来訪者は笑わない
〈 来訪者は笑わない 〉
自分の中にこれほどの感情がまだ残っていたことに、あとになって驚いた。
「・・・・・・?」
違和感を感じ、軽く眉を顰める。春季講習が終わり戻って来た御影の家。渡されている合鍵を使いドアを開けると、目に飛び込んで来たのは男物の靴だった。
履き込まれたワークブーツ。随分と年季が入っているが、きちんと手入れがされてあるし元々が上等のものらしくそれは持ち主の足によく馴染んだ良い靴にしか見えなかった。ーーーが、それより。
「・・・・・・」
違和感が終わらない。例え来客中であろうと、御影は一言いつも声をかけに来る。おかえりなさい、と。自分はいつもそれを曖昧に流すだけだったがーーーその一言がいつまで経ってもないのは不自然だった。
その違和感を抱えたまま靴を脱ぎリビングへ足を踏み入れる。違和感は明確な形になった。ソファーの上にあるはずのクッションがドアのすぐ下に落ちている。まるで入って来た人間に投げ付けたかのように。そしてお茶の準備もなにもしていない。客人がいるのに御影がなにも出さないなんて今までなかった。
「ーーー御影?」
無人のリビング。けれど、御影の靴は玄関にあった。しまってあった他の靴を履いたのかもしれないが、そうだとしたら御影がいないのに男物の靴があるのはおかしい。呼びかけるように少し声を張ったが、御影からの返事はなかった。ーーーが。
はっとして上を見やる。上階からした大きな物音。上階ーーー御影の、部屋?
息を呑んだのは一瞬だった。次の瞬間持っていた鞄を床に落として階段を二段飛ばしに駆け上がる。壁にぶつかりつつも体を切って曲がり方向転換して御影の部屋のドアに激突するようにして飛び込んだ。
「ーーーおい!」
全身で飛び込んで。次に視界いっぱいに飛び込んで来た光景にーーー血の気が引いて、そして激昂したように一瞬で沸き立った。
見知らぬ男がひとり、御影を押し倒していた。
御影の乱れたシャツの裾に手をかけ、その華奢な身体の胴部分の肌が少し露出している。
眉を顰めた男が訝しげな表情でこちらを見てーーーその男の下で肩で息をする御影が、こちらを見た。ーーー自分の中で、何か音がした。
「はーーーな、れ ろ!」
一瞬で踏み込んで距離を詰めて殴りかかった。振り上げた拳を男に叩き込む。ーーー叩き込んだ、つもりだった。男はあっさりと御影から離れてひょいと身を竦めた。ただそれだけでこちらの渾身の攻撃がかわされてしまう。でもいい。とりあえず今はいい。それより、それよりも。
「御影!」
「ともりくん!」
がばりと身を起こした御影がその勢いそのままに飛び付いて来た。それを受け止めて咄嗟にしっかり抱きしめる。女が嫌いだとかそんなことを言っている場合ではなかった。下心も疚しい気持ちもなにもなく小さな御影の身体を強く抱きしめると言うよりは抱きかかえ、そのまま男から距離を置こうとする。ーーーが。
「落ち着いてともりくん! ストップ! ストップ! このひとには勝てないから!」
「はーーーなにいって、」
「大丈夫大丈夫! なんでもないから落ち着いて! このひと大丈夫だから!」
「同意の上な、わけ?」
「違う違うそういうんじゃなくってこのひとは」
「同意じゃないならレイプだろ! 下行け! 警察電話しろ!」
「ともりくん! このひと私の家族なの!」
「ーーーは」
肩で息をしながら必死に叫ぶ御影ーーーと。
動揺と激昂で肩で息をする自分ーーーと。
その言葉に目を見開いて、男を見た。
男は。三十代半ばくらいであろうその男はーーー黒い髪をぐしゃぐしゃと掻いた。いや。
黒ではない。近くでよく見るとふわっと色合いが変わる茶色い儚い色。最近、よく見る色。知っている色。
「ーーーこのひとは、私の叔父さんなの」
至近距離で、その髪の色を黒から茶に変えた御影が、言った。
