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冬休み明けというのはちょっぴり憂鬱な気分になる。しかし学生にとっては学業がメインなので、避けて通ることは出来ない煩わしさだ。
四時限目が終わり昼休み開始の時間まで、僕はそんなことを思っていた。昼は必ず姉さんと食べることが決まってるのも億劫な理由の一つだ。姉さんは生徒会長にして、学園の羨望を一心に受けるスーパーアイドルなのだ。そのアイドルを姉弟とはいえ独り占めにしていては疎まれてしまう。
じゃあなぜ、姉さんと昼食をとり続けているのか。
一度別々に食べよう、と言ったことがある。思えば勇気ある発言だったが、若かりし故の過ちといもいえる。当然姉さんの逆鱗に触れ、いかに僕のことを愛しているか。そして弟とは何であるかを嫌というほど説教された。それ以来姉さんを怒らせるのは得策ではないと判断した為である。
そんなことを考えていると、隣の席から気遣うような声が聞こえてきた。
「空。先ほどから何を考えているのだ?」
戸塚恭子――数少ない僕の親友の一人である。艶やかな黒髪はポニーテールにまとめられ、涼やかで凛とした目元があでやかに添えられている。肌は眩しいくらいの美白で、大和撫子と称しても違和感がないほどだった。
「そろそろ姉さんが来る頃かと思ってね」
僕は机に肘をつきながら言った。恭子はため息をつきながら、
「何だ。心配して損したぞ。お前が深刻そうな顔をしているから、力になってやろうと思ったのに」
と、口元を緩めながら言った。僕は苦笑した。
「生まれつきこういう顔なんだよ」
「そうか。だが何かあったらすぐ相談してほしい。私はお前の『親友』なのだからな」
「ありがたいけど、別に今悩んでることなんてないんだよ」
「そ、それでもいいんだ。大人しく何かあったら私を頼ると言え」
「わかった。わかったから……そんなに顔を近づけないで」
彼女は吐息がかかりそうなほど顔を近づけていた。
指摘すると恭子は慌てて、
「あ、ああ……すまなかった。しかしお前の姉君、少し遅すぎるのではないか? このままでは昼休みが終わってしまうぞ」
確かに昼休みに入ってもう三十分ほど立っている。時間にうるさい姉さんにしては珍しい。
「な、なんなら私と食事をしないか……? お前の分も作ってあるぞ」
「え? 僕の分もって?」
「ああ、いや! 今朝新しい料理の試作をしていたら作りすぎてな。捨てるのも勿体無いから空にでも渡そうと思って持ってきたのだ」
恭子はあたふたしながら言った。
普段は人形のように無表情だが、こうして慌てる時の顔は非常に魅力的だ。だが僕が反応しないことに心配したのか、恭子は顔を曇らせた。
「私とでは迷惑か?」
「い、いや、そんなことないよ」
僕は潤んだ眼で見上げてくる視線を逸らしながら言った。
「じゃあ、一緒に食べようか」
恭子の顔がパアッと輝く。
「そうか! 嬉しい……ああ、いや! 別にどっちでもよかったのだがな」
恭子は時々訳が分からない仕草をする時がある。機嫌がいいのか悪いのか、よく分からない時が。
「そんなことより、そろそろ限界。お腹空きすぎて死にそうだよ」
「す、すまん!」
恭子は慌てて鞄の中から弁当箱を取り出した。
出されたのは漆塗りの四段型の重箱だった。僕は無言でそれを見つめる。
「す、すごいね……手間かかったんじゃないの?」
髪の毛先を弄りながら恭子は答えた。
「好きこそ物の上手なれというからな。うちは躾が厳しかったし、今から花嫁修業として家事全般は徹底的に叩き込まれている」
「ああ、あの家だもんね」
「空は何度か招き入れたことがあったな」
ゆっくりと蓋を開けながら恭子は言った。色とりどりのおかずが豪勢に盛り付けられている。
「うん。あんな古風な屋敷があることにびっくりしたよ。ドラマでしか見たことなかったから」
僕はそのときの光景を思い出しながら言った。天井は高く中は入り組んでいて、恭子の案内がなければ迷子になっていただろう。
