青色の独占
〈 青色の独占 〉
その寂れたダイナーの扉を押し開いて鈍付いたベルを鳴らした時、ひゅう、と口笛を吹きたくなった。咄嗟に押し留めて行き場の無くなった舌先で唇を軽く舐める。
どうってことのない田舎街ーーーそれも一年中雨と霧に包まれたなにもない街だーーーに繋がるただの一本道にぽつんとある古臭いダイナー。自分以外に客はいないだろうと思っていたのだが、意外なことにも先客がいた。
ボックス席に腰掛けるひとりの少女。東洋人であろう黄色がかった肌は自分が思うそれよりも白い滑らかな象牙色をしていて、外の青みがかった外光を受けた漆黒の髪が艶やかに光る。
そしてなによりも目を引くのは、遠目からでもわかるその瞳の色の深さだった。
透き通った黒という矛盾した色。
どこまでも奥まで続く、精巧な職人どころか自然の偶然がたまたま創り出した世界そのものを全て飲み込むような深い色。
その大きな眼が静かに、なにもなく広がる外を窓越しに眺めていた。
「・・・・・・」
いいね、と、胸中で呟く。田舎街への道すがら出会った不思議な雰囲気の異国の少女。思わず声をかけたくなるくらいには、その存在は静かに際立っていた。
カウンター内にいた髭面の店員にコーヒーを頼みしばし待つ。何気なく少女を観察していたのだが、少女は変わらずじっと外を眺めていた。
「・・・・・・やあ。こんなところで誰かと会えるとは思っていなかったよ」
出て来たコーヒーを片手に、誠実さと親しみやすさを綯い交ぜにして微笑みながら話しかけ同じテーブルの向かい側に腰掛けた。
「ずっとひとりで運転して来たからさ。喋り方を忘れるかと思ったよ」
「そうなんですか」
言葉が通じるかな、と少し思ったがそれはいい意味で覆された。違和感のないきれいなイントネーション。問題なく英語を扱う少女のようだった。さらに好感度が上がる。
落ち着いているやわらかなトーンの声だった。通る声ではないがその分耳馴染みが良く心地よい。近くで見ると黒目がちな瞳はその深さの印象をさらに増したし、象牙色の肌は手触りの良い陶器のようだった。触れるときっとすべすべとやわらかく、あたたかいのだろう。
急に話しかけられて少しだけ驚いたようだった。大きな眼がゆっくりと一度瞬きし、それから少しだけ笑いかけられる。その控えめな空気に背筋がゾクゾクする。悪くない。馬鹿みたいにけばけばしい華やかさはないが、丁寧に作られ磨かれたような安っぽくない少女だった。手に入れられたらーーー一晩でも手に入れられたら、不思議な満足感で満たしてくれそうな。
「急に話しかけてごめん。・・・・・・どこから来たの?」
少女は都市の名前を言った。想像通りフェリーと車を乗り継いでここまで来たらしい。
「こっちに来る変わり者が俺以外にいるとは思わなかったよ。外にあるの君の車だろう?」
「はい。でも壊れてしまって」
幸運の女神は自分に微笑みかけてくれているらしい!
「それは大変だね。よかったら乗って行く? 俺も丁度話し相手が欲しくてさ、」
車のキーを手のひらの上でちゃらりと鳴らし、とっておきの話をするように言葉を膨らませるーーー少女がそのやわらかそうな唇を微かに開けた瞬間、
「何の用だ」
かけられた冷ややかな声とそれと同時に感じたぞくりとした悪寒。何かとても恐ろしいものに追われる動物のように振り返ると、そこにはひとりの男が立っていた。東洋人ではない。自分と同年代であろうその男が冷たい色をした灰の眼を無表情に自分に向けていた。
「何の用だ」
「い、いや・・・・・・」
「オーリ」
絶対零度の声で再び問われた言葉にごくりと唾を飲み込む。吹き荒ぶ風も音もなく一瞬でその場の空気を氷点下のものにした男は、しかし少女に名前を呼ばれた瞬間少女に眼を向けた。眼が合ったのがうれしかったのか、単に男がここに戻って来たことがうれしかったのかーーー少女が傍に立つ青年に向かってにこりと微笑む。ふわふわとやわらかく手をのばされるように名前を呼ばれ、男がやさしく微笑った。
「ん、なにかあった?」
「ううん。やっぱり席移動してよかったね。景色が良い。・・・・・・このひとは話し相手を探してるんだって」
「そう」
やわらかく男が言葉を返す。シート座席に腰掛ける少女が少し詰め、男はその隣に座った。ーーー恐らく自分が今座っている位置が男の席だったのだろう。自分の真向かいになった男の顔を直視出来ない。
「あのね、オーリ、」
「あ、ちょっと待て。髪になにか付いてる」