冷静に話してみると、御影の叔父は口数は少ないもののきちんと言葉の通じる人間だった。少し普通ではないところは、
「・・・・・・ナイフ術?」
「そう。ユキが中学の時に教えた」
下りたリビングのソファーに腰掛け、御影が持って来たお茶を受け取った男、御影の叔父は一言御影にお礼を言うと一口口を付けた。御影の亡くなった父親の弟だというこの男は今は貿易会社に勤めていてほとんど日本にいないらしい。なんというか、グローバルな家系だった。
「ユキの成人祝いには間に合わなかったから。久々に帰国したし、顔を出したんだよ。そしたら・・・・・・」
キッチンでお茶菓子を準備している御影をちらりと見て、その落ち着いたトーンがさらに少し落ちる。
「様子がおかしかったから。軽く問い詰めた」
「・・・・・・様子がおかしい?」
「おかしいよ。兄貴が死んだ時か、或いはそれ以上だ。ユキは嘘が上手いから気付かれ難いけど」
一体なにがあったらあそこまでなるんだ、と叔父は呟いた。
「何度訊いてもなにもないよって嘘しか吐かないから、まあ、実力行使で」
「はあ・・・・・・」
あの問題シーンは叔父と姪の攻防戦だったらしい。クッションも御影が投げたのだろう。・・・・・・が。
「・・・・・・なんで脱がせようとしたんだ」
無意識の内に声が低くなる。ナイフ術の師匠と弟子である関係なら、お互い武力行使に出ても仕方がない。・・・・・・のかは知らないが、実際そうなったようだ。が、この叔父は確実に姪の服に手をかけ脱がそうとしていた。それはもう武力行使の域を越えている。
が、叔父は眉を軽く顰めて迷うことなく自分の脇腹を示して見せた。
「ユキ、なにか本当に耐え切れないことがあった時、自傷行為に走ることがある。兄貴が死んだ時がそうだった。脇腹を抓る癖があるんだ。内出血するくらい強く抓るからしばらく痕が残る。その痕があれば『なにかあった』証明になるだろ。それで確かめようとした」
「ーーー」
呼吸が止まった。丁度タイミングよく御影がお茶菓子を持って来てローテーブルに置いた。その横顔を凝視する。
「どうぞ。・・・・・・どうしたの、ともりくん」
「・・・・・・」
なんてことのない、普段通りの顔。ーーーこれが、嘘? 嘘を吐いている顔? ーーーこの、当たり前のような普通の貌が?
「ユキ。あのさ」
「? うん」
「この少年、誰?」
「え?」
「あ」
呆然としていたがその言葉に意識を引っ張り戻された。お茶菓子に手をのばしながら男が無表情ながらに少しだけ訝しげな顔をする。
「久しぶり一人暮らしの姪に会いに来たら同棲してる男子高校生がいたって、それなりに衝撃なんだけど」
「・・・・・・あー・・・・・・」
御影がくしゃくしゃと軽く頭を掻いた。その仕草はやわらかいものの少しだけ叔父と似ていた。
「なに、お前またひと拾ったの」
「うーん、まあ・・・・・・否定出来ない・・・・・・」
「三人目か。流石に三人目が現れるとは思ってなかった」
「・・・・・・四人目だよ」
御影の声が、少しだけ静かになる。
「三人目は他にいる」
「・・・・・・どこに?」「知らない」
間髪空けない返事だった。早口で冷たく、温度のない答え方。一度だけその返答をもらった時があった。ーーー真鍮のホイッスルについて訊こうとした時だ。
「・・・・・・知って、いるけど。言わない。言いたくない」
「そうか」
うなずいてーーーこちらを見やる。
「俺の目にはものすごいレベルのイケメンに見えるんだけど」
「・・・・・・あー、そうだね。ちょっとあんまり見ないような顔立ちをしてるよね」
感心はしているが特にこれといって興味はなさそうな口調で御影が同意し、叔父と並んでこちらを見た。髪の色は同じで、眼の色はーーー違った。いや、同じく黒いのだが、その深さが違う。
御影の全てを呑み込むような深い深い色。
少なくても、叔父からの遺伝ではないらしい。ーーー御影特有のものじゃないのかと、なんとなく思った。
