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夜勤初日の日。俺は王宮へ出勤をする前にとある場所へと向かっている。街を抜け、森に囲まれた街道を馬で駆けていく。
鬱蒼とした樹木に囲まれるのはユースティティア公爵家のお屋敷だ。休日前に公爵家で厄介になっている俺とフロース様の共通の友人のお見舞いに来て欲しいとお願いされていたのだ。
その友人とは騎士時代の同期ラウルス・ランドマルクのことだ。パライバ殿下から賜った青い瞳を持つ馬の名前の由来にもなった人物で、快活な性格をした気持ちのいい人物だ。
お屋敷の門に着くと守衛の兄ちゃんが、こちらからは何も言って無いのに「お待ちしておりました、パルウァエ様」と言い、馬を預かりますと声を掛けて来た。
そこからは軽装馬車に乗せられ、お屋敷の玄関まで揺られる事となる。
「いらっしゃいませ、パルウァエ様」
玄関口に居た公爵家の使用人が開いた扉の先には、執事のようなオッサンが恭しく頭を垂れ、挨拶を交わした後にラウルスが居る部屋へと案内をしてくれた。
執事のオッサンによって導かれた先には大きな二枚扉があり、開錠され取っ手を引くと、中には大きな寝台とその上に座る人物の姿が見えた。
「ーーごゆっくり」
そう言って執事は居なくなった。部屋の中へ入ると寝台の背に体を預けて座る人物の表情が驚きのものに変わる。
「イグニス!! どうして君が」
どうやら俺の訪問は知らされていなかったらしい。
「フロース様に見舞いに来るように言われたんだよ」
「そうだったのか…」
急に顔を伏せて言葉を詰まらせたので、大丈夫かと近づく。右腕は骨折しているのか、首から下げられた布で吊るされ、額には包帯が巻かれており、頬には大きな布が当てられていた。思っていた以上の大怪我だった。
「どうした?」
「いや、君に会えた事が嬉しくて…ありがとう、イグニス…心の友よ!!」
そう言って手を広げてこちらを見つめていたが、綺麗に無視をした。
「ーー君はどうして毎回私の再会の喜びを示す抱擁を無視するんだ」
「気持ち悪いからに決まっているだろう、いい加減にしろよ」
心配していた友人、ラウルスは思った以上に元気だった。
ラウルス・ランドマルクは輝かんばかりの金髪と青空のように澄んだ瞳を持つ貴公子のような容貌をしている男前だ。
ラウルスとは十二歳の時から十八歳となるまでの六年間同じ部隊で過ごした。途中、とある都合により二年間は別部隊となって、その後両親と兄が亡くなったという事情もあり、騎士を辞めて自らの領土に帰って行ってしまったのだ。
この度は領土でとある事件に巻き込まれ、怪我を負った状態で王都まで逃げてきたのだという。
そんなラウルスとの思い出は忌々しいものばかりだ。思い出しただけで胸が痛んだが、それ以上に楽しかった思い出も沢山ある。
しかしながら、騎士時代、道行く先々で女性を虜にしていたラウルスは、色々な意味で残念なことに女性なのだ。身長は俺よりも高く、すらりと締まった体つきは男にしか見えないので仕方がない事なのだろうが、性格もこざっぱりしている事から、ラウルスを女性扱いする者を見た事がなかった。
おまけに奴は大変な変わり者だ。従騎士時代には貴族ではない田舎者の俺と友達になろうとしたり、川から流れて来た、いかにも他国の暗殺者だと言わんばかりの恰好をした無口な少年を拾ったり、隣国の王子に喧嘩を売ってうっかり地方へ左遷されたり、荒廃していたランドマルクの地を蘇らそうと、宰相職を辞任しようとしていた王弟に求婚して自らの領土へ連れて行ったりと、様々な奇行を繰り返していた。