「え? どこ?」
「取るからじっとして」
「うん」
少女が素直にうなずいて軽くうつむき男に身を寄せた。流れ落ちた髪により少女の伏せられた目がこちらから見えなくなる。
男はーーー男はそんな少女に微笑みかけると、その長い腕を少女の華奢な身体に回した。背中を軽く抱き寄せ、自分の胸に頭を付けさせる。何の抵抗もなくすっぽり自分の腕の中に収まった少女の外光により薄く青みがかった艶やかな髪をゆっくりと梳き、手の中に残った一筋を指先で撫でる。・・・・・・近くで見ると、少女の髪は漆黒ではないようだった。ふわっと薄く色を変えた髪の色はこの距離からでは正確にはわからない。ほぼゼロ距離のこの男にしか、その色はわからない。
男はこちらを向かない。その灰色の眼はこちらを見ずに少女だけを見つめたまま、自分の指先に残るその神聖な髪に口付けた。
儚いものを扱うような眼。唇をそっと離した男は横目でこちらを睥睨すると、温度を失ったその眼が酷く優雅に微笑んだ。
ーーーこれ以上、何の用だ? ーーーと。
声もなく、男が云う。
「オーリ、取れた?」
「うん。追い払った」
「? 虫だったの?」
「そう。でも俺が追い払ったからもう大丈夫」
「そっかあ。気付かなかった、ありがとオーリ」
「どういたしまして」
ゆったりと微笑んで青年が背中に回していた腕を下ろす。顔を上げる前に少女がお礼のようにすりっと胸に頬を付けた。とてもよく懐いた猫のような仕草だった。
「オーリも睫毛取れた?」
「洗ったら取れたよ。ほら」
少女に合わせるように少し身を折る。それに合わせて少女は慣れた仕草で覗き込み、とん、と軽く付くように男の肩口に手を置いて至近距離で眼を合わせた。
「・・・・・・うん、取れてる。よかった」
そのままの距離でふわっと少女が微笑った。
「ちくちく気になるもんね」
「眼の前をちょろちょろとうざったいしな」
「ちょろちょろ?」
「なんでもないよ。ーーーコーヒー、もう冷めたんじゃ?」
零度の眼が向けられる。
「えっ、あっ、」
久々に発した声がそれだった。無意識の内に止めていた呼吸を思い出し、言われたからというより何も考えられないままカップを掴みコーヒーを一気に煽る。男が言うほど冷めてはなく、まだ湯気の立つそこそこに熱いコーヒーが一気に口の中を襲い悲鳴を上げかけたが何とか堪えて全て飲み込む。
「話し相手が欲しいなら、休んでないでさっさと目的地に行ったらどうだ」
「そ、そうさせてもらうよ。じゃあ」
男とも少女とも眼を合わさず立ち上がり、ポケットの中の紙幣をろくに数えずカウンターに置いた。出来る限りの早足で店を横断してドアを抜ける。
自分の車の前まで来てようやく振り返ったが、男も少女もこちらを見てはいなかった。こちらから見ると背中を向けている形になる少女がなにやら男に話しかけ、男がなにか返す。表情が見えないというのに、少女がとてもうれしそうで幸せそうなのが手に取るようにしてわかった。
一晩でもものにしたなら、なんて。一晩どころか一瞬でも無理だ。その前にあの冷たい眼に抹殺される。
それでも残念な気にはならなかった。あの眼の届く範囲にいたくない。考えただけでぞっとする。
溜め息を吐く暇もなく車に乗り込み、エンジンをかけて走り出す。それからはもう絶対に、振り返らなかった。
軽く身を折った彼が咥える煙草に火を付けた。小さな灯りとゆるい煙の向こうでオーリが笑う。
「ありがと」
「どういたしまして」
ダイナーを出てしばらく歩いた路の上。近い距離にある灰色とその奥の青色の眼を見て首を傾げた。
「なにか考えごと?」
「ん? んー、」
なにかを思うような顔になったオーリがミユキの髪を撫でるようにして梳いた。少しくすぐったかったがそれ以上にうれしくて心地よかったので動かずにされるがまま身を任せる。指の隙間を流れる小さな音が微かにする髪をさらさらと長い指先がもてあそび、最後まで残った一筋が惜しむように落ちた。
「・・・・・・? オーリ?」
「うん」
最後にもう一度、そんな風にして触れたあとなにかに満足したのかひとつうなずいた。ふわりとミユキの手を取ると再び歩き出す。
「売る気もないしましてややる気なんてこれっぽっちもないんだよ」
「? なんの話?」
「俺の大事なものの話」
「・・・・・・? よくわからないけど、大事なものは手放さないのが一番だよね」
「そうだな、ミユキ」
〈 青色の独占 青色の白い花 〉




