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親愛なるイグニス・パルウァエ様へ
元気にしていただろうか? 君に毎日手紙を送ると言いながら、結局は三日おき位になってしまったことを申し訳なく思っている。
私も庶民生活というものを甘く見ていたようだ。朝の薪割りから始まり、馬房の掃除、植物の世話、一週間に一度のお買い物の荷物持ち、掃除のお手伝いなど、一日を終えたらくたくたになって、手紙を書ける状態ではなかったのだよ。
彼女はついに一年間の努力の末、誰の手も借りずに食事や掃除をする能力を得て、一人前の庶民として師匠から認められたのだ。
それから何度も手紙の中で、フロースに会いに来てはいけないと、釘を刺し続けていた事を申し訳なく思っていたよ。でも今回からは違う。
イグニス、フロースを迎えに来てくれないか?
彼女はきっと君が来てくれることを夢見ている。
イグニスが忙しくしていたのも、とある筋からの情報で聞いていた。そして、その忙しい日々も終わるという情報も手にしている。
だからお願いだ。フロースを迎えに来てくれ。
君の健闘を祈っているよ。
ラウルス・ランドマルクより
◇◇◇
パライバ王子の視察先であったマーリッツという街から帰って来たのは明け方だった。隊員達はその場で解散をさせたが、自分は一度王宮の執務室に行って、急ぎの書類に判を押した後家に帰った。
それからは、いつもの休日の過ごし方と同じで、市場に行って馬の餌や藁、ついでに自分の食料を買い込み、帰宅をした後は風呂に入ってしばらくはゆっくり過ごすという、変わらない日常だ。
机の上にはアセスが郵便受けから運んでくれた新聞や手紙が並べられている。
ここ三ヶ月ほどはパライバ殿下の公務で地方に出掛けていたので、ほとんど王都には居なかった。アセスには迷惑を掛けたと思っている。
この忙しさの原因は、パライバ殿下は王太子であるセレスタイト殿下のお仕事を引き継いだことにある。先日、セレスタイト殿下の即位が決まって、仕事を引き継ぐ相手にパライバ殿下を指名してきたからだった。
しかしながら、我が部隊が若者の集まりであったことに感謝をする日が来るとは思わなかった。
何故かといえば、休日もまともに無いような勤務体制の中、隊員達は元気だったのだ。もしもこの第七親衛隊がオッサンの集まりだったら、「長時間の馬の移動で腰とお尻が超痛い!!」とか「隊長さんよ、お休みはまだかい?」などと不満を口にしていたに違いない。
実は俺も結構限界が来ていたが、部下達の手前弱音を吐くわけにもいかず、ひたすら黙って耐えていたのだ。十代後半から二十代前半の奴らの若さが大変眩しい。そんなことを痛感する毎日を送っていた。
パライバ殿下は今までしていた仕事と、セレスタイト殿下から引き継いだ仕事の両方をこなしていた。その為の忙しさだったが、明日からはその仕事量は減る。パライバ殿下がしていた仕事の引継ぐ相手が決まったからだ。
これでやっと肩の荷が下りる。そう思いながら、ラウルスからの数通の手紙を読み始めた。
この手紙は一年前、ラウルスが不幸の手紙を送ると言って本当に実行をしていたものだ。
しかし中身は不幸の手紙ではなくて、フロース様の毎日の奮闘を記したものだった。
驚いたことにフロース様はあの後庶民の生活を学び、家事を覚える為の努力を始めていた。ラウルスから届く手紙を読む度に、何度もフロース様を迎えに行こうと思った。
俺の為にそんなことはしなくてもいい。それにフロース様が我慢をしてくれるのならば、家に来て一緒に暮らして欲しいと思っていた。生活をするのにお金が足りないというのならば、汚い手を使ってでも昇格をして、収入を増やせばいい。フロース様が本気だということを知って、そんな馬鹿な考えさえも浮かんでいた。
