その日の前に
〈 その日の前に 〉
この家で炊飯器が使われるのは大抵一日一回。夜に多めに炊いて、次の日の朝や残れば昼に使う形だ。幸い炊飯器がいいものなので味もそこまで落ちないし、まあそれでももちろん炊きたての方が美味いが、手間や時間を考えるとそれがベターだった。
が、何事にも例外はある。今日がその日だった。ぱふん、と、昼食後に炊いた炊飯釜をミトンを付けた彼女が炊飯器から取り出す。テーブルの上に置いておいた鍋敷きの上にそれを置き、うん、とひとつうなずく。
大量に炊かれた米だった。毎度毎度、彼女の仕事前や最中に見る光景。
「今回はどのくらいだっけ?」
「二ヶ月、かな。大体」
軽く小首を傾げて彼女が答える。その仕草がとても愛らしくてすごく好きだった。今はゆるく纏められているがいつもならさらりと微かな音を立てて髪が流れ、ついつい手をのばして撫でたくなる。そうしたら恐らくきょとんとした顔をするのでそんな彼女に微笑みかけて抱きしめてしまいたい。剥き出しになった首筋をやさしくなぞりたい。そんな風に思っていることを、恐らく彼女は知らないし考えたこともないだろう。
「みーさんのこの製作がはじまると、ああ、みーさん長期に入るんだなって思う」
「製作、って」
くすっと彼女は笑った。だってこれは確かに『製作』だ。
長期の映画撮影期間に突入する前、決まって彼女は大量におにぎりを製作する。それを冷凍保存して、毎朝ひとつ解凍して持って行き移動の合間に食べるのだ。ロケバスやらなんやらに乗っている間は基本自由なので、食事もオーケイらしい。
そして彼女の作るおにぎりはいつも同じだ。既にテーブルの上に用意してある具材を見る。
天かす、鰹節、麺つゆ。全部混ぜ込むと天むすのような雰囲気になり、それなりにおいしいらしい。慣れた手付きで目分量でそれを投入していく彼女を少しだけ複雑な心境で見やる。
長期撮影に入る―――ということは、彼女がほとんど家に居れなくなるということだ。彼女が大学を卒業ししばらくして映画の仕事をはじめたので自分も少しだけその世界のことを知るようになった。基本、休みはない。それどころか睡眠時間もない。始発終電で済めばまだましで、終電すらなくなって車で送り届けられることもある。そして一時間ほど仮眠を取ってまた出動。期間中はずっとこんな感じで常に疲労困憊している。体を壊しそうで見ていて不安だし、夜中にうろつかれるのも怖いし―――そして辛いのは、色々と落ち込んだりもしている彼女に自分はなにも言葉をかけられないこと。
社会人一年目の彼女と、大学二年の漸く二十歳になった自分と。何もかもが違い過ぎて、及ばなくて―――なにも、言葉が出ない。
「こうまでしないと映画って作れないんだね」
四時過ぎにふらふらになって帰って来た彼女が、上着を脱ぐこともせずぐったりとソファーに倒れ込んで落とした言葉は、自分の中でとても印象的だった。
でも、と思う。長期が終わって彼女の体力も回復したあと聞くさまざまな話は―――撮影中にあったことを話す彼女はとても生き生きとしていた。目をきらきらと輝かせ身振り手振りでそのすごさを一生懸命自分に伝えようとしてくれる。それでも彼女にとってはまだまだ足りなくて、自分の表現力のなさに不満気に唇を尖らす。自分が好きな時間のひとつだし、それに出来上がり公開された作品を彼女と観に行くのは本当に特別だった。スクリーンに現れ上がって行く彼女の名前を見た時、思ったのだ。―――彼女は本当に、どこまでも自分の力で歩いてゆくひとなのだと。
だからこそ、不安だし怖いし辛いが―――愛おしくて特別だ。
「? どうしたの? 溜め息吐いて」
「・・・・・・男心って複雑だなと思っただけ」
「うん? そ、う・・・・・・みんな大変なんだね」
わかったのかよくわからなかったのか再び首を傾げつつおにぎりを握りはじめた彼女をじっと見つめる。薄く色づいた米は彼女の小さな手の中でくるくると回されながら形になってゆく。とん、と広げたラップの上に置かれたそれは、きれいな三角形をしていた。
ぼんやりとそれを見て―――ひらめいた。
「あのさ」
「うん?」
「俺もやっていい?」
「おにぎり?」
「うん」
「本当? ありがとう」
にこっと彼女が笑った。弾んだ笑顔にどきりとしながら隣に並ぶ。・・・・・・そこで気付いた。自分はおにぎりを握ったことがない。
「あ・・・・・・」
叔母や彼女に料理を少し教わっているが、おにぎりは―――作る機会がなかった。見様見真似でなんとかなるものだろうか。
「あのね、まず、手に付かないように軽く水を付けて、」
「う、ん。・・・・・・あ、手、洗う」
洗い場で石鹸で手を洗う。清潔な布で拭き彼女の隣に戻り、ボールに張られた水を少し手に付けた。
