無痛の傷口
〈 無痛の傷口 〉
「・・・・・・?」
ふと視線を落とすと、指先に血が付いていた。爪の間にも入り込んだそれは指先をグロテスクに彩っている。
なんで血なんか付いているんだろうとぼんやりとそれを見ながら考えてーーー自分の脇腹に血が滲んでいることに気付いた。
無意識の内の自傷癖。
ここ数年は、ほとんどなかったのだけれど。
自分のその傷に特に興味が持てず、ただ血でシャツが汚れるのが嫌で適当に脱いで床に落とした。
自分が『拾って来た』少年はーーー少しの間一緒に暮らして、出て行って、そして戻って来た少年がーーーまた、いなくなった。
少年の友人の男子高校生に電話したところ、一度家に戻ると言っていたらしい。
なんのため? ーーー決着を付けるため、だ。
ディスプレイをタッチし発信する。ワンコールでそれは繋がった。
「ディー。ともりが家に戻るって言ったっきり戻って来ない」
『ーーー監禁されたか。奪還しよう』
シンプルに言う声は大きくも硬くもなかった。だからこそそれが心強い。
『彼の父親の所属する会社の親会社にコネがある。それとなくぼかして伝えるよ。外堀を埋めてから実力行使だ』
「蕪木の家の住所はわかる? 今すぐ行かなきゃ」
『ミユキ』
「監禁だけで済んでればいいけど恐らくそれはない。早く取り戻さなくちゃともりが」『ミユキ』
重ねて呼ばれてーーー黙った。
『今は、待て。僕を信じて』
「・・・・・・」
信じている。ーーーだって。
「・・・・・・わかった」
あの夜、夜のほとりで再会出来たのはーーー彼の親友である、あなたがいたからなのだから。
しんと静まり返った家の中ーーーシャワーを浴び、ろくに身体も拭かないまま適当に服を着てぺたりぺたりと裸足で歩く。
電気の消えたリビング。街灯の明かりが差し込む以外、光源はない。
「・・・・・・」
その薄暗い空間の中でーーー僅かな光を受け、鈍く光る真鍮のホイッスル。
じっと、それを見つめーーーその隣に横たわり、さらにそれを見つめた。
彼のもの。腕時計も、スマホも、なにひとつ残さなかった彼が遺した唯一の形あるもの。
「・・・・・・」
触れようとして。腕が上がらなくてーーー代わりに、無意識の内に脇腹に触れる。
音も無く爪が肌に喰い込む。痛くない。痛みはない。何故か、昔から。
自分がなにをやっているのか自分でもよくわからないままーーー気付いたら、また血が指先を汚していた。
「・・・・・・きたな」
汚い、とぼそりと吐き棄ててーーーぎゅうと身を丸めきつくきつく眼を閉じた。
「・・・・・・ねえ」
呼びかける。返事がないのはわかっていて、でもどこかで期待してーーー勝手に、裏切られる。
ここだよ。
わたしはここだよ。
ここに来て。ーーーここに、いて。
肌に、あなたが触れる。愛おしむように抱きしめられ、想いを伝えるように唇が重ねられる。
わかる。わかっている。それをあなたも知っている。そのことがなによりもうれしい。
夜のほとりで、あなたが最期にわたしに触れる。
その手が脇腹に触れる。なんの痕もないきれいな脇腹を。
至近距離で眼が合ってーーー灰色とその奥の青色の眼を見て微笑んで。
再び落ちてきた唇を重ね、眼を閉じた。
ーーー眠っては、いない。だからこれは夢ではない。ただーーー忘れるまでも無く、思っていただけで。
「・・・・・・」
一睡もしないまま迎えた朝。ーーー眠れないのは、もしかしたら夢が怖いからなのかもしれなかった。
夢を見るのが怖いのではない。
夢を見れないかもしれないのが、怖い。
夢でさえ、あなたに会えないのならーーーわたしはこの先、どうしていけばいいのかわからない。
先ーーー先?
あなたがいない、先?
「・・・・・・」
ゆるくうつむく。シャツを捲る。
青黒く醜く痕が覆う、自分の肌。
血の滲む肌。
あの時彼が、触れた肌。
「・・・・・・」
それをそっと、彼のあとをなぞるように自分も撫でーーー声が、零れた。
「・・・・・・痛い」
痛い。
痕が、痛い。
傷付けば痛いのだとーーーその時漸く、思い出した。
さあ、それでは、続けよう。
少年を取り戻そうか。
ひとを傷付けて、それが痛むことだと気付きもしない奴等共から、囚われの少年を奪還しよう。
大丈夫。世界は広い。
どこかに君が心から愛する、君の痛みに君より早く気付く誰かに、きっと会える。
だから止めないで。怖がっていい。怖がったままで、でも止めないで。
君はまだ、なにも手に入れていないだけなんだ。
『どうするの?』
「どうするって?」
『その少年だよ。未来のための手助けをして、自由にさせてーーーそれで、ミユキはその子をどうするの?』
「どうするってーーーなにも、しないけれど」
『なにも?』
「なにも」
『家に置き続ける?』
「本人がそう望むなら。部屋はあるし」
『いつまで?』
「その子が大丈夫になるまで。・・・・・・違うな。誰かに出会うまで」
『誰か? 誰を?』
「その子が愛して、その子の痛みにその子より早く気付く誰かに出会うまで」
誰だっていい。
自分が彼に出会ったように。
彼が自分に出会ったように。
大丈夫ーーー大丈夫だ。
どこかにきっと、誰かがいる。
世界が闇の夜で、自分以外に誰もいなくても。
誰かと出会うことが絶望的でも。
試してみよう。ーーーあとで傷付くだろうとわかっていても、試してみよう。
辛くても。苦しくても。泣きたいのに泣けなくても。痛くて痛くてたまらなくて呼吸が出来なくても。
試してみよう。
ーーーひとはそれを、高潔と呼ぶ。
〈 無痛の傷口 滲む高潔 〉




