勤勉で真面目な僕と、愚図で不真面目な亀の話 3つ目
夫と結婚後、彼と仲違いすることがあれば、毎回飲みに誘う男がいる。
「ねぇ、一体どーいうこと!? なんであんな事を私に言ったワケ!?」
「……あー、そうだなぁ」
大衆の居酒屋で、波々とジョッキに注いだビールをあおる。それから対面の座敷であぐらをかいた男に延々と絡んでやるのだ。
「あいつにも、なにか理由があったんじゃないかな」
「そりゃ理由はあるんでしょーけどねぇ。で、今回はどっちの味方なの?」
「僕は誰の味方でもないよ」
「強いて言うならどっちかって聞いてんの。意味わかる? えぇ?」
「…………君の方」
「でしょでしょ。そーでしょー」
この歳になると、周りの人間はみんな、自分のことで精いっぱいだ。
誰もがグチをこぼせる機会を探している。
「ねー、アンタさぁ。時給千円ぐらいで、グチ聞くバイトとか始めてみたらー?」
「遠慮しとく。僕は人って生き物が嫌いなんだよ」
「あはははは。人嫌い。今時流行んないわよ、そーいうの」
「関係ないから」
男がため息をこぼす。人生に疲れたものじゃない。心底、自分が偏屈な人間であることを示す子供じみた所作だった。
実際、酒を飲まない。タバコを吸わない。ついでにギャンブルもしない。
ウーロン茶をひたすら、静かにちびちび飲んでいる。
「たまにはお酒も飲んだら?」
「僕が飲んだら帰りはどうすんだよ。他に足がないだろ」
本当は苦手なのに、口先の正論で答えを逸らす。プライドだけは山のように高かった。
「あはは。自分でアッシー君って認めてやんのー。やーい、アッシー君」
「……そのジョッキ空いたら帰るからな、酔っ払い」
「やだぷー」
私のアッシー君は、本日も車でお迎えに来ている。普段は水槽の中で眠っているから、運転なんてできないでしょと思っていた。けれど隣に座ってみると、意外と慎重で安心感があった。
言うならば、とても臆病なのだ。この男は。
自分のことは極めて適当なくせに、誰かと約束を交わすと、お守りのように心に刻みつけて守り通そうとする。律儀と言えば聞こえは良いが、実際は融通が利かないというのが正しい。
「はやく帰ろう。さわがしい場所は苦手なんだよ」
今日のところは、私を車に乗せて家に帰らねばならない誓約を負っている。まぁ、普段はなにもしてないのだから、まだまだ付き合ってもらわないとね。
「だいたいねぇ、あのヒトったらねぇ! 私にこう言ったのよ! 君は仕事をやめて主婦に専念してみるという考えはないかねって。ふっざけないでよね!」
「……そうだね。今回の失言は向こうにあるよ。あと話がループしてるから、いい加減に切り上げてくれないかな」
「でしょ~? 悪いのはあっちよねぇ? 産休から復帰したあと、私が現場復帰するのにどれだけ苦労したと思ってるのっ!?」
「はいはい、そうだね、君はなにも悪くないよ」
「ちゃんと聞けよ!」
「聞いてるって」
ジョッキを机に叩きつけると露骨に顔をしかめられた。酒が入ってなくとも、相手のことを気づかわない、言葉のかけひきが一切できない男が内心を吐露する。
「昔の僕なら間違いなく直帰してる。ついでに今後、君とも顔を合わせないよう仕事をやめるかもしれない。でも、君は明日も真面目に行くんだろう。こんな所で寄り道してないで、素直に家に帰ってきなよ。もうすぐ日付も変わるから」
「やだー。向こうが謝るまで、ぜーったい帰ってやんないんら!」
「だから、もう何日も前から謝ってるのに、君が口をきかないんだろ。昨日なんて家に帰らず、わざわざビジネスホテルで一泊したりするから、今日は僕の方が来たんじゃないか。あと」
「なによー。まだあんのかー」
「娘っ子も心配してる。それに今はあの子しかいない」
その一言が、ちくりと胸を刺した。
「考えてもみなよ。今は家に〝大人の人間〟がいないんだぞ。ボタン一つで、こっちの携帯に繋がる非常用の連絡手段は確保してるけど。今のあいつじゃ、基本なにもできないんだ」
「わかってるわよ……」
「わかってるなら、早く帰るべきだろ」
ジョッキの底に残った泡を吸い上げながら、つい顔をそらしてしまう。
「なによ……だいたいあの子だって、私のこと嫌ってるでしょ……」
