15
姿見の前で、僕は衣装選びに必死だった。なかなか決まらず、仕方なくツイードの黒ジャケットにグレーのパンツという無難な服に着替えた。次にぼさぼさの髪にワックスをつけてセットする。急いでリビングに戻ると、姉さんが上気した顔で近づいてきた。
「空、かっこいい。濡れてきたわ」
姉さんの服装は白いフリルのついたブラウスにベージュのプリーツスカートという組み合わせだった。赤いクリップでサラサラの長い髪をまとめている。
「変な言葉が聞こえた気がするけど、ありがとう」
にじり寄ろうとする姉さんを避けながら言う。
「ぶー、どうして逃げるのよ?」
「いや、貞節を乱されると思って」
「…………」
じりじり。
僕が距離を開けようとすると、姉さんも間合いを詰める。
堂々巡りのような気もしてきた。
「くーちゃん、朱音さん、そろそろいこっ」
かなみが言うと、姉さんは口惜しそうに僕から離れた。
「ああ、ごめん。じゃあ行こうか。ほら姉さん。続きはまた今度ね」
姉さんのご機嫌をとりつつ、僕らは玄関を出た。
「くーちゃんの服装かっこいい」
「ありがとう。社交辞令でも嬉しいよ」
「ううん、違うよ。ほんとにそう思ってるの!」
かなみは意地になったように言った。
草薙さんのベンツは依然として佇立していた。後部座席に乗り込むと、今まで味わったことのない座り心地のよさだった。
「それでは、行きます」
草薙さんは車を走らせた。
車道の上で、穏やかにベンツは滑走していた。雪道にも関わらず、草薙さんの運転は手馴れている。
「お嬢様、お食事は?」
草薙さんがかなみに尋ねる。
「だいじょーぶ」
かなみが笑って、
「くーちゃん家で、おなかいっぱい食べてきたから!」
心から嬉しそうな声でかなみが言った。
眩暈がするほど輝かしい笑顔。反対に、僕と姉さんはだんまりしていた。
かなみはどういうつもりで自分たちを招待するのだろう。ふと思った。二週間前に親父が交通事故で亡くなり、その後だった。かなみが家にきたのは。昨日も彼女は家に泊まり、今日は自宅に誘われた。親から直接説明があるらしい。
一体何が起ころうとしているんだろうか。
僕は漠然と不安を感じた。
本当なら並河グループとは僕ら一般庶民が近寄れる相手ではなかった。。並河グループといえば建設業から料理経営まで幅広く運営していて、僕が行ったことがあるレストランのいくつかも、彼らの息がかかっていると聞いたことがある。かなみは分け隔てなく接してくれるが、彼女はあくまでブルジョワの娘なのだと、多少偏見を持ってしまうのも事実だ。お嬢様と呼ばれる身分なので、自分から何もしなくても、言い寄ってくる求婚者なんて吐いて捨てるほどいるだろう。だが、並河家は僕を選んだ。むしろ強引に僕と彼女を婚姻させようとしている
そんなお金持ちの娘に対して、冷たくもとれる言動をしてきたのに、こりることなく接近してくるかなみも不思議といえば不思議だ。相手なら他にいくらでもいるはずだ。なのに、かなみは自らの意思でこうして僕に会いにきている。
一体、どうして。
「つきました」
それから待つこと四十分ほど。車は高級住宅街の一等地に停まった。草薙さんは大きな駐車場にベンツを入れたが、ポルシェ、フェラーリ、メルセデスなど、派手な車ばっかりだった。
「どうやら、宗二様もいらっしゃるようですね」
草薙は小声でかなみに言った。
「みたいだね。今日来るって聞いてないけど」
かなみも小さく答える。
「中々の住まいじゃない。ねえ空。結婚したらこんな家に住みましょう」
「僕たち姉弟なんだから、婚約なんてできないよ」
「できるわ。無理やり既成事実作って子供生むから」
恐ろしいことを言う姉さんはさておいて、僕はその巨大な家を見上げた。
周りを堀で囲まれたとても大きな邸宅だった。格調高い門の前で草薙さんがインターホンを鳴らし取り次ぐと、開けゴマとばかりにドアが自動的に開かれた。
中に入り、上品な薄いベージュカラーのドアを草薙さんが開けると、一人の女性が迎えてくれた。
三十代後半から四十代前半といった顔立ち、きれいなウェーブのかかった黒髪。肌は抜けるように白く、大きな瞳は光を反射させ、白いカーディガンと相まって慎ましい女性といった印象だった。
女性は僕の方を向いて言った。
「あなたが亘理空さんね。いきなり荒唐無稽な話をもちかけてごめんなさい。私はここの人間でかなみの母、並河玲子と申します」