16
「どうぞお座りください」
囁くような小声で、玲子さんが僕らをリビングに上げた。
ゆうに六人は座れそうな大きなソファに、僕は姉さんと並んで座る。向かいにかなみと玲子さん、壁際に草薙さんが整った姿勢で屹立していた。
そしてもう二人の男。
「義兄さん、この人がかなみちゃんの婚約者? 随分若いんだね」
男は口を開いた。
年齢は三十代前半といったところか。ボサボサの髪を肩口まで伸ばした軽薄じみた男だった。じゃらじゃらと金色のリングのついたネックレスをぶら下げている。白のカットシャツとクリーム色のチノパンというフランクな服装だった。
「歳は関係ない。大事なのは本人の気持ちだからな」
義兄さんと呼ばれたもう一人の男性は答えた。ハキハキしてるが冷ややかな声だ。歳は三十代後半ぐらい、それなりに整った容貌で、短く刈り込んだ頭を合わせて、精悍そうな見た目に、高そうな紺色のスーツをびしっと着こなしている。
「失礼。かなみの父で、道隆と申します」
道隆が自己紹介をした。
「玲子の弟の宗二です。よろしくね、婿養子君」
楽しそうに宗二が続く。
「あたしはご存知、くーちゃんの婚約者の並河かなみ!」
締めにかなみが朗らかに挨拶をした。
僕はペコリと頭を下げた。
「亘理空です。今日はどうも。招いていただいて」
「私は亘理朱音。今日は聞きたいことがあってきました」
姉さんは威嚇するような視線を並河家の人間に向けて言った。眼だけで人を呪い殺せそうだ。ならば、「死線」と言った方が合ってる気もする。
「あの」
聞きたいことは幾らでもあった。
だが、とりあえず一番気になってることを確認してみた。
「玲子さん、でしたよね。クラシックがお好きなんですか?」
「え? ええ。学生の頃はよくコンサートに行ってました。ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番第二楽章とか、フォーレのパヴァーヌとか」
玲子さんがゆっくりと答えた。
なるほど、それらしい趣味だけど何? ラフマニノフ? パヴァーヌ?
「クラシックかあ。俺が若い頃はファンクミュージックでソウルフルなやつばっかり聞いてたけどね。 ファンカデリック、パーラメントとか、知らない?」
「ファンク? 踊ったりするの? あたし、苦手」
宗二さんの言葉に、かなみが小首を傾げた。僕も勉強不足かもしれないが、ファンクもクラシックも馴染みはある世代じゃないし、そもそもあまり好きじゃない。聞いた質問が悪かった。
「ファンクは少し癖が強いけど、オススメだから聞いてみな」
宗二はニヤニヤ笑いながら言った。
「そうなんですか。今度是非」
僕がお世辞を述べると、今度は姉さんが口を開いた。
「私からも聞きたいことがあります」
「へえ、なんだい? なんでも訊いてよ」
宗二は快諾した。
「亘理功治のことは知ってますよね」
姉さんの一言に、一同は息を飲んで押し黙った。皆一様にショックを受けたような顔をしているが、特に玲子さんの表情は驚愕に満ち溢れていた。姉さんは玲子さんに追及した。
「私たちの父です。知らないはずはないですよね?」
「え、ええ、知っています。でも――」
「いいじゃないか、玲子。教えてさしあげれば」
言うべきかどうか迷っている様子の玲子さんに、道隆は声をかけた。玲子は気弱に「ええ」と答える。どうやらパワーバランスは旦那のほうが上のようだ。
「……高校生のころ、今から二十年ほど前です。彼はとても優く実直で、曲がったことは許せない。そんな人でした。生徒会長も熱心に勤めていましたし、柔道部では主将になるほどの腕前で、県大会団体戦では優勝するほどの腕でした。私、そんな功治さんと付き合っていて、将来は結婚まで誓い合った仲でした」
「ママが……?」
かなみが驚いたように玲子さんを見てる。それは僕も同じだ。
親父にそんな彩りのある過去があったなんて。
「でも、結局別れることになりました。私は財閥の娘ですから。父は功治さんと付き合うことを許しませんでした。私、父の言うことに逆らえなかったんです。功治さんはそれでも私を愛してるって言ってくれたんですけど、無理矢理引き剥がされて……」
玲子さんの言葉が止まった。
当時の思い出を振り返ると、胸が痛むのだろうか。
「ママ、今の話ほんとう? ほんとにくーちゃんのお父様と付き合ってたの?」
「ええ、そうよ」
「……そうなんだ」
「お父様は近頃、亡くなられたそうだね」
道隆が僕と姉さんに話しかけた。
「たしか、交通事故に合われたとか……」
「その方が、あなたたちには都合がよかったのではありませんこと?」
「都合がいいだなんて、そんな」
「その場しのぎの嘘はいりません」
姉さんが道隆の言葉を遮る。そして玲子さんに鋭い眼差しを向けた。
「ねえ。そうでしょ、並河玲子さん?」
「……え」
玲子さんはびくっと身を震わせた。こうして見ると、本当に自己主張の少ない大人しい人だ。美人なことは美人だが、とにかく目立たない。クラスに一人はある日陰の地味なインテリタイプといったところだろう。天真爛漫なかなみとは似ても似つかない。そもそもかなみは美人タイプではないし……おっと、これはかなみに失礼か。
