22
小川のせせらぎが、草むらの手前でゆるやかに流れていた。日がすっかり落ちた暗がりの川辺には、人の気配がまるでない。ふと天を見上げると、曇り一つない星空だった。まあ、降雪量が減ったのだけがわずかな救いか。
待ち合わせ場所にここを指定したのには二つ理由があった。一つは、会話を誰にも盗み聞きされないため。そしてもう一つは、ここは僕が子供のころ来たことがある、思い出の場所であるためだ。しかし、しくじった。灯火ひとつないこんな所では、誰が何処にいるかなんて判別しにくい。
「待たせたかしら、空君」
背後から小さな声が聞こえた。声のトーンだけでもはっきり判る。少し前にも会った女性だ。いきなりのことなので口から心臓が飛び出そうなくらい驚いたが、そんなみっともない真似はしない。代わりに、頼むから約束どおり一人で来てくれよと情けなく願う。
「いいえ、こっちが早く来すぎただけですから」
「そう。ところで、重要な話って何かしら」
声の主は僕の前まで歩を進めた。月光に照らされ、輪郭がはっきりと映し出される。ロングのダッフルコートに白のデニムパンツ、肩から小型のトートバッグを下げていた。付近を見渡してみたが、周囲に人はいない。かなみも言われた通りきていないようだ。僕は相手に向かって言った。
「元々用があったのは、あなたの方じゃないですか? 並河玲子さん」
僕がそう言うと、彼女は眉根を寄せた。
「かなみから、あなたが呼んでいると訊いて来たんだけれど」
「そうです。彼女から色々聞いたので。是非お話を伺いたいなって」
「うふふ。ずいぶんあの子と仲良しになったのね」
玲子さんは頬を緩ませながら言った。
「そんなことないですよ。今だってこの歳で許婚なんてありえないって話だし。だけどかなみが一途に僕のことを慕ってくれるなら、こっちも真摯にぶつからないと失礼になるって思っただけですよ」
「そういう相手がいるって、親として幸せなことですわ」
玲子さんは眼を細めた。
真っ白な肌が、月明かりに照らされてさらに煌いて見える。
僕は肩をすくめた。
「親としてって言うなら、最低でも親としての努めを果たしてから言うべきじゃないですかね」
「ごめんなさい。何のことかしら」
「自分の子供をほったらかしにしないで、ほんの少しでいいから愛情を注いでやれってことですよ」
「私がかなみを愛していないと言うの?」
「いいえ、彼女のことじゃありませんよ」
「じゃあ、誰のこと?」
玲子さんは焦れたように先を促す。
僕は言った。
「僕のことですよ、お母さん」
母――あえて玲子さんと呼ぶが、彼女は無表情のまま返事をしなかった。ただじっと立ち尽くし、僕のことを見つめている。
やがて永久とも思える時間が流れたとき、
「そうよ、空」
玲子さんは口を開いた。
「どうしてわかったの?」
「確証があったわけではありません。ただ、そう思ったきっかけはあなたの思い出話を聞いた時です。親父は柔道の有段者で、生徒会長を務めるぐらい勤勉で、そして実直な性格だと言います。だけど僕は見ての通り、普通の高校生です。僕とまるで正反対の人間だったのが、気になりました。でも、そのときはきっと姉に遺伝子が受け継がれたんだなぐらいにしか思ってませんでした。懐疑を抱いたのはあなたと親父の関係を訊いたとき、気づいたんです。あなたは僕にそっくりだと。本当に僕はあなたの息子で、だから僕を並河家の人間として迎えようとしたのではないかと。
さらに、あなたの家にあったオルゴール、かなみから訊いたんですが、学生時代に親父とプレゼントを交換し合ったそうですね。だけど僕には……あのオルゴールの音には、聞き覚えがあったんです。ちなみに僕はクラシックの類は全く詳しくないです。なのにオルゴールの音を全く違わず記憶していて、しかもその持ち主は、過去親父と結びつきがあった人物なんです」
「そんなこと……よく覚えてたわね」
玲子さんは苦笑いする。僕は続けて、
「そんなわけで、僕はあなたと何らかの係わりがあるんじゃないかって思ったんです。そのとき友人から、僕は亘理家の子供ではないと知らされました。疑惑が確信に変わったのは、そのときです」
「……お友達も、ちゃんといるのね」
「親友です。あとかなみから並河家の当主が病に付していることも聞きました。後継ぎは道隆さんでほぼ決まりで宗二さんはない。しかし、もし道隆夫妻の子供が別にいると知れたら?」
「そこまで判ってるなら、かなみのことも気づいてる?」
玲子さんは、今までの丁寧な口調から親しみを持った話し方に変わっていた。別にいいのだが、現金なものだ。僕は心のうちで苦笑いした。
「ええ、かなみは、あなたの本当の子供じゃないんですね?」
「…………」
「だから、あなた方は僕に眼をつけたんですね。僕が並河家の血筋を継ぐ本当の子供なら、かなみは並河財閥を継ぐことはできない」
「なぜ、そう思うの」
「僕も義理の家庭で育った身の上ですからね。あえて言うなら、かなみと並河家の間に厚い垣根を感じた。それだけのことです」
「この場所に呼び出したのは、かなみにそのことを知らせたくないせい?」
「いいえ。決着をつけるなら、ここがぴったりだと思っただけです」
「決着?」
「そうです」
