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 右拳を硬く握り締め、一切の外界を遮断したように神経を研ぎ澄ます。おそらく、心中は完全な“無”となっているのだろう。

 道場の真ん中で、恭子は気合を入れて立っていた。普段とは違い胴着を着て集中している彼女を見ると、なんだかドキドキしてくる。


 足を肩幅ほど開き、脇を固め真っ直ぐ正面を見据える。下半身の軸は固定されてまるで一本の木だ。冗談ではなく彼女の体からはオーラが立ち上っているように見える。僕は緊張し唾を飲み込んだ。


 右腕を胸の横に構え、左腕を前に突き出し正拳突きの型をとる。じっくり。じっくりと。気を溜め込んでいるようだった。そして――恭子は拳を放った。

 

 瞬間、風を切る音が耳を打つ。

 無論、本当に聞こえたわけではない。あまりに見事な型と迫力だったためにそう感じただけだ。


「おおっ」


 僕は思わず声を上げた。


 恭子は表情を変えずにこちらを向いた。


「すまなかったな、空」


 帯を引き締め、恭子はゆっくり近寄りながら言った。


「最近どうも稽古に身が入らなくてな。この様だ」


「そんなことないよ。凄かった」


 僕は笑みを見せながら言った。


「やっぱり空手をやってる時の恭子はカッコいいね」


「そ、そんなことはない。私など」


「いやいや。あれだけバシッと決まってたんだもの。普通の人だとこうはいかないよ。凛としていてまるで大和撫子みたいだった」


「だ、だから。そんなに褒めるな」

 

 なぜかあたふたしながら恭子は僕を制止した。恭子はいつもそうだ。自分をやたら卑下してしまう。まあそこが彼女の良いところでもあるのだけれど。


「ところで空。このあとの予定はなにかあるのか?」


「別にないよ。どうして?」


 休日の午後、練習に付き合ってくれないかという電話が来たので、僕は彼女の家にお邪魔していた。恭子は大企業の社長令嬢なので、自宅に道場を抱えるほどの豪邸に住んでいたのだった。


「大したことではないのだが」


 小さな声で俯き加減に恭子は言った。


「わた、しと、しょ……に」


「え?」


 はっきりと聞き取れずに、僕は訊き返した。


「あの……わた、しと」


 恭子の声は段々尻すぼみになっていた。


「ごめん、聞こえないよ。なんだって?」


「だ、だから!」


 恭子は真っ赤な顔を上げた。


「私と一緒に、食事に付き合ってくれないか、と言ったのだ!!」


 僕と恭子は肩を並べて、昨日かなみと訪れた喫茶店に入った。

 丁度ウェイトレスが客の応対をしているところだった。僕の姿が目に入るとオーダーを手早く済ませ、こちらに近寄ってきた。


「いらっしゃいませ。二名様ですね――あら?」


 ウェイトレスは僕の顔をまじまじと覗き込み「まあ」と声を上げた。


「昨日、あの小さな婚約者さんといらっしゃった方ですよね?」


「あ……」


 しまった、と思っても時既に遅かった。そういえばこの人は昨日応対してくれた人じゃないか。僕はなんて説明すればいいのかとちらっと恭子を見やると、

「そ、空に婚約者? ふ、ふふ、ふ」

 肩を震わせながら恭子は呟いた。そして、

「ウェイトレス殿」


「は、はい!」


「何をしておる? お客人を待たせていないで、さっさと案内をせぬか」


 声を荒げることはしないが、ドスを利かせたように低いトーンで話す口調は、怒っているのは明らかだった。


「あ、は、はい。失礼しました。こちらへ」


 僕は奥の座席に座った。その向かいに恭子が腰を下ろす。


「おい」


「は、はい。なんでしょう」


 恭子は殺意のこもった眼で僕を指差しながら言った。


「この男は昨日ももここに来たのか? しかも婦女子を連れて?」


 ウェイトレスが応える。


「あ、はは、はい。でもその時はそんな感じじゃなくて。お年も少し離れていらっしゃったようですし。妹さんかなにかかなって思ったんですけれど」


「その女が婚約者だと宣言したのだな?」


「そうです」


「わかった。もういい」


「は?」


「注文が決まったら呼ぶと言ったのだ! わかったらとっとと去れ!」

 

 店中に響くような大声で恭子が怒鳴ると、ウェイトレスは小さな悲鳴を上げて去っていった。恭子はため息をつき僕に見た。


「……結婚、するのか?」


「え? あ、いや、違う」

 

