、テストじゃないから大丈夫。・・・・・・もらうね」

するりとプリントが目の前から滑り蕪木の手に渡る。目の前で採点されているというより超人じみたひとに自分の実力が晒されていることが心を落ち着かなくさせる。

「・・・・・・あの」

「ん?」

「あ、いや。あとででいいです」

「・・・・・・? 雑談?」

「あ、はい。なんで、大丈夫です」

「いいよ。採点しながらになるけど」

「え。・・・・・・あ、どうも」

言葉は少ないが丁寧に選んでもらっているので冷たい印象は受けない。顎を引いて少し考える。

「えーと。蕪木、さんは。・・・・・・法学部でしたっけ」

「うん、そう」

プリントに落とされた目はこちらを向かない。長い指先がペンを握り、止まることなく動く。

「・・・・・・頭、いいですね」

大学名や学部は性別や年齢と共に事前に伝えられていたので知っている。近くの国立大学の法学部だ。それを現役合格しているので相当頭が良い。

顔も良くて(・・・・・・良過ぎて)頭も良い、ちょっとクールだが冷酷なわけではない。勝ち組だ。人生の勝ち組だ。さぞかしかわいいか美人な彼女がいるんだろうなあ。彼女が十人以上いてもおかしくない。

「・・・・・・どうかな。まあ、必死ではあった」

それから蕪木は手を止めた。採点は途中だ。なにか気に触ることを言っただろうかと一瞬はらはらしたが、どこか少し気の抜けたようなふらっとした声で、

「・・・・・・そっか。・・・・・・普通、自己紹介がてらちょっとは雑談するものか」

「え?」

「ん、大丈夫。・・・・・・よく出来てるよ。いくつか外れはあったけど、どれも途中の計算ミスだ。考え方は合ってる。間違いじゃないよ」

追い上げるように残りの答案に目を通し、蕪木はプリントを返して来た。中一の範囲をざっと振り返る復習問題だったのでそこまで難しくはなかった。が、後半に学んだところが少し怪しい。

「この単元までは問題がないみたいだから、ここから振り返って行こうか。・・・・・・丸じゃなかったところ、もう一回やってみてくれるかな」

「あ、はい」

新しくノートのページを開いて問題を解き直す。確かにどれも計算ミスで、考え方の間違いではなかった。

「ん、正解」

うなずかれて肩から力が抜ける。この恐ろしく超人じみたひとと勉強なんて、その内慣れるのだろうか。そんな気は全くしなかった。

残り時間はあと二十分。またなにかプリントをやるのかと思ったが、蕪木はそれを全部しまった。

「これから一年、学校の勉強と受験を意識した勉強をやっていこうと思ってます。基本的に学校より少し進んだところをやって、学校の授業を復習にするような形で。テスト前はテスト対策に切り替えて、終わったらまた新しいところに進む。・・・・・・お母さんからはこんな風に話されてるんだけど、杉並くん的にはそれでいいかな」

「はい」

理想的なプランだ。

そう、と蕪木はうなずいて、鞄ではなく小さな紙袋からなにかの包みを取り出した。きょとんとするこちらの前でそれを開く。

現れたのはきれいな焼き色が付いたイチゴのパイだった。手作りのようだ。

「じゃあ初日だし今日はここまで。甘いもの大丈夫?」

「好きです」

「じゃあこれ、初日のお祝いだって作ってくれたから」

「あ、先生が作ったんじゃないんですね」

「うん、俺は料理勉強中だから」

料理勉強中。これ以上ハイスペックになる気か。

一度下に降りて皿とフォーク、それから適当にお茶・・・・・・と用意しようとしたが母が張り切って紅茶を淹れていた。びっくりするくらいのイケメンが来たから気合いが入っているらしい。普段は適当に麦茶の癖に・・・・・・お茶菓子は断って紅茶だけ頂く。

