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「このお店でいいよね? くーちゃん」
「かまわないよ」
僕がそう言うと、かなみは返事の代わりにドアを開けた。
ちょうど腹が空いていたし落ち着いたところで話がしたい、というのもあって、僕らは近くの喫茶店に来ていた。
店内は洋風で洒落た雰囲気だった。夕方という中途半端な時間もあってか、特に賑わっている様子はない。
「あ」
ウェイトレスが僕の姿を見ると小走りに歩いてきた。可愛らしい制服に身を包んだ、スリムな女性店員だ。
「どうぞこちらへ」
窓際の席に案内され、腰を下ろす。
ふと見るとかなみがむくれた眼で睨みつけていた。
「ご注文はいかがなさいますか?」
コップに入った水をテーブルに置きながらウェイトレスは言った。
「ホットコーヒーをお願いします」
「かしこまりました。そちらの方は?」
「チョコレートパフェ」
ウェイトレスは素早くメモ書きすると、オーダーを伝えにカウンターへと入っていった。それを見届けるとすぐにかなみは言った。
「……くーちゃん、あの人のことじろじろ見てた」
「そうかな。そんなことないと思うけど」
今日はやたらやきもちを焼かれる日だ。姉さんといい恭子といいかなみといい。もはやこの世界に自分の逃げ場所はないのではないか、とさえ思う。
かなみは僕の返事に納得がいかなかったのか、むーっと肩をいからせた。
「くーちゃんってけっこう浮気者なのね」
「そうかもね」
姉さんから同じことを言われたことがあるので、僕は素直に答えた。
「でも大丈夫」
かなみは誇らしげに胸を張った。
「これからはあたししか眼に入らなくしてやるんだから」
「うふふ。可愛らしい妹さんですね」
注文した品をトレイに載せてきたウェイトレスが、笑顔で僕たちに話しかけた。かなみは首をぶるぶる横に振って反論する。
「妹じゃないよ!」
「あら、そうなんですか?」
「うん。だって婚約者だもん」
「え?」
ウェイトレスは眼をきょとんとさせた。
「すみません、こいつちょっと変なやつなんで」
僕は恥ずかしさのあまり口を出した。
「気にしないであげてください」
「いえいえ。とんでもありません。どうぞごゆっくり」
彼女は魅力的な笑みを浮かべ去っていった。
「ちょっとお。変なやつって何よ?」
仏頂面をしたかなみが文句を上げた。お前だよお前、と内心思ったが流石に大人気ないのでやめた。
「まあいいじゃないか。そんなことより食べよ」
「あたし妹じゃなくて許嫁なのに……」
ぶつぶつ不平を言いながらもかなみはフルーツの乗ったチョコレートパフェに取り掛かった。僕もコーヒーを口に入れる。少し味が濃かったが豆の相性はマッチしていて、かなりの高得点といった味付けだった。
しばらく二人とも目の前の料理を無言で食べていた。時折何か言いたそうにかなみがチラチラ視線を送っている。
「くーちゃん、まだ怒ってる?」
そうかなみは切り出した。
「そんなことないよ」
「そう? ならいいんだけど」
かなみはパフェ攻略へと戻る。
年頃の女の子だけあって、甘いものを食べてるときは幸せそうだ。
僕はその姿を見ながら言った。
「おいしい?」
「うん。あたしパフェ大好きなの!」
「そっか。よかったね」
僕は少し安心した。大人じみていても、やっぱりまだ子供だ。
しばらくして食べ終わると、ウェイトレスが僕の前にコーヒーを、かなみの前にオレンジジュースを運んできた。
「さて、本題に入るけど」
僕はコーヒーを一口すすりながら言った。
「君と親父の関係は何なんだ? 前にも話したとおり僕は親父が生きてる間、許婚がいるなんてこと聞いたことがない。いつ親父とそんな約束をしたんだ?」
かなみはオレンジジュースを口に含んでいたが、すぐ僕に視線を戻した。
「決めたのはあたしのママよ」
かなみは言った。
「言われたのは一ヶ月前。学校から帰って突然『あなたには許嫁がいるって』」
「君のお母さん……どんな人なんだ?」
「面白くもない人よ。地味だし暗いし。あたし一人娘なのに今までかまってもらった記憶がないわ。で、そのママがいきなり高校生の男の子と結婚しろって言ったのよ」
苛立ち気味にかなみは言った。どうやら本心から母親を嫌ってるらしい。
「それでね。そんなの嫌ってすごい反抗したの。見たこともない人と結婚させられるなんて、時代錯誤もいいところでしょ? そうしたら実際自分の眼で見てから決めればいいって言うもんだから、そうしたのよ」
「……そうしたのよって、僕とかなみは昨日が初対面だったはずじゃ」
「くーちゃんにとってはね。でもあたしはずっと見てた。学校帰りに寄り道して遊んだりしてるところ。いつもってわけじゃないけど、とにかく可能なかぎりくーちゃんのこと観察してた」
「…………」
「そうしたらね、なんだか不思議な気持ちになったの。顔があたし好みっていうのもあったんだけど……ごめん、話を戻すね。とにかく一目ぼれっていうの? あれになっちゃったの。だからあたし、婚約者の話受け入れたわ。他の人を見ても、こんな気持ちになったことなかったから」
