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今日は馬で一時間ほどの場所にある施設を視察するという予定だったが、出発前の突然の大雨で延期となった。
机に向かって行う仕事は昨日、一昨日とかけてまとめて片付けてしまったので、執務室でする事が無い。なので今日一日は護衛勤務となる。
殿下の斜め後ろに立ちながら、静かな空間の中で必死に睡魔と戦っていた。今までは、魔物が居る地域などに行き、速やかな討伐を目的とする遠征部隊や、街を隈無く巡回し、王都の安全を守る警邏機動隊などに所属していたので、体を動かさないで集中力を保つことが必要な任務に就くのは初めてだった。親衛隊長になってからも、主な仕事は机に向かってするものが中心だったので、執務室での漠然とした状態での護衛という務めは何度経験しても慣れないし、辛いと感じてしまう。
あんまりにも暇なので、ついつい余計なことも考えてしまう。例えば、毎日夕方にしている夜の食事の心配とか、畑に植えたばかりの野菜の苗がこの雨で駄目になっているのでは?とか、フロース様にうっかり誓いの言葉を言ってしまった事とか。
◇◇◇
何とか一日の勤務を終え、夜勤担当の騎士へ引継ぎを行い、日勤者達の終礼を休憩所で行う。あいつら、雨だから訓練は中止だと言えばニヤリと笑いやがった。…明日覚えておけよ、と睨みを利かせ解散する。
窓枠の外にある風景は大降りの雨だ。この具合なら馬に乗って帰れないだろう。今日は酷く冷え込み、降りつける雨も氷の様に冷たいという報告が出勤して来た夜勤の騎士から上がっていた。そんな中で帰れば馬も風邪を引いてしまうだろう。ラウルス(馬)は今晩騎士隊の厩舎に預けて、俺は雨具を借りて走って帰るか、仮眠室で一晩明かすか、どうしようか悩み所だ。
外の風景を眺めながら考え事をしていると、背後の出入り口が開かれる。
「ーーあら?」
騎士達の休憩室に入って来たのはフロース様だった。
「あなた、何をしているの?」
「いえ、雨が酷いなって外を見ていて…姫様は何を?」
「お茶をね、飲みに来たの。騎士が帰った後にここをこっそり使わせて貰っていたのよ」
「そうでしたか」
わざわざこのような場所で休まなくても侍女専用の休憩所は存在するが、ここからだと少し歩かなければならない。しかしながらフロース様ほどの令嬢に、部屋の一つ位用意されていないのだろうか?
そんな風に考えていると、部屋の隅にある簡易的な台所でフロース様はお湯を沸かし始めていた。休憩の邪魔をしてはいけないと思い、さっさと退散しようと扉の方に移動する。
「お先に失礼します。雨なので帰りは気をつけて下さい」
「もう帰るの?」
「はい。お疲れ様でした」
「お茶の一杯位飲んでいきなさいよ。それとも急いでいるの?」
「いえ」
…また、帰りそこなってしまった。別にフロース様に付き合うのが嫌な訳ではない。わざわざ自分の分までお茶を淹れて貰うのが申し訳ないだけだ。
「何かお手伝いしましょうか?」
「あなた、お茶の淹れ方を知っているの?」
「い、いいえ」
「だったら邪魔になるわ。ソファにでも掛けていてくれないかしら」
「はい…」
ベルトに付けていた剣を外して、言いつけられた通りソファに腰掛ける。
数分後、紅茶が運ばれ、御相伴に預かることとなった。
部屋の中は雨が降る音だけが響いている。フロース様は物音一つたてずに陶器のカップを持ち、優雅な手付きで紅茶を啜っている。特に会話も無かったが、不思議と気まずさを感じなかった。紅茶の飲み干せば、何も言わなくても継ぎ足され、目の前に差し出してくれる。暖かな飲み物のおかげで体も隅々まで温まった。雨の規則的な音を聞きながら、このまま眠れたら幸せだなあ、と現実逃避を始める。
二杯目のカップも飲み干してしまい、何となく手持ち無沙汰になった俺はソファに立て掛けていた剣を脇に抱え、腕を組んで窓から外を眺める。雨の勢いは依然として収まりそうに無い。
「ーーねえ」
「!!!!」
突如として耳に入ったフロース様の声で肩がビクリと震える。…どうやらいつの間にか浅い眠りについていたらしい。
「疲れているの?」
「す、すみません。大丈夫です」
寝起きだからか舌が上手く回らない。一体何分位眠っていたのか。
「あの、どの位ここで」
「一時間くらいかしら?」
「……」
なんとまあ。浅い眠りの中かと思っていたらがっつり眠っていたと。俺のせいでフロース様は帰るに帰れなかったのだろうか?