自分の部屋にちょっと見ないレベルの顔立ちの若い男がいて、そのひととお茶をする。今までの人生でなかったことだった。・・・・・・なに話せばいいんだよ。

しんと静まり返る・・・・・・と思ったが、意外にも蕪木が口火を切った。

「杉並くんは部活はなにかやってるの」

「バスケやってます」

ポジションはまだベンチだが。

いいんだよこれからが自分たちの代なのだから。

「先生はなにやってました?」

「帰宅部だった」

その頃から勉強漬けだったのだろうか。レベルが違う。

「高校もですか?」

「高校も。・・・・・・だからね、一番最初に受け持つひとが杉並くんで良かったよ」

よくわからず咄嗟に答えられないでいるとーーー物憂げな眼を一度瞬かせて、蕪木が静かに言った。

「杉並くんの方が俺よりよっぽど人付き合いが上手で経験も豊富だと思う。・・・・・・俺はまだ、ちゃんと相手のことを考えて話してくれるひととしか上手く接せられないから。・・・・・・杉並くんみたいにきちんと話してくれるひとが相手で良かったよ」

生徒ーーーではなく、ひと。

大学生なんて、大人だと思ってた。

けれど、今目の前にいる大学生はどこか子供のように見えた。ーーー不安で、心細くて、そして少しだけほっとしたような、そんな幼い子供のようなひと。

ひと。ーーー家庭教師とか、大学生とか、大人とか子供とか、そういう全てのものの前に。

「・・・・・・先生、絶対もてるのになあ」

「ひとがあんまり得意じゃなくてね。女性は特に苦手」

「もったいない。俺が先生みたいな顔してたら絶対かわいい彼女作るのに」

「彼女はいたことないな。今もいない」

「もったいなさすぎる。・・・・・・好きなひともいないの?」

「いるよ。すごく大好きで特別で大切なひとが。とってもかわいくて、とっても綺麗で、本当にやさしくて、とっても格好良い」

「え、片思いなの?」

「今はね」

「えええ、先生レベルの男で片思いとか・・・・・・その女のひと、見る目大丈夫なのかな」

「見る目があるから俺を選ばないんだろうな」

楽しそうに。ーーー少しだけ、蕪木が笑う。

呼吸ひとつで。そのひとのことを思うだけで。ふっと、命が吹き込まれていくようにーーー感情が、巡る。

「そのひとがこれ作ってくれたんだよ。うまい?」

「え。ーーーすっごく、うまい」

示されたパイを頬張って大きくうなずく。

丁寧に作られたほどよい甘さのパイ。さくさくと香ばしく、イチゴはしっとりと甘酸っぱい。

わざわざパイを作ってくれるなんて、付き合ってなくてもそれは『特別』扱いなんじゃないかーーーそう言おうとしたが蕪木はうなずいて、

「よかった。これで普通とか不味いって言われたら奪ってでも俺が全部食べるところだったから」

「・・・・・・先生、大人気ない」

「まだ未成年ですから」

飄々と答える横顔は絵になるほど整っている。

でも最初よりも作りものには見えない。ーーーくすりと笑って、パイの最後の欠片を口に放り込んだ。




「ちょっと啓太! 今のものすごいレベルのイケメンなに!」

「俺の家庭教師」

「聞いてない! 家庭教師があんなイケメンだなんて聞いてない! 漫画の世界だけのことかと思ってたありがとう神様っ!」

「姉ちゃんには関係ないと思うけど・・・・・・」

「は? 落とすに決まってるでしょー! こっちは女子高生なんだからね、制服着てぐいぐい攻める! 制服が嫌いな男なんていないんだから! 大学生だよね、どこ大の何学部っ?」

「W大の法学部」

「エリートじゃーん! それであの顔! ハイスペック過ぎるっ、もらったー! あんた協力しなさいよね! 姉の未来の旦那さんよ!」

「・・・・・・それはないと思う」

呟いた言葉はテンションが上がりまくった姉には届かなかったようだが。

無理だと思う。ないと思う。

姉だけでなく、殆どの女が無理だ。ーーー蕪木が言っていた『すごく大好きで特別で大切で、とってもかわいくてとっても綺麗で本当にやさしくてとっても格好良い』ひと以外は。

蕪木は微笑った。

そのひとの話をする時、本当にうれしそうにーーー幸せそうに、微笑ったのだ。

あんな顔を他の人間がさせることなんてそうそう出来ないだろう。作りものめいたひとを、幸せそうな人間にさせるなんて魔法みたいなこと。


その魔法みたいなことをーーー平気でやってのけてしまうひとなのだろう。

そのすごく大好きで特別で大切でとってもかわいくて、とっても綺麗で本当にやさしくてとっても格好良いひとは。


呼吸するように。楽しそうに、笑いながら。



〈 呼吸する人形 呼吸して微笑うひと 〉




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