17
その場所に来たのは、夕方四時過ぎだった。僕は姉さんに引っ張られる形で豪邸に向かうと、彼女は人払いをしてから稽古場に通してくれた。昨日訪れた時のように、黒帯を締めた空手着を着ている。
「今日はいきなりだな空。いったいどうした?」
彼女――戸塚恭子は僕を見ながら言った。僕は答える。
「いや、僕は別に。ただ姉さんが――」
「あなたに用があるのは私。まずは人払いをしてくれて感謝するわ」
姉さんは僕の口元に指を当てて言った。
「で、戸塚恭子さん。空に手出ししないでってあれほど言ったわよね?」
「聞きました」
恭子は姉さんの眼を射抜くように見て言った。脅かすような視線。
「それが何ですか。私は空に何もしていません」
「嘘はよくないわね」
姉さんは嘲るような表情で言う。
「どういうことですか。大切な話があるということで通しはしたが。こんな無作法なことをしにやってこられたのですか? 朱音先輩?」
「先に無作法を働いたのはあなただけどね」
何だかよくわからないけど、姉さんも恭子も激情しているようだ。
「今、事実を喋るなら眼をつぶってあげるわよ」
「おもしろい」
恭子はふっと笑った。そして、
「一応話だけは訊こうか。手にかけるならそれからでもよい」
「いいわ。こっちも仕留めるなら後でいいし」
姉さんが返した。
何、今から血みどろの殺し合いが始まるの?
「今から二日前、おとついの話よ。うちの郵便ポストに手紙が投函されるようになったのは。宛名はここにいる空。中身は馬鹿馬鹿しい悪戯のようなもの。空に自分だけのことを見てほしいとか私以外の女を見るなとか。とにかく空のことを独り占めしようとする浅ましくて情けない手紙だったわ。筆跡は誤魔化していたけど、空の周囲の人間、それもごく身近の人間の仕業であることは明らかよ」
恭子は身じろぎもせずに、姉さんの言葉を無言で聞いていた。
「私が知る限り、空の周りで親しい人物は一人しかいないわ。他にはいない。お昼休みも私と一緒にいるし、たまに言い寄ってくるメス豚共にはきついお仕置きをしてたから。でも、そんなことで諦めるようじゃ空の彼女になんかなれないわ。ただ、たった一人……」
姉さんはじっくり焦らすように言った。僕はただただ聞き入る。
「大体、空と誰々がどう話をしたかなんて、相当親交のある人間じゃないと判らないのよ。ねえ恭子さん、そう思わない?」
「かもしれないが、だったらどうだと言うんです」
「素直じゃないわね。まあいいわ。とにかく空とは馴染みの人間。そもそもあなたと空は新聞部の部活を通して知り合ったらしいわね。あなたは空と意気があったのか、親しみを持つようになった。それまでは一万歩譲って許すわ。でも、それ以来空と一緒にいるだけでは我慢できなくなったあなたは、心の中に欲情を持つようになったのよ」
「私は……別に」
「言い訳はいいわ。犯人は空の身近にいる人間で、住所を知っていて、空が帰る前にこっそり手紙を入れることができ、尚且つ空の交友関係を把握していた人物。そして『行動に移す』という文面から、それなりの強行手段を用いることが出来る人」
僕は、はっとした。
「まさか、本当に恭子が……?」
「もう一度だけ言うわよ。空にストーカー行為をしていたのは、あなたね」
「…………」
辺りを重々しい静寂が支配する。
やがて、恭子は口を開いた。
「朱音先輩」
「なにかしら」
姉さんが返した時だった。
「ご名答ですよ」
「!?」
それは瞬く間のことだった。恭子の突きが姉さんの頬を打ち貫いたのは。
姉さんは勢いよく吹っ飛ばされた。そのまま壁に衝突し、体を打ち付け、苦しげな声が漏れた。
「うっ……!」
「姉さん!」