でもラウルスには自分の考えそうなことはお見通しだったようで、頼むから頑張っている最中のフロースには会いに来ないでくれ、と毎回釘を刺されていたのだ。
そして、ラウルスからの最後の手紙を読み終えた瞬間に、家の扉を叩く音が聞こえた。
時刻はお昼を一時間ほど過ぎた頃だ。こんな変な時間に訪問をしてくるのは誰だろうか? あまり働かない頭で考えつつ、玄関に向かう。
扉の外から聞こえた声は、良く知った人物のものだった。
「イグニス!! 大変な事が起こった!! 頼む、開けてくれ!!」
「――ラウルスか?」
「そうだ!!」
怪しい訪問者は一年ぶりとなるラウルス・ランドマルクだった。
扉を開くとそこには切羽詰ったラウルスの顔があった。一体どうしたというのか。
「――君は何をボケっとしている!! 私の手紙は読んでいないのか!?」
「いや、たった今読み終わった所だ」
「そうか!! だったらする事は分かっているだろう!?」
ラウルスからの最後の手紙には、フロース様を迎えに行ってくれ、と書かれていた。
しかし、冷静に考えて、本当に彼女をこの家に連れて来るという行為は許されるものなのかと疑問に思う自分が居た。多分疲れているからこのように気分も落ち込み、よくない方向へと思考が飛んでいるのだろう。
「君はまだつまらない事で悩んでいるのか!?」
「……」
「君の手で掴んでしまえばフロースは輝きを失ってしまうと前に言っていたが、それは違う!!」
「……ラウルス、それは」
「もう君の言い訳は聞かない!! それにフロースは君が輝くように彼女を照らせば問題ないだろう!? それがイグニスという炎を意味する名の、本当の意味だ!!」
「ラウルス、お前…」
なんて熱い男なのだろうか。他人の為にこうも一生懸命になれる人を俺は知らない。
ラウルスは以前名前の意味を話していた時に、俺が自分の名前の本来の意味が分からないと言っていたのを覚えていたのだろう。ラウルス曰く、この炎という名は、フロース様の隣で照らし、輝かせる為のものだと。
「イグニス、これは公爵家の裏口から中へ入る為の鍵だ。そこからしばらく歩いた所に赤い屋根の家があるそこにフロースは居る」
「へ?」
「――後は頼んだぞ!! イグニスッ!!」
「ラウ…」
ラウルスはそのまま中にも入ろうとせずに帰って居しまった。家の前には馬車を停めていたようで、素早く乗り込んだのかその姿はもう無い。
なんて奴なんだ。勝手に鍵を手のひらに握らせて、まるで用件をこちらへ丸投げをしたように帰って行ってしまった。多分言い合いになったら勝てないと思ったのだろう。
玄関の扉を開いたまま、呆然としていると、本日二人目の訪問者が塀から顔を出す。
「あ、兄ちゃん!!」
お久しぶりなアセスだった。
これまで頑張ってくれたお礼の品と土産を買っていたので、家の中へ取りに帰ろうとしていたら、慌てた様子で腕を取られてしまった。
「に、兄ちゃん、待って、薔薇の花が咲いてる!!」
「――ああ、そういえば、いつの間にか咲いていたな」
一年前にフロース様へ贈った花は、雪解けの時期と雪が降る前の二回に渡って花を咲かせる。フロース様に花を贈った半年後の花咲く季節には、残念ながら一個も蕾を付けなかった。恐らく蔓ごと花を切ってしまったのが悪かったのだろう。これまで以上に丁寧に世話をして、それから半年経った今季は沢山の蕾を付けてくれた。留守中に世話をしてくれたアセスの手腕もあるのかもしれない。
「アセスのお陰だな。ちょっといいか? お土産を買っているから持って来…」
「兄ちゃん、そんな暢気にしている場合じゃあ無いよ!!」
「ん?」
「お姉ちゃんが来たんだよ!! 一週間前に薔薇の花を見に!!」
「お姉ちゃん?」
お姉ちゃんとはアセスのお姉さんのことだろうか。咲いた花を見たいならば好きな時に来ても構わないのだが。
「銀色の髪をした綺麗なお姉ちゃんだよ!!」
「!!」
フロース様がここに来たというのか? 薔薇の花をわざわざ見に?