「姪がいつの間にかものすごいレベルのイケメン拾って家に置いてるって、俺義姉さんになんて説明したらいいんだろう」
「あー、うーん」
「どうせお前のことだからなにも言ってないだろ」
「・・・・・・その内言うよ。その内」
「・・・・・・春休み期間中だけ、だから」
流石にこれは御影は悪くなく自分のせいだーーー居心地悪く言う。
「もうすぐ終わる。・・・・・・そうしたら、もう行くから」
「・・・・・・」
御影が静かに自分を見ているのがわかったが、目を合わせなかった。
「・・・・・・髪とか凝ってんな。流石若者」
話を変えようとしたのか、叔父が若干興味深げに言ってしげしげとこちらを見て来る。
「茶髪? うちの若者は髪染めたことないから」
「私はこの色でいいの。・・・・・・ともりくんのはアッシュブラウンだよ。でもつい最近まで金髪だったよね」
「うん」
「この顔で金髪? テレビのひとかよ・・・・・・」
本当義姉さんに俺はなんて言えばいいんだとぶつくさという叔父は、気の使い方は違うものの回し方は御影とそっくりで、なんだか御影が二人いるようで落ち着かなくーーーだか決して、悪い気分ではなかった。
「御影。風呂・・・・・・」
上がった。そう伝えに来たのだが、肝心の人物はキッチンにはいなかった。夕飯の後片付けが終わったらしい。
ひょいとソファーを覗き込むとそこに横たわる御影がいた。横向きになって軽く身体を丸めるようにして眠っている。叔父との攻防戦の疲労感は今になって出たようだ。
叔父はーーーあれ、結局名前は言ってなかったーーーなんでだろうと思い、そして気付く。
父親の弟。
血が繋がり同じ髪の色を持つ叔父。
普通なら名字が一緒だ。けれど御影の母は再婚している。ーーー御影は昔、御影と呼ばれる人間ではなかったのかもしれない。
御影 ユキ
今残っているものは、親から付けられた名前だけで。
「・・・・・・」
寝息が規則正しいのを確認して、ソファーの前に回り込んだ。手をのばし、そのシャツの裾を少し捲る。どくんどくんと嫌な鼓動が耳元を打っていた。横向きに横たわっているので今は上になっている左脇腹を恐る恐る見てーーー現れた滑らかな肌色に深く息を吐く。
なんだ。
考え過ぎだ。
様子はーーー少し、おかしいのかもしれないけれど。追い詰められてまではいない。あの時あんなに泣いた直後だったけれど、それだって少しずつ薄れていく感情だ。気にするほどではない。
元通りシャツを戻す。すぐに起こそうとしてやめた。
あと五したら起こそう。
ーーーそして今、あれから一年が経って髪の色を黒色に変えた自分は、眠る彼女をまた見下ろしていた。
ベッドに横たわり、点滴に繋がれた彼女。
顔色は青ざめ、唇の色は殆どない。
朝目覚めず、声をかけても反応がなかった彼女。ーーーもう心配はないと、医者には言われていたが。
「・・・・・・」
かけてある布団を捲る。あの時ああしたようにーーーシャツの裾を少し捲る。
どくんどくんと嫌な鼓動が耳元を打つ。疑惑ではなく、ほとんど確信を持ってーーー視線を下ろす。
滑らかな肌色。ーーー左脇腹は。
右脇腹に拡がるーーー痛々しいほどの黒い青。
びっしりと。侵食するように。埋め尽くすように。
なにかを堪えるために強く自分の身体を抓った彼女。
内出血するほど強く、埋め尽くすように何度も何度もそれをしなければ自分を保てない彼女。
ひとの前ではいつも通りで。裏では食べたもの全てを吐いて、不眠のまま、なにかを必死に堪え続けている彼女。
「・・・・・・」
知った。
知り続けるーーーこれからも。
激痛みたいな彼女の嘘。
全てを呑み込む彼女の心。
御影 ユキ。ーーー違う。
御影 幸。
「・・・・・・みーさん」
誓うように。そっと肌を撫でてーーー
ーーーその痕に、口付けた。
〈 来訪者は笑わない 来訪者は知っている 〉