「こないで!」
「え!?」
駆け寄ろうとした僕を姉さんは手で止めた。
僕は驚いて姉さんを見る。
姉さんは口を切ったのか、唇の端から血を垂らしていた。
それなのに、まるで自分が優位に立っているかのように笑っていた。
一体何を考えているのか。
「こなくていい。ただ見ていて」
姉さんは僕に微笑みかけた後、きっと恭子に向き直る。
「戸塚恭子。今私に拳を振るったのは、自白したことと同じになるわ。このことが戸塚家の人間に知れたら大変なことになるわね。嫌なら、もうこんなことは止めることね」
「それはできない」
恭子は僕の方を向いて言った。
「なぜなら空。私はお前を愛しているからだ」
「……え?」
僕は呆然とした。
「鈍いわね、空。じゃないとこんなことまでしてこないわ」
姉さんが呆れたように言った。別に僕も自分が鋭い人間だとは思っていない。それでも人の気持ちが判らないほどではないはずだ。
「ああ、やはり気づいていなかったのだな。そうだ。私はお前のことが心の底から好きだ。お前だけが、私の気持ちを判ってくれた。クラスメート、ましてや家族でさえも判ってくれなかった私の気持ちを。皆こう言う、戸塚恭子は文武両道で謹厳実直、質実剛健、才色兼備だとな。私がどれだけの努力をしてるかも知らないで。しかし、お前だけは違った。あるがままの私を受け入れようとしてくれた。もしここでお前を手放したら、私はまた孤独で鬱々とした生活に戻らなくてはならない。それだけは許さぬ。お前のことを愛しているのだ。世界中の誰よりも。いや、そんな言葉では言い尽くせる程度のものではない。わかったか。今だってお前のことを襲って犯して、総身を陵辱してやりたいと思っている」
恭子はゆっくり指を曲げ拳を握った。姉さんに対して構えをとる。
「この女を消してからな。そこで大人しくしておれ」
「やめろ恭子! 姉さんには手を出すな!」
僕は叫び声を上げた。
「いいのよ空。私だってこの女を許すつもりなんてないから」
「ね、姉さん……?」
「だから。心配しないで。ね?」
姉さんは笑顔で僕を見た。
「姉さん……」
それだけのことなのに、緊張が解れ安心感まで覚えた。
「ふん、空の見てる前で眼も当てられぬ状態にしてやろう」
「どこからでもきなさい」
と、不適な面様の姉さん。
「よい覚悟だ。どうなっても恨むなよ!」
恭子は足を踏み出し間合いを詰めた。
「死ねっ!」
恭子の繰り出す直突きを、姉さんは手の甲で巧みに力の方向を受け流した。
「甘いわね」
「何!?」
「これで、終わりよ!」
猛烈な突きをあっさり避けた姉さんは、バランスを崩した恭子の腹部に強烈な脚蹴りを入れた。恭子は鈍い音を立てて頭から床に落下する。
「……がっ……」
一言呻いて、そのまま恭子は起き上がらなくなる。
「殺したの……?」
「私がそんなへますると思う?」
「姉さんならやりかねないよ」
「あら、心配しないでって言ったでしょ?」
姉さんは片目をつぶってウインクした。しかし強がっていてもかなりのダメージを受けてるのか、足元がふらつきだした。
「あっ」
「姉さん!」
僕は駆け寄り、姉さんを抱きとめた。
青あざが出来てる頬にハンカチを当てると、姉さんは高い声でわめいた。
「い、痛い! もっと優しくして! 傷が残ったら、責任とってお嫁さんにしてもらうからね!」
「わかったわかった」
なんでそうなるんだと思ったが口に出さなかった。
だって普通にかっこよかったし。姉さん。
「空…………」
しばらくすると、恭子が腹を押さえながらむくっと起き上がった。
「空……騙されるな」
恭子は苦しそうな顔で言った。
「その女は……お前の本当の姉ではないのだぞ」