…ちなみに求婚は無残にも失敗したが、元宰相殿はランドマルク領へ赴き、領土の復興を果たしてくれた。さらに詳しく言えば、その元宰相様とはフロース様の父親だ。
そして最大の問題点が、十四歳年下の妹への異常な愛情だった。俺との文通の内容はほとんど妹のことで埋め尽くされ、妹が生まれてからラウルスは何か悪いモノに取り憑かれているのでは?と首を傾げるほどの溺愛っぷりを見せていた。
一年前、ラウルスのランドマルク領に寄る機会があって、妹と共に居るのを見たが、片時も妹を傍から放さず、惚けたような表情で見つめたり、肩を抱いたり、頬を撫でたりと嫌がる妹を人目も気にせずに可愛がっていたのだ。ラウルスの妹の年齢は十七歳になっており、猫可愛がりをするような年頃でもない。「お前もいい年なんだから、そうやって妹に執着するのは止めろ」と注意すれば、「君は分かっていない、これは執着ではなく、究極の家族愛だ!!」と訳の分からない主張をしてくれた。
奴の妹への変態行動は傍から見れば異常に写るだろう。人は彼女の事を【男装の麗人】と呼ぶが、俺は【男装の変人】だと思っている。
寝台の上の変人は残念そうに抱擁をしようと広げていた片手を下げ、俺に椅子を勧めてくれる。
「今から仕事なのか?」
「まあな」
「忙しいのにすまない」
「いいや、遠征部隊や警邏機動隊に居た時より忙しくはないよ」
「そうか」
手に持ったままになっていた、昨日市場で買った見舞いの品である果物を近くにあった机に置く。
「これ、昨日買ったヤツだ。良かったら食ってくれ」
「ありがとう! その果物は大好物だ」
「それは良かった。俺の馬も大好物なんだ」
「……」
ラウルスには馬に同じ名前を付けた事を言っていない。バレるのも時間の問題だと思っていたが、今の所は黙っていようと思っている。
「市場で買ったのか?」
「ああ、そうだ」
「懐かしいな。よく君と二人で朝食を買いに行ったな」
「…朝市といえば」
「?」
「お前、姫様に要らんことを言ってくれていたみたいだな!」
「姫様?」
「フロース様のことだよ!!」
「姫様…君は…?」
「なんだ? 歯切れが悪い物言いだな。前にランドマルク領で紹介された時に、フロース様は自分のことを姫と呼べって言っていただろうが」
「あ、ああ、そういえば、そうだったな」
ラウルスが違う部分に反応をするので、話が逸れてしまった。
「聞いていないのか? この前フロース様と俺が朝市に行った話を」
「え? フロースが朝市に? どうして…」
「お前が騎士時代に朝市に行った話を面白可笑しく話したからだろう!!」
「ーー君との思い出はフロースに話したが、市場に行ったことは聞いていない…」
ラウルスは手を口に当て、信じられない、といった面持ちで言葉を失っているように見えた。お姫様が庶民の戦争の場とも呼ばれている朝市へ足を運んだことに驚いているのだろうか。
「ああ、すまないね。フロースは朝から夕方までは王宮へ出仕しているし、夜はフェーミナ殿の手伝いをしていて忙しくしているのだ。私に構っている暇はあまり無いのだよ」
ーー意外だった。フロース様は十二歳の時に暴漢から護ってくれたラウルスに、女性とは知らずに一目ぼれをし、奴が騎士を辞めてからは領土へ付いて行ったほどの傾倒ぶりを見せていたらしいが。
「王宮でのフロースの様子はどうだい?」
「ああ、皆お姫様に頭が上がらない状態だよ」
「そうか。フロースは何処に行ってもフロースなんだな」