「それは違う。子供に嫌われることしてる自覚が君の中にあるだけだ」
今度はしっかり突き刺さる。夫が遠慮して言わない正論を、正反対の人間に指摘される。
「だから、こんな風にぐだ巻いてるんだよ」
「偉そうにっ! ニートの分際で私に説教すなっ! すいませーん! 生チューもう一杯!」
「あ、こら!」
私は大声で追加注文をした。
「このまえだって! 作文にお母さんのこと書いてくれないのよ! なんでお父さんのことばっかり書くのよ! しかもさらっと、私の作るごはんが下手みたいなディスり入れてくんのよ! はらたつわー!」
「じゃあ直接、娘っ子に、お母さんの作文書いてって言えばいいんじゃないかな」
「適当なこと言ってんじゃないわよー! ちゃんと話聞きなさいよー」
「はやく家に帰りたいんだよ、僕は……」
「あんだとー?」
反射的に上体が前に伸びた。両手が憎い顔をした相手の肩をつかむ。
「お母さんだってぇ、スーツ着てるじゃない! パンプス履いて、踵のある靴だって履いてるじゃないっ! 大っ嫌いなのに! ピシっとしてて、格好いいでしょおぉ~!?」
「……そうだね。格好いいね。早く家に帰らせてくれ……」
「娘ぇ! なんでお母さんのこと蔑ろにすんのよっ! こんな男のドコがそんなに良いの! うぅ、いやだぁ! もういやだぁ! おうちかえるぅ!」
「だから早く帰ろうって言ってるじゃないか」
「もー、仕事も上手くいかなくてイライラするし! ちょっとこの世界、私に厳しくしすぎじゃない!」
「君、最近になって小シワ増えたよね」
「んだらァ!?」
机を飛び越え、ぐーで殴る。
「……ううぅ! ふえええぇっ!」
ぽこっ、ぽこっ。と酔ったパンチで、ほっぺをなぐる。頭がくらくらしてきた
「わたしっ、わたひらっへ、がんばってるのっ! でもじょうずに、おかーさんれきないのっ! こどもきらにじゃにゃいのぃいっ! なまいきでむかつくけどおぉっ!」
「うんうん。君は悪くないよな。人には向き不向きがあるんだよ」
さらっと酷いことを言う。でも、
「……しってる。わたし、おかーさん、むいてない……」
私は知らない。覚えてない。
働いてボロボロになっていくお母さんしか知らない。その隣には、なにもせず、口だけは達者なお父さんがいる。世の中に文句ばっかり言って、余計にお母さんを追い詰めている。
みんなの口にする「お母さん」のイメージが、私には無い。
結婚する前に、二度、男性と付き合い、二度別れた。
一度目は、最後の日に「おまえ、人の気持ちとかわかんねーだろッ!」と叫ばれた。
そんなものはわかるはずがない。付き合うメリットよりも、不利益の方が圧倒的に多いように感じられ、さっさと別れを切りだした。一発殴られ、歯が折れた。
彼は翌日から私の前に姿を見せなくなったが、内心で安堵しながら、歯医者の予約を取った。
二人目は、一人目と比べると、できた性格の人だった。けれど、付き合って一年が過ぎたころになると、彼の言葉には少しずつ刺が増え始めた。
「損得勘定で動きすぎじゃないか?」「もう少しこっちの事も考えてくれよ」
「君のことがわからなくなってきた」「これ以上、その態度を続けられるとしんどいよ」
だったら、別れましょう。
私が言うと、二人目の彼は目頭を抑えて、ひどくひどく、苦い物を飲み込んだような顔になった。「どうしてわからないんだよ……」
むしろ、私の方が聞きたかった。
「なにがわかったの?」
仕事のクライアントが持ってくる案件には、必ず、何かしらの『問題提案』がある。私たちはそれを見抜き解析する。備わった人員とコストで解決を図れるか思案する。
問題が解決できるならば、手法は自由だ。対価として、お金を得る。
『自由』は、いつも不等号で『お金』と結びついている。
お金が無ければ、ないなりに、仕事のやりようはある。
ただし、お金がなければ、人は豊かにはなれない。どんどん惨めになっていく。
お金が無くてもいいというのは、結局は、お金を増やす手段を模索することだ。
それが自由の正体だ。人は、お金を稼ぐために生きている。
これまで、たくさんの失敗もしたけれど。
最終的には恋をして、結婚もできた。人も集めて、式も開いた。
