19
起床すると、姉さんは家を出た後だった。リビングに上がると、テーブルの上に卵焼き、味噌汁と鮭の塩焼きという、朝食としては王道のメニューが置かれている。その横には一枚の手紙。僕は手に取って読み上げた。
たとえ本当の弟じゃなくても、私はあなたを愛しています。
今日は必要事があるので先に出ます。
朝ごはんは作っておいたので、暖めてから食べてね。
朱音。
整った字体から、僕への想いが伝わってくる気がする。姉さんと別々に家を出るのは滅多にないことだったが、この気づかいはありがたかった。
今は、姉さんの顔を見たくない。
たった一人の食事を終えると、制服に着替え、鞄の中に教科書をぞんざいに詰め込む。今時の若者と比べれば僕は勉強熱心だと思う。真面目に取り組んだ努力は成績にも反映されている。といっても姉さんには到底及ばないが。クラスで上位に食い込む程度には、真面目に学習している自負はあった。
それなのに、今日はまるで授業に集中できていない。
僕は黒板を見つめ、ため息をついた。
教師の声は右から左に流れ、話が入ってこない。シャープペンを動かすのも億劫だ。諦めて僕は隣の席に眼をやった。
昨日姉さんから受けた怪我が大きかったのか、恭子は欠席していた。僕にとっては都合がいい。ストーカー行為を受けていたことはショックだったし、恭子の内に秘められた思慕の情も畏怖の対象でしかない。しかし、そうさせてしまったのは僕のせいだ。彼女の気持ちに早く気づいてあげれば、あんなことにはならなかったかもしれない。
放課後になっても、姉さんは姿を見せなかった。僕と顔を合わせることに抵抗を感じているのだろう。それはそうだ、姉さんはずっと嘘をついていたんだ。居心地も悪くなるだろう。僕は支度を整えると教室を後にした。
やる気は萎れたようになかったが、部活に出ることにした。姉さんと会うのが怖い。出来るだけ時間をかけてゆっくり帰宅したかった。
気の向かないまま、新聞部の部室に足を運んだ。
緒方先生が、机の前で資料を読んでいる。
僕の顔を見ると嬉しげに顔を上げた。
「空か。きてくれたんだな」
「はい。他の部員はどうしたんですか?」
部室には僕と緒方先生の二人しかいなかった。幽霊部員が多いのは知っていたが、三年生が参加しないどころか部長すら来ていないとは、呆れてものも言えなくなる。
「まあ、皆他に用があるらしくてな。最近はモンスターペアレンツも増えているから無理強いも出来ん」
「モ、モンペアですか……」
緒方先生でも恐れるものはあるんだな、と僕は本気で感心した。
「まあ、部活には参加しますよ。いいですか?」
「いいも悪いも、ようやく復帰してくれる気になったんだな」
「とりあえずですけど」
「ふふん、これも私の熱情が伝わったからだな」
「ええ、まあ」
僕は曖昧に言った。
とりあえず何をしようか。取材して回る元気はなかったので、学年誌の中から特筆すべきイベントを抜き出し、記事にしてみよう。面白みは欠けるが、他にやることもない。
メモを用意し、大衆の興味を掻き立てそうな内容だけを選定する。さらに本文を推敲し、読者になりきって読み直す。ここまでが中々労力のいる作業なのだ。
しかし文章に集中して閲覧することができなかった。字が頭の中に入ってこない。文面を追おうとすればするほど、字面の上っ面をすり抜けていく。
「ふぅ……今日はこれぐらいにしとくかな……」
結局半分も仕上がらないまま、時間だけが過ぎていき、記事を書き上げることは諦めることにした。学年誌を戸棚に戻し、緒方先生に会釈だけして部室を去ろうとする。
ドアの入り口に手をかけると、
「空、少し待て」
緒方先生が声をかけてきた。
僕は後ろを振り返って言った。
「なんでしょうか?」
「いや、これといって大したことではないのだが」
緒方先生はバツが悪そうに、
「学校……やめるつもりか?」
と、訊いてきた。
「やめます」
自分でも驚くぐらいあっさりと言葉が出た。
「もう、在学する理由もないですから」
「なぜだ? お前を慕ってる者もいるというのに」
「姉さんのことですか」
「朱音だけではない。お前は自分で思うより沢山の人から好かれているのだぞ」
緒方先生はやけに食い下がった。
「悪いことは言わない。考え直してみろ」
「考え直すって、何のために?」
「それは、お前自身が一番よく判っているはずだ」
「姉さんのことを言ってるなら、僕は――」
「朱音は、お前を辞めさせぬよう学園側に手を回している」
「姉さんが?」
僕は訊き返した。
「手を回すって、どういうことです?」
「お前から受け取った退学願い、校長に提出する約束だったな。朱音が生徒会の権力を総動員し、署名まで集めて、受理させないようにと願い出てきた。流石に無下にはできず、検討した末、とりあえずは様子見という形になったのだ」
「姉さんが……生徒会を動かして? でも、どうして? 姉さんには退学するってことは言ってな……」
そこまで言いかけて、はっとした。
昨日、姉さんの寝室の前で呟いたこと。あれが訊かれていたとしたら?
とすれば、今朝から姿を見かけなかったのは……。
「姉さん……」
「それでも辞めたいというなら好きにすればいい。人が進みたいと思う道に異議は挟めない。だが、お前がいなくなれば、悲しむ人間もいる。私とてそうだ。それだけは、忘れないでほしい」
「先生……」
「それに、やめてほしくないと思ってるのは、朱音や私だけではないぞ?」
「え? 誰のことですか?」
僕が尋ねると、緒方先生は肩をすくめて笑った。
「さあな。そのうち自分から言い出すだろうから、私からは言わない」
「そうですか」
先生の言葉に引っかかりを感じた。
まるで、そうなることを予期しているような――
「話はおしまいだ。今日はもういい。気をつけて帰るんだぞ」
「はい……」
僕はもう一度頭を下げると、部室を後にした。
緒方先生はもう呼び止めることはしなかった。