安心をしたような、柔和な微笑みをラウルスは浮かべている。今までこのような女性らしい笑い方をすることは無かったが、何かが彼女の中で変わったのだろうか?いい傾向だと思った。ラウルスももう三十一だし、幸せになってもいい時期なのかもしれない。
その後、少しだけ会話を交わしてお暇させて頂く。
モフモフと踏み締めるのが申し訳ないほどの柔らかな絨毯が敷かれた廊下を歩きながら、出勤までかなり余裕があるなとぼんやり考える。
考え事をしていたからか、つい注意が散漫になってしまい、角から出て来た人物とぶつかってしまった。
「ーーきゃあ!」
「うわ!」
ぶつかってしまった人物の腕を咄嗟に掴み、何とか相手が転倒をするのを防いだ。
「も、申し訳ありま」
「もう!! 何なの!!」
「……」
「…あら、あなた」
俺が衝突をしてしまったのはフロース様だった。転倒を防ぐ為に腕と腰に当てていた手を慌てて離し、即座に頭を下げた。
「すみません!! 考え事をしていて」
「来ていたなら声をかけてくれれば良かったのに」
「いえ…執務室でお仕事をなさっていると聞いていたもので」
「ふうん。…ラウルスには会ったの?」
「はい」
「そう」
本日はフロース様もお休みの日だったらしい。休日でも休むこと無く執務に執り組んでいるとは立派なものだ。俺なんか馬や植物の世話や部屋の掃除を終えると、ついゴロゴロしてしまう駄目人間だ。
「あの、痛むところは」
「無いわよ。軽くぶつかっただけじゃない」
「え、ええ」
結婚前のお嬢さんに怪我を負わせれば大変なことになる。公爵家の姫君への賠償金なんぞ俺が一生働いても稼ぐことは出来ないだろう。
そんなことよりも、フロース様は細くて少し力を入れただけで壊れてしまいそうな儚さがあるので、余計に心配になってしまった。
「一応先生に診て貰った方が」
「大丈夫って言っているでしょう!! しつこいわね!!」
「……は、はい、すみません、でした」
フロース様とは毎回の話だが、何を言っても怒られてしまう結果となる。謝り足りないとも思っていたが、またしつこいと言われてしまうのではと思い、このまま退散させて頂くとしようと行動に移した。
「本日はお誘い頂きありがとうございました。ラウルスの顔が見れて安心出来ました」
「ーーこのところ元気が無かったから、あなたの顔を見てラウルスも気分転換になったと思うわ」
元気が無かったって、俺には割りと普段通りに見えたが、空元気だったのだろうか?そういえば、奴の考えていることなど一度も分かった例が無かったと思い出す。
「…では、お暇を」
「あら、もう帰るの? 夜勤の開始までまだ時間があるじゃない。夕食は?」
「済ませて来ました」
「だったらお茶でも飲んで仕事に行きなさいよ」
「え? ええ…ありがとうございます」
フロース様には勤務時間の情報を握られているので、「これから仕事なんで!」という逃げの文句は言えなかった。
--またしてもお茶に誘われてしまった。
フロース様の後ろを、市場に売られていく子牛のような気分でついて行き、たどり着いた部屋へ通される。
「……」
部屋に一歩入っただけの俺は、目の前の光景にクラクラと眩暈が起きたような錯覚に陥っていた。
「おばあさま、こちらの方はパライバの親衛隊の隊長で、イグニス・パルウァエ卿というわ。お父様は覚えていらっしゃるかしら? 一年前ランドマルク領で会った事があるんだけれど」
案内された先には、フロース様の祖母であり前王の側妃だったフェーミナ様と、フロース様の父親であり、ルティーナ大国の元宰相であるアルゲオ様が席についていた。
ーーまさかここでお茶を飲むと言うのか!?