「お花が咲いていなくってとてもがっかりしていたみたい。このお花はね、帝国産の珍しい花なんだって」
「そうだったのか」
「うん」
だから世話が大変だったのか。一応図鑑で品種を調べたが、原産国の表示までは見ていなかったな。
「兄ちゃん、この薔薇の花の名前を知っている?」
「いや…」
「シンシア・アモル。誠実な愛って意味で、お姉ちゃんが世界で一番好きな花なんだって」
「!!」
なんということだろうか。俺は花の持つ意味も知らずにフロース様に、その薔薇を捧げていたとは。
愛の名を持つ花を贈っておきながら、フロース様の気持ちを無下にしたなんて、ちっとも誠実では無い。
でも、起こってしまったことをあれこれと反省する前に、俺には急いでする事があった。
「アセス、すまない、戸締りを頼む!!」
「ーーえ? うん、行ってらっしゃい!!」
走って向かった先は、以前アセスと一緒に木の枝を拾った公園だ。木の下で必死に枝を拾い集める。
公園で木の枝を集める男というのは、立派な不審者だろう。この辺りは子供達が多いことから、警邏機動隊の騎士達がよく巡回をしている。見つかって職務質問なんかされたら、最悪だ。それに慌てて家から飛び出してしまったので、身分を証明するものも持っていなかった。
「ねえ、お兄ちゃん、何をしているの?」
「ーー!?」
…気が付けば子供達に囲まれていた。
正直勘弁して欲しい。数人の子供に囲まれた事によって、俺の不審者度が一気に上がってしまった。
「…木を拾っているんだ」
「ふーん。暇だから手伝ってあげる」
「!?」
子供達は怪しいオッサンの為に木を拾うのを手伝ってくれた。なんというか、本当にありがとうございますとお礼を申し上げるのと共に、巡回中の騎士に見つからなくって本当に良かったと心から思った。
帰ってからは、薔薇の花を蔓ごと切り取って、棘を抜いて木の枝に紐で括り付けるという作業に取り掛かった。家にはアセスが待っていて、色々とお手伝いをしてくれた。なんていい子なのだろう。
最後にアセスが用意していてくれた綺麗な紙で花束を包んで、フロース様の元へと出掛けることになった。
「兄ちゃん!! 頑張って!!」
「ああ、色々とありがとうな」
「うん! 行ってらっしゃい」
アセスに見送られ、馬に跨って公爵家へと走らせた。
◇◇◇
ラウルスから受け取った鍵で裏口から中へ入り、教えてもらった通りに歩いていけば、赤い屋根の家を見つけることが出来た。
馬を近くの丈夫そうな木に繋ぎ、扉の前まで歩いていく。
――この奥に、フロース様が。
公爵家に辿り着くまで、何も考えず勢いだけで突っ走っていたが、ここに来て心臓がドクドクと鳴っているのに気が付いた。一度額の汗をハンカチで拭い、深呼吸をして落ち着くように努力をしてから、戸口を叩いた。
「ラウルスなの? 鍵は開いているわ」
返事はすぐに返って来た。久しぶりのフロース様の声。相変わらず、不機嫌にも取れる声色はいつもの彼女の調子だ。
緊張で声が出なかった。だからといって勝手に扉を開く訳にもいかない。
「何をぐずぐずしているのかしーー!!」
扉を開いたフロース様の顔は一瞬で驚きのものに変わる。
「ーーイグニス?」
名前を呼ばれただけなのに顔に熱が集まるのが分かって、つい顔を逸らしてしまった。いやいや、照れてそんなことをしている場合ではない。
「…フロース様に、これを」
「!!」
手にしていた薔薇の花を、再びフロース様へと捧げる。
ここに来るまでに言う事は沢山考えていたのに、一つも口から出せずに居た。
「この花束は、俺の気持ちです。受け取ってくれますか?」
一言だけ、なんとか振り絞って言うことが出来た。受け取って貰えなくても、気持ちを伝えるだけでこんなにもすっきりとした気分になれるものだと感激すら覚えた。
この一年間、ずっと隠して抱えていたフロース様への気持ちが、自分の中で重荷になっていたのだと、今更ながらに気が付く。
「嬉しい…ありがとう、イグニス」
フロース様は誠実な愛の名を持つ薔薇の花を受け取ってくれた。
やっと顔を見る事が出来たと思っていたら、フロース様の眦に浮かんだ涙が瞬きによって頬を伝う瞬間だった。
フロース様は薔薇の花束を抱きながら、肩を震わせて涙を流している。
