23
「亘理…………朱音…………」
信じられないものを眼にしたような顔をしてるのは、玲子も同様だった。右手にナイフを携えたまま、ゆっくりと後退して距離を開けていく。おそらく刃物を持った者同士なら、分が悪いと判断したためだろう。さっきまで逆上していた頭が、少しは落ち着きを取り戻したらしい。
「並河玲子、あなたは大きなミスを犯したわ」
姉さんはキッと玲子を見据えながら言った。
「よりにもよって、私の命よりも大切な空に手を出すだなんて。うふふ、二度とこんな馬鹿な真似が出来ないように、四肢を一本ずつもいでダルマみたいにしてあげましょうか、私が」
いたぶるような姉さんの口調は、物凄く怖かった。怒りのボルテージがリミットを振り切ったらしい。だけど今は頼りにさせてもらうしかない。こうなった以上は成り行きを見届けることしかできないから。
「な、何よ。空が本当の弟だと騙して手篭めにしようとしてたのはどこの誰よ。弟に手を出すな? 笑わせないでよ。あなたこそ空の姉として似つかわしくないわ!」
玲子は語気を荒げた。反論の仕方は馬鹿げているが、僕も姉さんに対してあらぬ邪推をしてしまったのだ。だがこうして打つ手なしの状況で助けてもらっている。結局、僕と玲子は血を分けた本当の親子なのだ、と認めるしかない。
「あなたにだけは言われたくないわね」
姉さんは冷静沈着に言葉を返した。
「少なくとも、勝手な都合でわが子を手にかけようとする人には。あなたは自分たちの地位が揺らぐことを恐れたのよ。あなたこそ、空の母親を名乗る権利なんてないわ!」
「うるさいうるさいうるさい! なによ、あんたに何がわかるの! 並河グループを大きくするために、私たちがどれだけ身を粉にして尽くしてきたか! あんたに判るっていうの!?」
「そんなことのために、僕を……」
髪を振り乱し、悪意を込めた眼を向けている女が、僕の母親なのか。ズキズキと胸が痛んだ。会社に貢献してきたその思いを、ほんのわずかでも僕に向けてくれたらと、心底思う。だが、今そんなことを考えていても、どうにもならない。ならばせめて、こちらも負けぬように蔑みの視線を送るまでだ。
「ふん、とうとう本性を現したわね。身を粉にして尽くしてきたですって? わが子を見放してまでする大切な仕事なんて、どこにあるっていうのよ」
姉さんもまた、侮蔑しきった口調で言った。
対する玲子は、唇をブルブル震わせながら答える。
「私は空を見放したわけじゃないわ。うちにくれば、並河家の莫大な資産は全部空の物になるのよ。空にとって一番得をする話なのよ?」
「そんなもの、空は求めてないわ」
姉さんは僕に眼を向けた。
「お金なんて、ある程度でいい。空に最も必要なのは、沢山の愛情よ」
そう言うと姉さんは、手に持つナイフを玲子の眼前に突きつけた。
幸い本当に刺さることはなかったが。玲子は甲高い悲鳴をあげた。
「ひっ!」
「騒がしいわねこの雌豚は。本当に殺そうかしら」
姉さんは銀色のナイフを振り上げると、手の力を抜いて地べたに落とした。
「と、思ったけど、それはやめるわ」
からんと音が鳴り、玲子は驚いて姉さんを見る。
「何のつもり? さっさとやらないの?」
「ここであなたを殺しても空は喜ばないわ。でも忠告しとくわよ。あなたは殺人未遂の現行犯。もう二度と手を出さないことね。次こんなことしたら今度は地獄を味わわせてやるから」
脅しをかけるように、姉さんは玲子に警告を与えた。
玲子は俯き足元に視線を落としている。
「さ、帰りましょう、空」
姉さんはきびすを返した。その時だった。
「…………!」
玲子は突然顔を上げ、手にしたナイフに力を込め、姉さんに向かって走り出した。猛然と迫る獣のような姿が接近してくるのは、僕の眼からは映る。だが姉さんの立ち位置からでは気づきようがない。このままでは刺し殺されてしまう。
思考が働く前に大声で叫んだ。
「姉さん! うしろ!」
姉さんは振り向いた。
眼前に迫るナイフ。
刺さる。
そう思ったときだった。
同時に、姉さんは瞬時に身をかがめ、襲いかかる玲子のナイフを避けた。玲子の目線で言えば一瞬姉さんが消えうせたように見えただろう。