フロース様は既に椅子に座り、先ほどの執事のオッサンがこちらを見ながら椅子を引いて座るよう言葉を掛けて来る。
騎士らしく膝を付いて名前を名乗ったほうがいいのかもしれないが、フェーミナ様の射殺すような双眸に貫かれ、体は硬直したままで動けなかった。
今すぐ回れ右をして逃げ出したかったが、早く座れというフロース様の視線を受けて、重たい足を引き摺るように椅子に座った。
気まずい、大変、気まずい。そんな空間の中、執事から紅茶が振舞われる。ほんのりとした紅茶のいい香りが漂っていて、尚且つ口の中もカラカラだったので、口の中をベロンベロンに火傷するのも覚悟のうちで、一気飲みでもしたい気分だったが、目の前の貴人達の前で何か粗相をしてはいけないと思ったからか、差し出されたカップに手を出す事が出来ずにいた。
「あなた、名前はパルウァエ、と言ったかしら?」
「はい」
「珍しい名前ね。どこの生まれなのかしら?」
「東にある【サンテラ】という村の出身です」
「まあ、そんな田舎から」
「……」
それから俺は何故かフェーミナ様に質問攻めにされる。まるで値踏みをされているようで、落ち着かない気分になったが、聞かれた事は正直に答えた。
「借金とかあるの?」
「え? はあ、あの、総隊長の勧めで家を買ったときに、お金をお借りしました」
「お家ねえ…」
何故公爵家のお茶の間の話題に俺の借金の話をしなければならないのか。額の汗を拭いつつ、その場を乗り切ろうと己を奮い立たせて、なんとか辛抱する。
「ーー母上、このような借金は騎士団の上層部が部下を引き止める為に使う常套手段だと聞いた事があります。騎士隊ではこのように上司の勧めで家を買ったり、装備を揃えたりなどして借金をする者は珍しくも何ともないのです」
「あら、そうなの?」
その噂は俺も聞いた事があった。
騎士団の離職率は案外高く、一年ごとに数百人と入隊するものの、その三分の一は年を重ねるうちに辞めてしまうとか。そういった離職を防ぐ為に上司は借金を持ち出し、少しでも長く騎士隊に引きとめようと声を掛ける行為を積極的にするとか。
アルゲオ様が助けてくれたお蔭で何とかフェーミナ様の冷たい視線から逃れる事が出来た。眉間に刻まれた皺や目の下の隈のせいで、とっつき難く、怖ろしい外見をしていたが、アルゲオ様は親切な方だった。
その後、何とかフェーミナ様からの質問攻撃を掻い潜り、公爵家を辞する事となる。
使用人から厩舎まで案内してもらい、馬のラウルスとの再会を果たした。柵を開いて手綱を引いたが、馬はビクともしない。
「……おい、仕事行くぞ」
グイグイと手綱を引くが、昨日に引き続き、言う事を聞かなかった。
「なんだよお前!! ここん家の子になりたいって言うのか!?」
馬は向かいの馬房に居る馬をじっと見ていた。そこには見事な青鹿毛の馬が居る。豊かな鬣を持ち、黒光りするその肢体は筋肉がきゅっと引き締まっていて、なかなかお目にかかれない程の美しい馬だった。
「もしかして一目ぼれをしたのか?」
雄々しい性格をしているが、一応ラウルスは雌の馬だ。公爵家の素晴らしい馬に一目ぼれでもしていまったのだろうか。出勤までに時間も余っていたので、少しだけ待ってやることにした。
「お前なあ、本当に公爵家のお馬様とどうにかなろうと思っているのか? 身分違いもいいところだぞ」
しかしまあ、この馬の血統は由緒正しいものなので死ぬ気で頼み込めば、繁殖目的で番にしてもらえるかもしれない。でも俺自身馬が居なくなったら困るので、実行は慎重にしなければならないが。
「少し待て、今は時期じゃない」
「誰か居るの?」
「!!」
遠くから突然話しかけられ、手にしていた馬のおやつを落としてしまった。厩舎の出入り口にはフロース様が居て、こちらを不思議そうに覗き込んでいる。まさか馬と真面目に話し込んでいたとは言えず、適当に誤魔化してしまった。
「良かった。もう帰ったかと思っていたわ」
「どうしたんですか?」
「…いえ、おばあさまが失礼なことを聞いてしまったと思って」
「ああ、そのことでしたら気にしないで下さい。全て本当のことですから」
「でも申し訳なかったわ」
それだけの用件を言う為にここまで来てくれたのか。しかも着の身着のままで来ていて、寒いからか微かに肩が震えているように見える。とりあえずどうしようか一瞬迷ったが、手にしていた外套をフロース様の肩にかけ、馬を馬房から無理矢理引っこ抜くと、不満顔を見せる背中に跨った。
「あ、あの!! あなた、寒くないの!?」
「大丈夫です。それではまた明日!」
足先で馬に合図を送り、走るよう促すと、仕方が無いとばかりに荒く鼻息をついて、ポコポコと音をたてながら歩き出した。
馬がやる気がないようにのろのろと進むので、去り際は間抜けだったなと我ながら恥ずかしく思った。