こういう時にはどうすれば正解なのか分からなかった。ポケットに入れたハンカチは自分の汗を拭いたものなので、とてもじゃないが差し出すことなんて出来ない。抱きしめようにも薔薇の花束を潰してしまう。
玄関前で立ち尽くし、泣いているフロース様を前に何も出来ないまま、時間は過ぎていく。ひゅうひゅうと吹き荒れる風は、まるでこれが婦女子を泣かせた罰だと言わんばかりの突き刺さるように冷たい空気の流れだった。
それに加えて背後から背中がジリジリと焼けるような、鋭い殺気を感じていた。恐らくはフロース様の護衛の人達の圧力だろう。なんと恐ろしい家なのか。
「――ちょっとごめんなさい」
フロース様も奥の部屋へと行ってしまった。
しばらく経って戻ったフロース様は薔薇の花を持っておらず、こちらと目が合うなり走って抱きついて来た。
「!!」
「私も、あなたのことが好き」
その言葉に応えるかのように、フロース様の細い体を抱き締めた。
「――私、一年間で変わってしまったでしょう?」
フロース様が言うには、この一年間で肌は焼けてしまったし、体つきも太くなってしまったのだと。
そんな自虐的な言葉を聞いて、すぐにそんな事は無いと、はっきり伝えた。
今までは確かに肌は白かったが、その色は少し病的なほどの白さだったように思える。今は健康的な肌色となっていて、それでも他の女性に比べて白く見えた。体つきも同様に、痩せすぎた体型から、多少肉付きの良い体になっているだけだ。
一度、体を離してフロース様の姿をしっかりと瞳に映す。
フロース様は相変わらず美しくて、前よりも輝いているように見えた。
ずっとつまらない考えに囚われていたが、フロース様はどこに居ても、どんな事をしても輝いているのだ。
そして、一度離した体をもう一度引き寄せ、フロース様に口付けをした。
柔らかい唇に触れた刹那、フロース様の目から再び涙が流れる。その涙の意味を自分は理解できなかったが、その行為を途中で止めることは不可能に近かった。
どれだけ長い時間、二人で寄り添っていたのかは分からない。
しかし、夕刻を告げる鐘が鳴り響いて、我に返ることが出来た。
腕の中にあったぬくもりを優しく離す。このまま家に連れて帰りたかったが、そういう訳にもいかないだろう。アルゲオ様やフェーミナ様という公爵家の怖い方の顔を思い浮かべて、冷静さを取り戻した。
「ごめんなさい。私、今から用意することがあるの」
「――え?」
遠まわしにもう帰れ、と言っているのだろうか。これからどうしようか話そうかと思っていたのに、出端を挫かれてしまった。
「あ、ちょっと待って!!」
「?」
引止められて、何かと思ってしばらく待てば、手提げ籠の中に入った食事を渡された。どうやらフロース様の手作りの品らしい。
「それじゃあ、また」
「……はい」
こうして公爵家を追い出され、一人寂しく家路へと着く事となった。
まあ、両思いだと確認することも出来た訳で、大きな一歩を踏み締めた素晴らしい日の話であったから、不満を持ってはいけないと分かっているのに、なんだか物足りなさを感じてしまう駄目人間だった。
ーーこれからはゆっくりと距離を縮めて、お互いを理解していけばいい。
そんな風に考えて無理矢理納得をしていたが、予想もしていなかった事件は翌日に起こってしまう。
◇◇◇
朝、目覚めはすっきりとしたものだった。
昨日食べたフロース様お手製の夕食のお陰かもしれない。何だか精が付きそうな食材ばかり使われていたのは気のせいだろうか。…一人で元気になっても意味が無いから、気のせいかもしれない。
いつも通りに馬の世話を終え、朝食を摂った後、玄関の扉が叩かれた音がして、朝から一体誰だと首を傾げながら向かう。
「……」
「おはよう。昨日はよく眠れたかしら?」
戸口に立っているのはフロース様だ。もしかして、自分の妄想や願望が作り出した幻ではないかと、頬を触って確認するが、滑らかな肌さわりは偽者なんかではない。
動揺して勝手に触りまくる俺の手を避けもせずに、フロース様はされるがままになっていた。
「うっわ!!」
今更ながら驚きの声を上げ、フロース様から距離を取る。
「自分から触っておいて失礼な人ね」
「す、すみません」
「いいのよ。私、あなたになら何をされても構わないと思っているから」