子供が生まれた。次はもうすぐ家は建てる予定だ。借金のない家だ。
誰にもお金を払わないでいい。雨風は凌いで、光だけがふり注ぐ。帰る場所。
認められる物を作るにはお金がいる。もっともっと、手に入れなければいけない。
『――君は一度、仕事をやめて、主婦業に専念してみる。という考えはないかね?』
だからあの日、夫からの提案を耳にした時、頭の中が真っ赤になったのだ。
「…………ざけ、ないでッ!」
「ん?」
私は、
「気が付いた?」
車の後部座席にいた。
「あと十分もすれば着くよ。具合悪くない?」
「お水……」
「あるよ。はい」
夫が運転席に座っている。ちょうど赤信号で止まっていたのか、助手席に置いたコンビニの袋から、ミネラル水のペットボトルを一本取って渡してくれた。
「青だ」
信号が変わる。車が発進した。私は痛む額を抑えて、水を飲んだ。
「ねぇ」
「うん?」
「帰りたくない」
子供が家出をしても、すぐにお金は失われる。
「帰りたくないの……
自分の不自由さに耐えきれず帰ってくる。しかし、私はそうはならない。
一人に戻れば『お金』は増える。私はもっと『自由』になれるのだ。
「……くくっ」
不意に、運転席に座った夫の肩が震えた。ミラーをちらりと見て、たぶん、前後に車がないのを確かめてから、路肩に寄せて停止した。で、急に噴き出したと思ったら、
「わはははは」
「なっ、なにがおかしいのよ!」
「いやぁ、だってさぁ」
運転席から振り返って、ニヤニヤ笑いながら、私の方を見つめる。
「家に帰ったら、親に叱られるから、だから帰りたくないって、言ってるみたいでさ」
「~~~っ!」
「今のはちょっと、いや、かなり可愛かったな」
「う、うるさいっ!」
「うわっ、いて、いででっ!」
手にしたペットボトルを逆手に持って、バシバシ叩いた。
「アンタみたいな奴らは、みんなまとめて死ねっ! 死になさいっ!」
「はいはい。わかってるわかってる」
彼は叩かれながら、苦笑交じりに言った。
「僕と違って、君はできた人だからな。大丈夫だよ。あの子も大人になったら、いつか分かる」
「……っ」
叩いていたペットボトルを取り下げて、キャップを開く。ごくごく飲み干す。
「あの子の結婚式には、絶対に『私の理想はお母さんでした』って言わせてみせるわ」
「どうかなぁ。小学生の娘の私物を勝手に検索したり、取りあげて叱ったりする様な真似をしてるようじゃ、難しいんじゃないの?」
「う……」
運転席に座った夫は、くつくつと笑いながら、車を再発進させる。
「だ、だからって、親の言いつけを無視して、ポテトチップスの袋を机の中に隠すなんて、叱って然るべきだわ。おこづかい帖も渡して、買った物はここに全部書きなさいって言ってるのに、書かなかったんだから」
「君は昔に、香りつき消しゴムって集めなかった?」
「……は? なに?」
話がいきなりとんだ。
「果物や、お菓子の香りがする消しゴムだよ。今も小学生の間で流行るもんなんだねぇ。実際に噛むとマズイんだけど。ハサミで切って、友達と交換したりしたっけな」
「だからなんの話よ」
「あの子の話だよ」
ぴりっと、なにかひりつくような痛みがきた。少し声の質が変わる。
「月々の余ったおこづかいでも、お菓子を買ったら怒られる。だからあの子は考えた。他で買った文房具なんかを数円ずつずらして、百円ちょっとの額を辻褄が合うよう工面した。知ってた?」
「……」
知らない。そんな裏帳簿を作る真似してたなんて、知らない。
「そしてできたお金で、小さなお菓子の袋を一つだけ買って机に隠した。けれど、母親が持ち物チェックだとか理由をつけて、机の中身を探って見つけてしまった」
「そ、それがなによ。どう考えって子供が悪いでしょ」
「そうだよなぁ。これは大人の視点で見れば、立派な犯罪だ。あの子は、隠し事が見つかれば、罰を受けることを身をもって学んだ。それはいい」
自動車がまた、赤信号で止まる。夫はこっちを振り向かない。