「とにかく、そういうことだ。妻は君たちのお父さんと過ぎし日に交際をしていた。だから今回の話を持ち出すよう提案してきたのだ」
道隆は苦い顔をしながら言った。
「ロマンチックだねえ。うん、いいなあそういうの」
宗二は楽しげに頷いている。
「親父との関係はわかりました。でも、どうしてかなみと僕を婚約させようとするんですか?」
僕が訊くと、玲子さんは胸元に手を当てて、
「実は、引越しさせられてから数年後、あなたのお父様と偶然お会いしたんです。その時はもうお互いに家庭を持っていましたけど。昔話に花を咲かせ、それから何度かお茶に行ったり、食事をしたり、当時の話を思い返してる内に学生時代に戻ったような気分になりました。功治さんもなんとなく同じ気持ちでいるみたいでした。既に私は道隆さんと結婚して子供もいましたから、不徳義なことなど許されません。でも私自身の気持ちは功治さんに焦がれていました」
玲子さんはゆっくりと眼を細めた。
「あなたのお母様が亡くなられたときも、私は少しでも助けてあげたいと思いましたけど、功治さんには断られてしまいました。それからは互いに忙しくなり、年に数回会えるか会えないかというところでしたが、それでも私は功治さんのことが気になっていました。その……収入の問題もありますし」
「ああ、まあ」
僕は言葉を濁した玲子さんの意図を理解した。しがないサラリーマンである親父に、そんな高収入があるわけがない。親父の給料明細を見たわけではないけど、財閥の家系とは天と地ほどの差があるだろう。
「だけど、誠実な功治さんが私の援助を受け入れるはずもありません。だから、せめてその子供たちだけでも、苦労がないようにしてあげたかったんです」
玲子さんの言葉は、良く言えば思いやり、悪く言えば押し付けだった。
確かに財閥の世継ぎという地位につけば、安定した生活が保証される。だが、それは将来の選択を狭めるといった意味では、重荷にしかならなかった。少なくとも僕は並河グループの跡取りになることに魅力を感じていない。
「くーちゃん、大丈夫?」
思案していた僕にかなみが尋ねてきた。
「ああ、気にしないで」
できるだけ自然に見えるように笑った。
かなみには、出来るだけ心配をかけたくない。
「なに、これぐらいで参っちゃったの? ずいぶん神経過敏だね。オドオドしちゃってさ、まるで姉さんみたい。面白いなあ」
「宗二おじさん!」
愉快そうに囃し立てる宗二さんに、かなみは肩を怒らせた。
「ごめんごめん。冗談だからそんなに怒らないでよ、かなみちゃん」
まったく反省してない様子で宗二が頭を下げる。
「それよりも、玲子さん」
僕は玲子さんに話を振った。
「なんでしょうか」
「オルゴールを、聞かせてもらえませんか?」
「オルゴール……? ああ」
玲子さんは一瞬だけ眉をよせたが、すぐに気がついたようだ。
「かなみね。その話したのは?」
「別にいーじゃない。くーちゃん家でママのと同じようなオルゴール見つけたんだから」
「オルゴール……そうか」
道隆さんは一人納得したように頷いた。
「訊かせてもらえますか」
僕は再度尋ねた。
「別にかまわないよ。確か玲子の部屋にあったな? 持ってきなさい」
道隆が言うと、玲子が二階に上がり、しばらくすると小さな木製のオルゴールを持って戻ってきた。そして、
「こちらです」
と言って蓋を開くとスイッチを入れた。
オルゴールのきれいな音が室内に染み渡る。姉さんは特に反応を示さなかったが、僕は例えようもなく妙な感じを覚えた。
やがて音が止まると、宗二が口を開いた。
「何て曲? 姉さん」
「『カノン』という曲で、ドイツのポピュラーミュージックよ」
「ああ、そうなの。で、これが何?」
最後の言葉は僕に向けられた言葉だった。
少し躊躇いがちに答える。
「いえ、少し気になることがあったので。でも、もう終わりました」
「満足した? 空。じゃあ帰りましょう」
と、姉さんは立ち上がってスカートのしわを正す。僕も腰を上げた。
「もう帰っちゃうの? もっとゆっくり――」
かなみが追い縋るような眼を向けてきたが、すぐにはっとして、
「……ううん。これ以上わがままを言ったら、くーちゃん困るもんね」
「ごめんねかなみ。また来るから」
僕はかなみに笑顔を向けた。
「皆さんも、どうもありがとうございました。詳しいお話は、また今度」
一同に声をかけ、リビングを出る。その後ろを姉さんがピッタリついてきた。
「空」
玄関口まで来たところで姉さんが言った。
「これからちょっと付き合ってほしいんだけど、いい?」
「いいけど、何?」
僕が訊き返すと、姉さんはしれっと言った。
「空を苦しめてるストーカー女に会いに行くの」
「……え?」
「空以外の女と会うのは苦悶で仕方ないけど、いつかは決着をつけなきゃいけないし。さ、行きましょ」
「ちょ、ちょっと。姉さん!?」
姉さんは僕の返事を待たずにドアを開け外に出た。