「!?」
なんか凄いことを聞いた気がしたが、今はそれ所ではない。
フロース様は昨日贈った薔薇の花束と、小さな鞄を持って玄関口に立っていた。
「中に入れてくれる?」
「あ、はあ…」
状況も掴めぬまま、フロース様を居間に通し、椅子に座るように勧めた。
「あの、一体」
「私ね、今日からここであなたのお世話をしようと思って」
「え?」
「だってあなた、見ない間に痩せすぎていたから。だから、食事を作って、健康的な生活を送れるようなお手伝いをしに来たのよ。それにお掃除とか庭の手入れも出来るわ」
「……」
その言い方ではまるで使用人がするような仕事をしに来たみたいではないか。そんなことを許せる訳が無い。
「だ、駄目です。使用人の真似事なんて」
問題は色々とあった。
今日は寝台のシーツも変えたし、綺麗に畳んでいる。
が、その上に一冊の本を、また使うかもしれないと思って置きっぱなしにしていたのだ。
一人暮らしの男性の家ではそういった本を隠す必要性は無い。
お掃除中のフロース様にその本を見られたら、大変な事になる。
問題はそれだけでは無いが。
「……そう。やっぱり、いきなり押しかけて迷惑よね」
「!?」
「私、家に帰るわ。また今度…」
「いえいえいえ、違います!! ここに居てくれることは嬉しいです」
「本当?」
「え、ええ!! もちろん!!」
「じゃあ、ここにお手伝いとして住んでもいいの?」
「お手伝いとしては駄目です。ーー俺の奥さんとしてなら…」
「!!」
求婚はもっと言葉を考えてからしようと思っていたのに、どうして場所が俺の家で、格好も、ボタンを上まできちんと留めていないシャツに、騎士服のズボンという弛んだものになってしまったのか。
フロース様もさぞかしガッカリしただろうと顔を見てみれば、満面の微笑みを浮かべていた。
「ーーあ、あれ?」
「ラウルス!! 今の言葉を聞いたかしら?」
「勿論だとも!!」
「!?」
居間の扉を勢い良く開いて現れたのは、男装の変人ことラウルス・ランドマルクだった。
「お、お前、いつの間に」
「さあさあ、イグニスよ、ここにさっと名前を書いてくれ」
「はあ!?」
「早くしないと仕事に遅れてしまうよ?」
「……」
手渡されたのは婚姻届だ。フロース様の部分はきっちりと記入され、後は俺が署名をするばっかりになっている。
ラウルスの言う通り、出勤時間が迫っていたので、急いで名前を書き込んだ。
「――おめでとう、フロース!! これで君も今日から人妻だ!!」
「ありがとう、ラウルス、嬉しいわ!」
「……」
なんだろうか。この乗せられた感は。喜ぶ二人の端で、黙って騎士服の上着を着込んで、出勤の準備を進める。
「しかしフロースよ。生涯で一度だけの求婚がこんなあっさりとしたもので良かったのか? 君はお花畑で片膝を付きながら、とか星空の下で、とか甘美な求婚を望んでいるものと思っていたが」
「夢見るお姫様とはお別れしたのよ」
「そ、そうだったのか?」
「ええ。それに素敵なことは昨日沢山してもらったもの」
「イグニス、君も頑張ったんだな」
「……」
ラウルスにしみじみと肩を叩かれて、恥ずかしい気分になったが、必死にその気持ちを押し隠して、フロース様に見送られて出勤する事となった。
王宮への道を馬に跨ってラウルスと並びながら歩いていた。こいつにもお礼を言わなければならない。
「ラウルス…」
「ああ、そう言えば、君のお宝本は隠しておいたよ」
「は?」
「寝台の上のあった、君のいかがわしい本のことだ」
「!?」
話を聞けば、ラウルスは二階の窓から侵入をして来たという。ちょうどそこは寝室で、寝台の上にあった本を偶然見つけ、これからフロース様が住み込むことを予測していたので、本を隠してくれたのだと。
「誰にも分からないような場所に隠したから、使う時は言ってくれ。多分君にも場所は分からないだろうから」
「……」
よ、良かった。ラウルスのお陰で本は見つからなくて済みそうだ。
やはり、持つべきは心の友なのだろう。
◇◇◇
仕事場の休憩時間にラウルスから手渡された手紙を読む。
一通はアルゲオ様からで、娘のことを頼むという内容のものが丁寧に綴られていた。
もう一通はフェーミナ様から。