「じゃあ、次はどうすればいいかと考えた時に、ちょうど学校で『香りつき消しゴム』が流行ったんだよね。実際に食べられるわけじゃないし、お腹もふくれないんだけど。大好きなスナック菓子や、アイスクリーム、コーラやオレンジジュースなんかの匂いのついた消しゴムなら、買っても怒られるはずがない。何故なら、おこづかいの中から自分で買いなさいと言われた『文房具』なんだからね、それは」
「……あ」
思いだした。
あの子の私物を黙って確認した時に、机の中に、使われていないのに、綺麗に一列並べられていた消しゴムがあった。外側の包装には、いろんなお菓子やアイスの絵が書いてあって、反射的に「また私に黙って勝手なことをした」と思ってしまったのだ。
「あの子はね。君の同僚や部下じゃないんだよ」
信号が青になる。車が前に進む。帰るマンションが近づいてくる。
「よくできた子だよ。親に言われたことをきちんと守って、自分でも、傾向と対策を考える頭がある。だけどそれを毎回否定されてしまうと、あの子は本当に望むところに行けなくなる。到達する前に、自信を無くしてしまう」
こんこんと、夫の言葉が降り積もるように胸に落ちる。
「だから、あいつもつい、言っちまったんだよな。君に仕事を止めてもらって、あの子と一緒に過ごして、お互いを理解しあう時間があってもいいんじゃないかってね」
昔に別れた男たちの言葉が、鈍く傷む頭のなかで残響する。
「おまえ、人の気持ちとかわかんねーだろッ!」
「どうしてわからないんだよ……」
彼らも改善を試みようとはしていた。していたけれど、それは私から見れば、無駄の多い、ほとんど意味のないことだった。
無駄なことは嫌いだ。お金が減るからだ。自由が失われていくからだ。
身動きできなくなった人間は、刹那的になり、寿命を縮め早死にする。
私の父親は今も定職につかないクズだが、六十近くになってもまだ生きている。
母が死に、一人娘の私とも顔を合わせない。こっちの家にも顔を出さないよう厳命しているのもあって、ある意味で気楽なのだ。夢も希望もないが、適当にその日暮らしで生きている。
運転席に座っている〝この夫〟も同じだ。
特にやるべきこと、守るべきこともない。だから、口ばかり達者だ。
(さっきから、一方的にぺらぺらと……っ!)
まだ体の中にアルコールが残っている。身体が熱くなって仕方ない。そうなってしまうと、感情が止まらなくなる。私は、
「でもさ、僕はこう思うわけだ。今のままで、大丈夫だよってね」
「…………なんでよ」
昂ぶっていた怒りと、不安が消える。このダメ男には、どこか、他人の気持ちを安心させる力があった。普段まったく苦労していないからだろう。
「だって君たち、親娘じゃないか。器用なところも、不器用なところも、よく似てる。折れても砕けても、ふざけんなっつって、また立ち上がるタイプだよ」
言葉がすとんと落ちてくる。心臓が痛む。
「僕にはできなかった。動かず、冷めた目で、世界を俯瞰して悦に入っちまうんだ」
「妄想癖の人間に多いわね。能力がないのに、口先だけは達者な連中ばかりよ」
「そう。自分からは動かないんだよな。その点、君は立派だよ」
緩い坂をのぼる。道路から集合住宅の駐車場に移り、車を止める。
「だから、君はべつに、無理して娘のお母さんをやる必要はないと思う。君は君だ。今のまま毎日を生きて、働いて、お金をじゃんじゃん稼いで、広々とした豪邸とか建ててくれればいい。でもね、一つだけ言わせてもらうなら、あの子はやっぱり、君を必要としているんだよ」
知ってる。知っている。誰よりも。
「大丈夫。君ならやれるよ」」
だってそれは、私が子供の頃、欲しくて仕方のなかったものだから。
櫛で整えた髪に、立派な黒いお洋服。背はぐんと伸び、踵のある靴も履いている。指には生真面目な主人が贈ってくれた、給料三か月分のダイヤの指輪。
――安定した生活。のんびり、ゆったり笑う、家でテレビを見て笑ってる、お母さん。
「着いたよ」
車が止まる。振動していたエンジンの音が消え、静かな夜の気配だけがやってきた。運転席に座った〝もう一人の夫〟は、シートベルトを外して、外に出ようとした。
「待って」
引き留める。身体を前に持って行き、振り返ったところにキスをした。
「あのヒトには内緒よ」
言ってあげると、彼はうっすら顔を赤くして「酒臭いなぁ」と誤魔化した。