「え!?」
標的を失った玲子はバランスを崩し、驚きの声をあげた。
その隙に姉さんは全体重をかけ、大地を踏みしめ、前かがみになった玲子のみぞおちに、鋭角な肘打ちを食らわせた。
肘は体の中で最も硬い部分だ。それが柔らかい腹部にめり込んでいるのだから、痛いどころでは済まないだろう。
「ぐえっ!」
玲子は呻き声をもらすと、手元からナイフを落下させた。
そしてそのまま地面に倒れこむ。
「……姉さん」
「大丈夫、殺してない」
姉さんは言った。
「こんな無責任な親でも、空の血が繋がったお母さんだもの。私は空が苦しむようなことは死んでもしない」
「でも、どうしてそれを……」
「学校から帰る間、ずっと空の跡をつけてたの」
姉さんはしれっと言う。
「ごめんね。教えたら空に怒られるかもしれないから。何もなかったら帰ろうとしたけど、あの女が空に襲いかかってくるのが見えたから」
「ごめん。心配かけて」
「もう、これに懲りて無茶はしないでね」
むくれたように言ったが、すぐに表情を緩めてくれた。
「でもさっきの空、かっこよかったよ」
「姉さん……」
僕のことをじっと見守ってくれてたのか。玲子みたいに血の繋がりはないが、僕を真に思ってくれる気持ち。それだけは本物だ。僕は言った。
「ありがとう。僕の大切な姉さん」
「え? え? 大切な人ってもしかして、お姉ちゃんのことを世界で一番愛してくれてるってこと? ああん、嬉しいよー! 結婚式はいつにする?」
ま、まあ、姉として愛してるって意味では、あながち間違いでもないのだが。今の姉さんには何を言っても無駄なので口には出さなかった。というより、ほっとした途端、肩の傷口が痛み出したので、
「いつかね」とだけ言っておいた。
そのとき、川辺の土手を、一台の車の明かりが照らした。遠目で分かりづらいが、大衆車ではなく、白塗りのベンツが停まっている。ばたんとドアが開き、二人の人間が顔を出す。そのうちの一人が、僕を見つけ大きな声をあげた。
「くーちゃん!」
かなみは叫びながら、川端まで駆け寄ってきた。その後ろを、草薙さんが追いかける。どうやら約束は反故にされたらしい。近くまで来たかなみは、肩から流血してる僕の傷口を見て、大きく悲鳴をあげた。
「くーちゃん! 怪我してるの!? なんで!?」
「かなみ……どうして、ここに?」
「家を出る時のママの様子がおかしかったから。どうしても気になって」
活発な表情を苦悶に歪ませながら、かなみは言った。
「でも、これはどういうこと? なにがあったの? ママは? ママ……は?」
かなみはあっと声を出した。
倒れている玲子さんと、べっとり血のついたナイフを眼にした途端に。
「まさか……ママがっ!」
「いや」
かなみの言葉を、僕は打ち消すように言った。正直、呼吸をするのも辛いほどの痛みが襲ってくる。次から次へと汗がだらだらと流れてくる。
だが、じっと耐えながら僕は言った。
「かなみ。これから話すことは君にとって、とても辛いことになるかもしれない。でも約束だからね。一通り終わったら全てを話すって。どうしても訊きたくないなら無理に訊かせようとは思わないけど。どうする?」
「…………」
「決めるのは、かなみだよ」
「訊くわ」
かなみはしばらく口をつぐんでいたが、やがて覚悟を決めたように言った。血の流れる僕の腕からも、眼を逸らすことなく。
僕は、口を開いた。
そして全てを話した。
僕の過去、玲子さんの過去、そしてかなみの過去も。
喋っている間中、かなみは悲しそうな顔をしていた。
何もかも知り終えた後、かなみは言った。
「そう……だったんだ」
「ああ」
かなみは眼を伏せた。
僕は彼女に何て言えばいいかわからずに黙っていた。
やがて彼女は顔を上げ、そして言った。
「かえろ、くーちゃん。自分たちの家に。あたしもママに言いたいことがあるし。くーちゃんも朱音さんと話がしたいでしょ。せめて、家までは送らせて」
「そこまで大げさに考えなくてもいいと思うんだけどね」
僕は苦笑いした。
「ご厚意には甘えておくよ。歩いて帰るのは、流石にちょっときついからね」