 僕はぶんぶんと首を振った。


「突然そうなってさ。僕も困ってるんだよ」


 こうなっては仕方ない。僕は今までに起こったことを全て恭子に告げた。すると噛み付かんばかりだった視線もいくらか和らいできた。


「では、本当に婚約者ではなくただの自称なのだな?」

 

 確認というよりはそうあって欲しい、という願いを込めて聞いているようだった。僕は頷いた。


「うん、僕は君にだけは嘘つかないよ、恭子」


 僕の言葉に、恭子は耳たぶまでボンッと真紅に染めた。


「……そ、そそそそうか」


 視線を逸らしながら恭子は応えた。僕は少し安心しながら声をかける。


「じゃあ、オーダー取ろうっか。ウェイトレスさーん!」


 僕が呼びかけると、さっきのウェイトレスは怯えたようにやって来た。


「先ほどは申し訳ない……どうやら頭に血が昇っていたようです」


 ウェイトレスがテーブルの前まで来ると、恭子はすぐに頭を下げて謝罪した。


「い、いえ。こちらこそごめんなさい。ご注文は何になさいますか?」


 僕らはメニューを見渡した。恭子はあれこれと悩んでいるようだった。

 やがて視線を上げ、僕を見つめた。


「空、何かおすすめはないのか?」


 僕はそう聞かれると、一番下にあるデザート欄を指差した。


「ここのチョコレートパフェ、なかなか美味しいらしいよ」


 そう言うと、恭子はニッコリ微笑んだ。


「では……それにしよう」


 しばらくすると、ウェイトレスが注文した品をテーブルの上に運んできた。恭子の前にはチョコレートパフェ、僕の前にはたまごサンドイッチだ。聞くところによると、チョコレートパフェはこの店の人気メニューらしい。


「こ、こんなものを食して、体系が壊れたりはせぬか……?」


 たまごサンドをほうばりながら僕は応えた。


「その心配はないと思うよ。なんたって抜群のプロポーションだからね」


「な、そんなことはないぞ……。ないが、嬉しい」


「うん」


「ふうむ……」


 恭子はチョコのかかった部分のアイスをスプーンですくい、口にくわえる。半分ほどコーンと別けられたアイスクリームの上にはさくらんぼとチョコレートソースがかかっていて、ボリュームはそこそこありそうだった。残念ながら僕は甘いものがそれほど得意ではないので、完食は難しそうだが。


「チョコレートパフェとは、美味なるものだな」


 頬を緩ませながら恭子は言った。


「本当はずっと前から興味があったのだがな。私の家は特に躾が厳しく、こういったものを食する機会を与えられていないのだ」


「……そっか」


 僕はそう言ってグラスに入った水を飲み干した。


「別に、食べてもいいと思うよ」


 僕の言葉に、パフェを食べていた恭子の手が止まった。


「家柄がどうとか親がどうとか、気にしないでさ。押さえ込まれることに慣れてしまったら一生その小さな世界でしか生きられないんだし。友達と遊ばないで勉強しろ? 食べたいものも食べられずに決められたものだけ食べろ? 我慢してまで親のいうことに従う必要なんてない。親は親、恭子は恭子じゃない」


「…………」


 恭子は黙って僕を見つめていた。いつもの凛々しい恭子の眼だ。


「空」


 やや沈黙があった後、恭子は口を開いた。


「ありがとう。私を想って言ってくれたのだな? そうだな、私も時に逃げたくなることがある。だが周りの人々が見るのだ。品行法制で真面目な『戸塚恭子』とな。その期待を裏切ることが出来ず、厳格なうちの両親に怯え、逃げ出すことすらも出来ずにいた。出来ずに、いたのだが……」

 恭子の眼には涙が滲んでいた。そして潤んだ瞳を拭うと僕に言った。


「そうだな。お前の言うとおりだ。これからも時々はこうして、パフェを一緒に食べに来てくれるか?」


「それだけでいいんだったら喜んで」


 僕はためらうことなく、微笑みを浮かべながら言った。


「むしろ、こんな僕でいいの?」


「こんな僕で、とは。まさか空、気づいていないのか?」


「え、なにに?」 


「私は、空のことを……」

 

 そこで恭子は言葉を切った。

 心なしか頬がほんのり朱に染まっているように見える。


「僕のことが?」


 僕が尋ねると、恭子は流し目で応えた。


「お前のことを世界で一番大事な……し、親友だと思っている、ということだ」

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