「あなたが眠っている間に食堂で食事を作ってもらったわ」
フロース様は籠に入った食事を用意してくれていた。なんて…優しい人なんだ!!ーーというのは置いといて、王族の姫君に食事の手配を何回もさせるなんて、なんというか、消えてしまいたいほどに申し訳なく思った。
「雨だし、家に持って帰ったら濡れちゃうからここで食べるといいわ」
「はい、ありがとうございます」
そう言いながらフロース様は籠の中から中の食事を出して並べ始める。
「あ…じ、自分で出来ますから!」
「……」
籠を受け取ろうと伸ばした手は綺麗に無視された。
ものの数分で食事の準備が整い、おまけに新たに紅茶まで淹れてくれた。
「ーー何から何までして貰って…申し訳、いえ、嬉しいです」
「そう。暖かいうちにどうぞ」
「……いただきます」
何故、フロース様に給仕をしてもらって夕食を一人で食べているのか。無意識の内に眠ってしまうほど、疲れている可哀想な人に写っていたのだろうか。
用意された食事は、焼いた肉と炒めた野菜をパンに挟んだものに、刻んだ根菜類を煮込んだスープに、炙った骨付きの燻製を焼いたものと力の付きそうな献立だった。
肉を挟んだパンに齧り付く。じわっと肉汁が口の中で溢れてきて、味付けは香辛料を振っているだけなのに、風味が良く旨味が凝縮された肉は驚くほど柔らかい。
一見庶民的な品々だったが、使われている素材は怖ろしく高価なものだと分かる。ーーとても、おいしい。素晴らしく、おいしいのだが、目の前にじっと観察をするように見つめるフロース様が居て、大変食べにくい思いをしている。
あまりにも熱心にこちらを見るので、パンが喉に詰まったような感じがして、紅茶を一口啜る。
「平民の奥さんってこんな風に旦那様の給仕をするの?」
「げっほ!!」
危なく口の中のモノをフロース様に噴き出すところだった。口元を押さえ、フロース様を見れば、首を傾げてこちらを窺っている。
「すみません、今、なんて?」
「平民の奥様ってこんな風に給仕をするのかって聞いたのよ」
やはり先ほどの言葉は聞き違いでは無かった。フロース様は色々なものに興味を持ち出すお年頃なのだろうか。
「……普通の家庭の奥さんは旦那と一緒に食事を摂ります」
「え? じゃあ誰が配膳をするの?」
「奥さんがします」
「どうやって食べながら給仕をするのよ?」
そこから説明をしなければいけないのか。フロース様は今まで給仕が居る場所でしか食事をしたことが無いのだろう。
「作った食事を全て机の上に並べるんですよ」
「!? そんなことしたら料理が冷えちゃうじゃない」
「熟練の主婦は次から次に料理を作って、暖かい食事を家族の為に作ってくれる技術を会得しています」
「それは、すごいわね! どんな料理を作るのかしら?」
「うちの母親の話なんですが、大皿に山のように盛り付けられた雑な…いえ、短時間で簡単に出来る料理です。そんなの見た事無いでしょう?」
「ええ、どんなものか想像出来ないわ」
七人家族と大所帯の中で育ったので、食料の確保は困難を極めた記憶がある。誰が肉を多く食べたとか、誰が野菜を食べていないとかで揉め、弟や妹と食べ物関係での醜い争いは何度もした。
「でもどうして急に庶民の暮らしが気になったんですか?」
「前に朝市に行った時、はじめて自分が世間知らずだって気付いたのよ」
「それは…」
「十四歳の頃から十年間暮らしたランドマルク領でもね、王都での生活と変わらない暮らしをしていて、好きな服を買って、お姫様のように振舞って、欲しいものがあったら王都に居るお兄様に頼んで送ってもらったりもしたわ。今まで私はキラキラとしたものに囲まれる世界しか知らなかったの」
「……」
「物の値段、お金の価値、人が生きるための術、知らないことだらけだったわ」
フロース様が貴族の令嬢としての嗜みしか知らないのは当たり前のことだ。これからの人生の中で野菜の買い方や、商品の物価など知っていても役に立たないだろう。
「あなたからしたら世間知らずな娘の戯言に聞こえるかもしれないわ。でも約束したから」
「??」
「私の言葉は聞いてくれるんでしょう?」
先日の誓いは【色々庶民の暮らしの事とか聞くけど嫌がらずに答えてね】という意味だったのか。重く受け止めていた自分が恥ずかしい。
「そんなものだったらいくらでも答えますよ」
フロース様は「よかった」と消え入りそうな声で呟いていた。