「ふんわり、空気を含むように、ぎゅっぎゅっとは握らないの。やさしくやるとうまくいくよ。火傷しないように気を付けてね」
疲れ切った彼女が毎朝食べるものだ。やさしくするに決まっている。
教えてもらった通り米を手に取って恐る恐る握りはじめる。指の腹で包み込むように、ふんわりと空気を含むように。回転させ、きれいな三角形になるように。にこにこと微笑む彼女の隣で緊張仕切った真面目な顔でおにぎりを握る。
「でき・・・・・・た、?」
そっと、手の中からおにぎりをラップの上に置いた。彼女の握ったおにぎりの横、きれいな三角形の横に歪なおにぎり。辛うじて三角形に見えなくもない、そんな不恰好なそれ。
「・・・・・・ごめん」
「十分上手だよー、私なんかもっと酷かったよ?」
それは彼女が何歳の頃の話になるのだろう。
「・・・・・・最後までやってもいい?」
「もちろん、ありがとう」
よし、と気合を入れ直し新しく米を手に取る。ふんわりと、やわらかく、やさしく丁寧に。食べるひとのことを思って。
大切におにぎりを握りながら―――意識の端で、こういうのもいいな、と思った。
二人でまた暮らしはじめて、彼女と並んでキッチンに立つことは何度もあった。だがしかし、作業の手分けをすることはあっても同時に同じことをする時はなかった。
並んで一緒のことをする。ただそれだけのことが、とても楽しい。
小さく彼女が笑うのがわかった。首を傾げると、彼女がやわらかい目のまま見上げてくる。
「・・・・・・みーさん?」
「なんだかいいね、こういうの」
ふは、と彼女が笑った。
「こういうの?」
「うん、並んでおにぎり作るの。すごく楽しい」
かあ、と、顔に血が上った。彼女も全く同じことを考えていた―――自分と彼女の楽しさがぴたりと重なっていた。うれしい。くすぐったい。幸せ。
気の利いた言葉が出て来ないのがもどかしい。でも知ってもらいたい。自分も同じで、どれほど今気持ちが満たされているか余すことなく知ってほしい。
だからこそたどたどしく、本当のことを飾りも出来ずに伝える。
「・・・・・・俺も同じこと考えてた」
「ともりも?」
「うん。・・・・・・今すごく楽しいし、みーさんもそう感じててくれてすごくうれしい」
「そっか。―――なら、私もうれしい」
楽しそうにやさしく彼女が言う。
隣にいるのはやわらかだが凛としたひと。自分が心から求める唯一のひと。
一緒にいる時間がしばらくなくなるのは辛いけれど―――でも、長期の前にこうやって触れ合う時間が持てるのなら悪くない。
(・・・・・・もっと上手くなろう)
次のためにもっと、もっと彼女によろこんでもらえるように。
彼女の近くに、往けるように。
彼女が長期に入って数日後、うるさい奴が朝から訪問している時にそのメッセージは届いた。
「なんだか俺、今すごく失礼なこと思われた気がする」
「うるせえ黙っとけ林場。朝っぱらから来やがって」
「御影さんがいなくて寂しがってるであろう親友を思って来てやったのにこの言い草! ひでえ!」
「うるせえ誰が親友だ。寂しいけどこれはこれでいいんだよ」
まあ、作った朝食を食べさせられるのは悪くない。まだまだ料理は修業中の身だ、こいつの時ならいろいろと実験・・・・・・挑戦出来る。
うるさい男に米をよそって出してやると、テーブルの上にあったスマホが震えた。時間は七時。誰だろうと思いながらディスプレイを操作し―――心臓が鳴った。
『おはよう。もう起きてるかな? 寝てたらごめんね。
もうすぐロケ地に着きます。さっにおにぎり食べました。
ともりが握ってくれたおにぎりでした。大きくてすぐにわかったよ。
ともりが作ってくれたやつなんだなあと思って食べたらすごく元気が出ました。どうもありがとう。
映画が出来たら時間作ってくれる? 一緒に観に行けたらうれしいです』
彼女が家を出たのは恐らくまだ四時台。もうすぐロケ地に着くということは、メールが朝早くなりすぎないようにぎりぎりまで粘ってくれたのだ。そんな彼女の気持ちと内容が、無機質なはずのただのを文字をやさしくあたたかなものにする。
あの時彼女の隣で赤面したように―――か、と顔に血が上る。
本当に、本当に、このひとには敵わない。
「あっ、そんな顔して御影さんからメールだろ。なんだって?」
「・・・・・・うっせ、馬鹿」
「いつもよりやわらかい!」
「うるせえ」
出来ることと出来ないこと。やりたいこと。
全部ぜんぶひっくるめて―――いつか彼女に、好きになってもらえるように。
大丈夫、何処までだって歩いてゆける。―――だってこの路の先には、彼女がいるのだから。
〈 その日の前に その日のあとに その日の、ために 〉
こんにちは。ナコイ トオルです。
活動報告にあるように、これは短編、中編集です。
またお読み頂けると幸いです。