…なんと言いますか、お手紙というよりは、一冊の本と表現したほうがいい、厚みのあるものだった。
「!?」
中身には手紙の類などは一枚も入っておらず、公爵家の家紋が印刷された小切手が入っているだけだ。
しかも一枚一枚金額などは未記入で、当主であるレグルス様の署名が書かれた状態になっていた。
フェーミナ様は、なんと恐ろしいものを贈って来たのか。
自宅で保管をするのは怖かったので、パライバ殿下に事情を話して預かってもらう事にした。
それから目紛るしい一日は終わる。
今日の朝から起こったことは夢なのではないかと思っていたが、帰宅をして窓のカーテンの隙間から漏れる光を見た瞬間にこれは現実だと受け入れる事が出来た。
灯りが付いた家に帰るのは何年振りだろうか。
その素晴らしさを知る事を幸せに思った。
◇◇◇
――半年後。
朝、目が覚めると奥さんの姿は既に無い。寝ていた辺りを摩ってみたが、温もりすら残っていなかった。彼女は一体何時から起きているのだろうかといつも疑問に思う。
寝台から下りてすぐにある籠の中には着替えであるシャツとズボンが用意されていた。寝巻きを脱いで、シャツとズボンが入っていた籠に畳んで入れて、着替えを済ませる。
「ーーああ、もう!! どうして起きているの!?」
「……??」
突然部屋へとやって来た奥様に怒られる。どうやら俺を起こしたかったらしい。既に起きているのを確認してから、すぐに去って行ってしまった。オッサンを起こして何が楽しいのかは本当に不明だ。
そしていつもの日課であるお馬さんのお世話を終えて、洗面所で手を洗い、ついでに鏡の前で身支度も整える。
厨房と一緒になっている食卓へ行けば、朝食が用意されていた。
今日の品目は焼きたての丸いパンに、目玉焼きとしっかりと焦げ目のついたひき肉の腸詰め、豆とチーズのミルクスープ、サラダという理想的なものが並べられている。
朝なので、ゆっくりと味わう時間は無いが、しっかり噛み締めてありがたく頂いた。
その後は用意してくれた騎士服の上着に袖を通す。背後から着せてくれるという行為は、何度経験しても慣れない気恥ずかしいものだ。
ボタンを留めようとすれば、その手を払われ、奥さんが丁寧に一つ一つ留めてくれるのを黙って見下ろしている。これもまた酷く恥ずかしい。
皺一つないハンカチをポケットに入れられ、飾り紐を付けて貰って、準備は完了する。
そしてお昼に食べる為に用意された食事を受け取って、玄関へと向かった。
玄関の段差に座り、仕事用のブーツの紐を締めていると、肩に奥さんの手が添えられて、何事かと振り返る。
その瞬間に温かくて、柔らかいものが口の端に押し付けられた。
「ーー!?」
「…あら、あなたが突然振り返るから、失敗しちゃったじゃない。頬にしようと思っていたのに、場所がズレてしまったわ」
「……」
こんなことをされたら仕事に行きたくなくなるのに。…この、小悪魔め!!
「準備は出来た?」
「……はい」
「それじゃあ、頑張ってね、いってらっしゃい」
「いってきます」
奥さんの「いってらっしゃい」を聞いて、桃色になりそうになっていた脳内が、一気に引き締まったものとなる。
あの言葉は多分、夫を手っ取り早く仕事場へと向かわせる為の魔法の言葉なのだろう。
馬に跨って、いつものように王宮へと向かう。
フロースと結婚をして半年の間は本当に幸せに満ちたものだった。
料理はどれも美味しいし、休日は一緒に遠乗りに出掛けて、お買い物に行った後は庭弄りもしてくれる。それになんといっても可愛くって最高の奥様だ。
もしかしたら、こんな風に甘やかしてくれるもの今のうちかもしれない。子供が生まれたら、自分なんて放っておかれる筈だし、子供が大きくなったら、父親という存在は汚物扱いをされる運命だろう。
お世話をされて恥ずかしいだなんて今だけだ。今のうちにこの幸せを噛み締めておかねばならない。
そんな風に悪い方にと考えていたが、奥さんの愛を、この時の俺は欠片しか感じていなかった。
朝のお世話はこの先、騎士を辞めるまで何十年と続くし、子供が生まれてからも、彼女の愛は家族皆に均等で、幸せに満ちた結婚生活は続いていくことを、この時の自分は全然想像もしていなかったのである。
【不機嫌な姫君に捧げる薔薇の花】 完