僕は玲子さんの眼をじっと見つめて言った。
「まだ子供の頃の僕が、あなたの手にかかって死にかけたところですから」
「あなた……」
「全部、思い出したんですよ。今まで胸の中に閉じられていた記憶が」
「そう……」
玲子さんはフッと笑った。
「……思い出したのね。何もかも」
彼女は軽く息をついた。そして、
「そうよ。今から十三年前。私はこの川べりであなたと夫と一家心中しようとしたわ。そのとき取り押えてくれたのが、あなたのお父さん。
あのとき、私と夫は小さな会社を任されていたけど、思うように成果が上がらずに、負債がどんどんたまって、気がついたら到底返済できる額じゃなくなっていたの。どうにもならなくなった私たちは、あなた一人を残すよりも一緒に心中することを選んだの。だってあなた、ズタボロだった私に『一緒に遊んで』とか『お歌歌って』って、私の苦労なんて何一つわかってくれなかった。無視したらジタバタ暴れまわって大声で泣き叫ぶばかり。会社にいても家にいても、どこにも居場所のない私はボロボロだった。
あなたのお父さんは偶然通りかかったの。私から空を引き離して、自分のところで育てるって言い出した。私は手を叩いて譲り渡すことにしたわ。だってあなたを手にかけることが唯一気がかりだったから。それからは、私も夫も死に物狂いで働いたわ。一心不乱になってるうちに、会社を立て直すことに成功したの。あなたのことは諦めることにしたわ。あなたも私たちと会いたくないだろうし。でも、それまでの無理が祟ったのか、私は子供を産めない体質になってしまったのよ。かなみは孤児院から引き取った養子というわけ」
「かなみはそのことを?」
「ううん、あの子に話しても厄介なことにしかならないし。でもお父さんが心筋梗塞で倒れたときは焦ったの。どうしてもあなたに戻ってきてもらう必要があったけど、事実を話しても受け入れてもらえるはずがない。なら、かなみと婚約をさせて、並河家に引き入れることにしたの。あなたは何不自由ない生活が送れるし、私たちは並河財閥の資産を受け継ぐことができる。何もかも上手くいくのよこの方法なら。ねえ、わかる? わかってくれるでしょ私の子供なら」
「わからないよ」
僕は小さく首を振った。
「どうして判らないといけないんだよ。勝手な都合で人を殺そうとしといて。僕はあなたを母だなんて思わない」
「大きくなってもやっぱり愚息ね。愚かだから親孝行の一つもできない。私がいなかったら、あなたなんて生まれてくることもできなかったのよ。なのに、どうして親の言うことが聞けないの? そんなに私を困らせたいの?」
「何と言われようとも、僕はあなた方の所には行きません」
「本当の親である私が頼んでいるのに?」
「知ったことじゃないですよ」
「……何て子なの」
「あなたに言われたくないですね」
実の子を捨てておいて、何を言うか。
「話は終わりです」
僕はきびすを返した。
「もう会うこともないでしょう。姉が帰りを待っているので。もう帰ります」
そのまま、立ち去ろうとした時だった。
「待ちなさいよ!」
言うが早いか、玲子さんはバッグから小型ナイフを取り出し、僕に向かって強襲してきた。
「ぐうっ……」
よける暇もない。突き出されたナイフは肉を抉り、肩から真っ赤な血が飛び散った。真っ白な積雪の上に赤い斑点が滴り落ちる。僕は地べたを転がり回った。ゆっくり顔を上げ、飛びかけた意識を振るい起こして相手を睨む。
「気でも、触れたのか……?」
「あなたが悪いのよ」
玲子はニタリとほくそ笑んだ。
「血を分けた親を見捨てるなんて、ずいぶんと非人情じゃないの。あなたはいつだって私を苦しめる。苦しめて苦しめて、私を傷つける。なら、ここで死ぬといいわ。あはは、親である私に殺されるんだから。ありがたく思いなさい」
「今から殺されるっていうのに、感謝してる余裕なんかないね」
「口の減らない子。そのうるさい口も、もう利けなくなるんだけど」
玲子はじりじりとにじり寄って、距離をつめてきた。だが僕には、逃げ出す暇なんてなかった。地面に尻餅をついたまま、玲子がナイフを振りかざす瞬間を、黙って眺めていることしかできない。
「あはは。死になさい。死ぬのよ、空!」
死ぬのか――ここで。
死にたくない。死にたくない。死にたくない、死にたくない。死にたくない。
僕は眼を閉じて、狂ったように同じ言葉を頭の中で繰り返す。
しかし無情にも凶器は激しい勢いで振り下ろされた。
「…………っ!」
がきん、という金属音が聞こえたような気がする。
身を裂くような痛みはいつまで経ってもおとずれなかった。まさか痛みを感じる間もなく天国送りになったってことはないだろうが。突如玲子に憐憫の情が芽生えて助けてくれたのだろうか。
色々な考えを巡らせながら、僕は眼を開けた。
やはり、ナイフは刺さっていなかった。しかし、玲子が哀れみをかけてくれたのではない。玲子は小型ナイフを僕に向かって振り下ろしていたが、何者かが同じように、ナイフの刃で受け止めていたのだ。その人は、僕を守るように背を向けている。
僕は、その人に向かって叫んだ。
「姉さん!」
姉さんは振り向き、僕を見て笑った。
「空、お待たせ。なんとか間に合ったみたいね」