20
積雪を踏みしめ帰途につくと、家の前に誰かが立っていた。
よもやと思ったが、姉さんではなかった。だが距離が詰まり、概観がハッキリするにつれて、人影の正体が判じられた。
戸塚恭子。
彼女は白のダウンコートと、チェック柄のスカートを履いていた。僕がそばまで近づくと、恭子は哀しみを堪えてるような声で言った。
「遅かったな、空」
「恭子……」
彼女の唇は紫色に変化していて、よく見ると小刻みに肩が震えていた。どれだけ待っていたのかは判らないが、長時間この雪天の中立ち尽くしていたようだ。
「寒くないの?」
気がつくと、声をかけていた。恭子は顔をほころばせ、
「考えごとに耽っていて、冷たさも忘れていたよ」
「考えごとって?」
「昨日、空を苛んでしまったことだ」
「別に、気にしてないよ」
「お前とは古い付き合いだ。そうでないことは判る」
「……だとしたら、どうするの?」
「そのことなのだが」
別に何かして欲しいという望みがあったわけではない。
だが、あろうことか彼女は雪の上に膝をつき、土下座を始めた。
「ちょ……」
僕は慌てて声をかける。
「ちょ、ちょっと」
「すまぬ」
額を白雪に押し付けたまま恭子が言った。
「煮るなり焼くなり好きにしてくれ。覚悟は出来ている」
「そんな。どうしてこんなことを?」
「私は空を独占したいがために、お前の心に傷を負わせた」
「何言ってるんだよ。そんなわけないじゃないか」
「空、忌憚なく言ってくれ。私は、お前の本心が知りたいのだ」
雪はどんどん激しさを増して降り積もっていた。これ以上雪面に肌を触れていたら、凍傷にかかるかもしれない。
「判ったよ……その代わり、顔を上げて? じゃないと何も話さない」
「……承知した」
恭子はむくっと身体を起こした。
「聞かせてほしい。お前の本音を」
顔は赤みを帯びてしもやけになっている。
痛々しい。見ていられなくて心が張り裂けそうになる。僕はやり切れない気持ちを振り払うように言った。
「確かに、自分が本当の子供じゃないって事実は胸に突き刺さったよ。それは間違いない。でも、たったそれだけのことだ。姉さんだって隠し事をしたまま毎日を過ごしてきたんだ。昨日知った僕よりずっと苦しんだはずだよ」
「しかし……しかしだ。やり切れないしこりは残っているはずだ」
恭子は詰め寄りながら言った。
「まあ、そうかもね」
「ならば、その憤りを私にぶつければいい。私はそれだけのことをしたのだから」
「本当にいいの?」
僕がそう言うと、恭子は迷わず答えた。
「ああ、頼む。殴るなり蹴るなり、やりたいようにしてほしい。私はお前の言うことならどんなことでも従う」
「なんだかなあ」
本当に真面目というか、律儀なものだ。僕は苦笑しながら言った。
「じゃあ、明日からも変わらずに学校に来ること」
「な……何だと?」
「寒さで耳が聞こえにくくなった? 気構えたりしないで、いつもと同じような振る舞いで僕に接してほしいと言ったんだ」
「そういうことではない。空は私を……恨んでいるのだろう? 少なくとも、よい感情など抱いてはいないはずだ」
雪に覆われているせいで見えにくいが、涙目になっているようだ。僕はそんなに器の小さな男と映っているのだろうか。だとしたらちょっとショックだが。
「僕にとって恭子は、ずっと親しくしてくれた『親友』なんだ」
「そんな……そんな。私は」
「ぐだぐだ言わずに、言うとおりにしろ!」
このままでは水掛け論だったので、打ち切るように言った。
「僕は、また前みたいにたわいのない話を恭子としたいんだ。だから……いなくなられたら、悲しいんだ」
「空……」
「このままいがみ合うようなことをするのは、僕が嫌なんだ。恭子と何の変哲もない学園生活を送るのが、僕の願いなんだよ」
「…………そら」
「ん?」
「――ありがと、う……」
声は途切れ途切れに聞こえた。顔中に溢れ出すほどに慟哭している。彼女が涙を流す姿を見るのは、これが初めてのことだった。
もう、大丈夫だ。心配は要らない。この涙を全て流し終える頃には、心のしこりも全て落ちてゆくはずだ。そこから真っ白な状態でやり直せばいい。
「――すまない、情けない姿を見せた」
ひとしきり嗚咽を続けた後、恭子は言った。
「もう心配には及ばない。私は自らがしたことに眼を背けず、罪を償うつもりだ」
僕は安堵しながら言った。
「それでこそ恭子だよ。また過ちを犯したら、僕が正してあげるから」
「空も……」
恭子は少しだけ空白を作って言った。
「空も、学校に来てくれ。辞めるなどと言わずに」
「え? どうして、そのことを……」
「ある人から訊いたのだ。空、私に可能なことなら何でもする。金銭の問題ならいくらでも都合をつけよう。だから、辞めないでくれ!」
「いや、でも――」
「頼む!!」
そう言うと、恭子は深く頭を下げた。
やや間を置くと、改めて僕に向き直り、
「私にとって、お前がいない学園生活など、何の価値もない、無用の長物なのだ。うんと言ってくれるまで、私はここを動かぬぞ」
「恭子……どうして、そこまで?」
「言ったはずだぞ。お前のことが好きだとな。好意を寄せている人間にやめてほしくないと思うのは、ごく自然なことだ」
「恭子……」
僕はついさっき、緒方先生に言われた言葉を思い出した。
――やめてほしくないと思ってるのは、朱音や私だけではないぞ?
僕が退学願いを提出したことを知ってるのは、緒方先生と姉さんだけ。姉さんではない。なら、緒方先生で決定だ。おそらく、僕と親しい恭子に打ち明ければ、思い留まらせることを願ってのことだろう。
緒方先生の言ったもう一言が脳裏を去来する。
――そのうち自分から言い出すだろうから、私からは言わない。
「は、はは……緒方先生の、言った通りだ……」
「空?」
「ごめん、何でもない」
僕が涙がこぼれそうになるのを懸命に抑えながら言った。
「わかったよ。とりあえず、悪いようにはしない」
「嘘はないな。約定だからな」
「うん」
「よかった……」
裏づけが取れて満足したのか、恭子は胸を撫で下ろした。
「ならば、明日からもちゃんと通うのだぞ。欠勤など許さぬからな」
「うん。また学校で」
去り行く恭子の後姿を見届けた後、僕は鍵を開けて家の中に入った。靴が置かれてないところを見ると、姉さんはまだ帰ってきてないらしい。
部屋に戻り、親父の残したオルゴールを手に取る。
少しの間さすってると手に雫がこぼれた。
涙腺が熱くなって、球体の水が雨のように滴り落ちる。
拭いても、拭いても、涙は絶え間なく眼の端から溢れて、止まらなかった。