「あはは。やはりそうか。うちに来た時は皆そう言うのだ。そのせいで、長い間親しい友人ができたこともない」
「そんなことで友達になれないなら、本当の友達じゃないさ」
「そう言ってもらえたのはお前だけだよ。だから、私はお前と知り合ったことを良かったと思っている」
一点の翳りもない眼で恭子は僕を見つめた。
そして言った。
「空……私は、お前が……」
「恭子……」
「あら、校内は不順異性交遊禁止ですわよ」
僕と恭子の間に割り込む形で、姉さんは登場した。
「姉さん、いつの間に?」
「ごめんなさい空。さっきまで生徒会執行部で会議をしていたの」
姉さんは心底申し訳なさそうな眼で言った。
「そのせいで、どこの馬の骨とも知れない阿婆擦れに誑かされているようね」
姉さんは恭子を見て言った。その挑戦的な態度をかわすように恭子は答える。
「これはこれは。空の姉君ではありませんか。学園の風紀を守り、生徒会をまとめるその手腕、真にお見事と尊敬しております。それに今朝の始業式での挨拶、堂々たる振る舞いに感服いたしました」
「あら、それは喜ばしいことですわね」
姉さんの言い方には明らかな棘があった。
「それなら聞いていたと思いますけど。最近男女間の間でふしだらな目的で交友するのが流行っているようなので、学生の間はなるべく控えるようにと言ったはずです」
「な、私はそんなつもりなど」
恭子はうろたえながら言った。
「これは失礼。名門の流れを汲む戸塚家の長女が、そのような恥じらいのない行為をしているなどと、外聞によろしくありませんものね」
「ふしだらな目的などない」
恭子は椅子から立ち上がって反発した。
「生徒会長とはいえ、学生同士の付き合いに口を挟む権利などないはずだ」
姉さんは優雅に、だが蔑むような微笑を浮かべた。
「あなたはそれでいいのかもしれません。ですがうちの弟に妙なことを吹き込むのは止めて頂きたいのですけれどね」
「姉さん、僕は別に変なことなんて――」
「弟は内向的で、無理やり迫られると嫌と言えない性格ですの。私がついていないと、どんな目に合うか分かったものではないのですよ」
「無理やり迫ってなどいない!」
恭子は声を荒げた。
「そのようなことはどうでもいいのですわ」
姉さんは澄ました声で言う。
「とにかく私は、生徒会長として風紀の取り締まりは徹底して、生徒間の間違いを正すつもりですわ。なので無闇に空に触れたり、話しかけたり、考えたりはしないように。それだけは心得ておいてください」
「ぐっ……」
恭子は悔しそうに歯軋りをした。
「では空、生徒会室で一緒に食事しましょう」
姉さんはそう言うと、僕の腕を引っ張ろうとした。
その反対側の腕を恭子がつかむ。
「空、私と一緒に食事をすると言ったな?」
と鋭い眼を向けてくる。僕が言葉に詰まると、
「あら、お離しなさい。空の綺麗な体が穢れるではありませんか」
「な、なんだと」
「私はこれから空と姉弟しての親睦を深めるのですわ。それとも、やはり空と淫らな行為に及ぼうとしていたのですか?」
「か、勝手なことを言うな。空、こんな人は無視して私と一緒にいよう」
恭子は燃えるような眼差しで僕に言った。
「私が真に純粋な恋愛について教えてやるからな」
「だめよ、空」
半ば地の性格が出つつある姉さんが恭子を制する。
「私と来なさい」
それは、まさに女の争いだった。
「ね、姉さん」
「私との約束はどうなるのだ、空!」
恭子も負けじと詰め寄ってくる。
「恭子」
僕は二人に向けて言った。
「……休み時間、すぎちゃうよ?」
二人が同じタイミングで時計を見合わせると、5時限目始業の開始まで五分もなかった。
「あら、私としたことが。おほほ」
姉さんはお上品に笑った。それを見て恭子も笑みを浮かべる。
「ふん、あのまま続けていても私が負けるとは思えなかったがな。今回は引き分けということにしよう。朱音先輩」
「ええ、今回は、ね」
さっきまで争っていた敵同士。
今は硬く握手をして互いのことを認め合っていた。
その姿を見て僕は呟く。
「いや、僕お昼食べてないんですけど……」