話を聞いている間、僕はずっと無言で彼女のことを見ていた。
そして口を開くと、
「じゃあお母さんが言ったことなんだね? 全ては」
「うん、でも決めたのはあたしだけどね」
「そっか」
「だから、もうおママがどうこうって話じゃないのよ。あたし自身がくーちゃんのこと好きで好きでたまらないの。ねえ、言われたから従ってるんじゃないって、それだけは信じて」
かなみは真っ直ぐ僕を見て言った。嘘をついてる、なんて疑うことも僕はしなかった。僕は残ったコーヒーを一気に飲み干す。
「……信じるよ」
そう言って僕は立ち上がった。
「もう遅いから、そろそろ帰ろう」
「えーっ。もう帰っちゃうのお?」
「帰るの」
「ぶー」
不満げに口をすぼめるかなみを無視して、僕は伝票を持ってカウンターへと向かった。かなみは急いで立ち上がると、
「あ、くーちゃん。お会計ならあたしがする」
と言われたので、僕はむっとした顔で振り向いた。
「小学生に奢らせたりはしないよ」
かなみはむくれながら声を上げる。
「……それならもっと安いの選んだのに」
店を出ると、かなみは僕に向き直って言った。
「あ、あの。今日はありがとうね、くーちゃん」
「何にもしてないよ」
僕はこの小さな許嫁に向けて言った。
「うふふ」
かなみは嬉しそうに顔をほころばせる。
「なーんか、今日だけであたしたち一気に仲が進展したと思わない?」
「まあ、初日よりはね」
昨日仏頂面で彼女に応対した自分を思い出しながら言った。
「あ、あたしこっちだから。じゃーねーくーちゃん!」
しばらく街中を歩くと、かなみは元気よく言って交差点を渡りだした。
「バイバーイ!」
「ばいばい。気をつけて帰るんだよ」
「くーちゃんもねー!」
「ああ」
僕は淡白に返事をするが、不快な気持ちは持ってなかった。
純白の街並みに溶け込むまで、僕はその小さな体を見守っていた。
家に帰ると、郵便受けの中を開けた。すると、一枚の包みが入っていた。手に取ってみると普通の白い封筒だった。切手が貼ってないところを見ると、直接投函されたものだろうか。裏返してみると、見慣れた文字が書かれていた。
宛名は亘理空、僕の名前だ。
「誰からだ……?」
あちこち観察してみるが、差出人の名前はない。
単なるイタズラだろうか。だとしても、誰の仕業だろうか。
僕は怪訝に思いながらも玄関に入った。
「お帰りー空☆ 浮気はしてないでしょうね? もし不貞を働いたら三日三晩調教して、お姉ちゃんしか眼に映らなくなるようにしちゃうんだからね。そうなりたくなかったら、不純なことは一切駄目よ。いい? お姉ちゃんとの約束よ♪」
恫喝するような口調で、姉さんがドタドタと盛大に足音を立てて迎えにきてくれた。しかし帰ってくるなり、いきなり浮気チェックとはどういうことだろう。僕はそんなに軽い男に見えるのだろうか。
「調教って、一体どんなことされるの」
リビングに上がると、僕は姉さんに尋ねた。そして、言ってから聞かなければよかったと思った。しかし時既に遅し。姉さんはギラッと眼を光らせて言った。
「うふふ。知りたい? 空」
「い、いや、それほどまでじゃ……」
僕は首を横に振った。
「空は、私の話を聞きたくないっていうの?」
すると姉さんの眼が急に鋭くなる。獲物を前にした肉食動物のように。
「う、ううん……そんなことないよ」
哀れな標的はそう答えるしかない。
「そっか。じゃあ、教えてあげるね! 空の体で!」
「ちょっと! なんでそうなるの」
僕は声を張り上げた。しかし姉さんは意に返さず、
「言葉で教えるより、体に教え込んだ方が覚えるの。初体験の痛みが忘れられないのと同じ理由ね。具体的に言うと処女膜が破れて――」
「ストップ! そこから先はもういいよ!」
力説する姉さんを、僕はありったけの大きな声で止める。
「なんだー。空と一線を越えようと思ったのに」
「なんだーって何、なんだーって」
「私の初体験は空って決めてるの。他の誰でもなく空だけなの」
「ああ、わかった。わかったから、そんなにくっつかないでー!」
身をすり寄せる姉さんに向かって僕は叫んだ。
純潔を失くすにはまだ早いしね。
姉さんの用意した晩御飯を食べ終え、僕は自室へと足を運んだ。
部屋に戻ると、ポストに入れられていた封筒を机の上に置く。手にとって弄んでみる。この軽さなら、やはり中身は封書の類のようだ。
僕はハサミで封の上を丁寧に切りとると、中身を取り出してみた。定規を使って書かれたらしく、嫌に直線的な文字だ。手紙には簡易にこう書かれていた。
何故私というものがありながら他の女を見る?
私はお前だけ、お前は私だけを見ていればいいんだ。
次許可なく女にうつつを抜かしたら制裁を下すぞ。
「…………」
僕は手紙を手に取りながら、胸がざわつくのを感じていた。今にも誰かに見られているんじゃないかと、部屋の隅々にまで視線を走らせるが、幸いその心配はなかったようだ。しかしこの手紙に書かれてある内容は現実の脅威だ。得体の知れない人物の手紙からは、人間の持つドス黒い憎悪が込められているのだから。
「誰のイタズラだよ。まったくもう」
そう言いながらも僕は、体から冷や汗が流れるのを感じていた。