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公爵家のお仕事を休ませてくれるかしら、とお祖母様にお願いをしていたのだけれど、孤児院への訪問は続けていたの。週に一度お祖母様から預かった要らない服を持って行って、子供達と一緒に布小物を作る時間は唯一の癒しにもなっていたわね。
来週は国王聖誕祭があるから、それに出す商品を作る為に毎日孤児院に通っていたわ。明日からはお店で売る焼き菓子を作る予定で、年に一度の大きなお祭りは一年で一番収入を得る事が出来るのですって。忙しい日々はまだまだ続くみたい。
ドミナに家事の合格を貰ってから、ラウルスは公爵家の仕事を手伝い始めたようね。彼女は夕食だけを摂る為だけにこの家に来るの。
でも、そろそろ私のお飯事に付き合わなくってもいいわ、と言っても首を振って大丈夫だからとこちらの提案を断られてしまったわ。
これ以上迷惑を掛けてしまうのは、申し訳がないからこちらも身の振り方を真面目に考えなくてはならないわね。
翌日、食料庫が空になっていたので、一週間振りにお買い物に出掛けたの。昨日雨が降って地面が泥濘んでいたから、馬では無く馬車で街まで行くことにしたわ。足場の悪い時には馬に乗らないほうがいいって、イグニスに言われていたのよ。
馬車が停まって降りるといつもとは違う、劇場の前だったの。御者はここが最終地点だと言うものだから理由を聞けば、六日後にある国王聖誕祭に合わせて道の整備をしているそうよ。だから馬車の乗り入れの規制があるのですって。
この場所から市場までは歩いて三十分ほど。大通りに出て時計搭のある方向を目指せば誰だって辿り着ける、という説明を御者から聞いたから、安心して歩き始めたの。
でもね、気が付けば住宅街に入り込んでいて、一時間ほど迷い歩いていたけれど、一向に目的の場所には辿り着けず。
景観を大切にしている王都は、家の壁や屋根の色を統一するように決められていて、そのせいで歩いても歩いても同じ家や道が続いているように感じて、気が狂いそうになったわ。
目印の時計塔には近付いているようで、だんだんと大きく見えるようになっていたけれど、迷路のような住宅街から脱出することは出来ないでいたのよ。
そんな中で、偶然見覚えのある家の前に行きついたの。
そこはレンガの塀に囲まれた、玄関の前に庭のある二階建ての家。私の胸元辺りまである塀から見えているのは半円の梁で、それには薔薇の蔓が巻きついていたわ。
――ここは、間違いなくイグニスの家。
まさか住宅街を彷徨っているうちに、イグニスの家に来てしまうなんて思いもしなかったわ。
塀の上から見えるのは、誠実な愛、イグニスが一年前に私に贈ってくれた薔薇の花。
前に貰った花は乾燥花にして、部屋に飾ってあるの。驚いた事に吊るして干した後もあまり色が褪せなかったのよね。そういう品種なのかしら?
塀の上から出ている蔓に蕾は付いていたけれど、開花はしていないみたいね。良くない事だと分かりつつも、咲いている花を一目見たくて塀の中にある薔薇を覗き込んでしまったの。でも、花は一つも綻んでいなかったわ。
ため息を付いて塀から離れると、小さな子供が不思議そうにこちらを見ていて、思わず声をあげそうになったわ。
「――!!」
「あ。兄ちゃん、今居ないよ?」
「え?」
「イグニス兄ちゃん、王子様の護衛でマーリッツって街に行っているんだ。帰るのは王様の聖誕祭が終わった次の日位だって」
「……そ、そうなの?」
この子はもしかして隣の家の子供かしら? イグニスの話の中に何度か出てきていたわね。名前は確かアセス、と言っていたような。
「薔薇の花、咲いていないでしょう?」
「え? ええ」
ああ、恥ずかしい。人様のお家を覗き見されているのを目撃されてしまうなんて。
それに振った相手が自宅を覗き見にしているなんて、イグニスからしてみれば軽く恐怖よね。この子に口止めをしなければならないわ。
「あとね、一週間位したら咲くって兄ちゃん言ってた」
「…そ、そう。咲いていなくて残念だわ」
家の薔薇の花が満開だったから、つい咲いていると思ったのよね。この薔薇はルティーナ原産の花ではないから、少しだけ開花時期が違うのかもしれないわ。
「お姉ちゃんは咲いている花を見たかったの?」
「ええ、そうね。…私、この薔薇の花が世界で一番好きなの」
「ええ!? 本当!? この花はね、兄ちゃんが枯れた状態から一生懸命お世話をして、やっーーと花を咲かせたものなんだよ。一年前は十個しか咲かなかったのに、今回はね、二十も蕾がついているんだ!! お姉ちゃんの好きっていう言葉を聞いたら兄ちゃん喜ぶよ!!」
「…そう、だといいわね」
イグニスは一年前、咲いた全ての花を私に持って来てくれたのね。暖かな帝国の花だから、世話も大変だったと思うわ。庭師でもお手上げだと言っていた花だもの。
「この薔薇は隣国ユーリドットの花で、本来なら暖かい地域でしか育たない花なのよ」
「へえ、そうなんだ。何ていう名前の薔薇なの?」
「…シンシア・アモル。誠実な愛という意味よ」
「ふ~ん」
名前も名乗らないまま喋り続けていると、お昼を知らせる時計搭からの鐘が聞こえてきたわ。
「あら、市場が終わってしまったわね」
「あ、引き止めてごめんなさい!!」
「いえ、いいのよ」
こうなれば商店街に行って食材を買うしかないわね。
…その前にどうにかして住宅街から脱出を図らなければ。ここは恥を忍んで、商店街までの道のりを聞かなければいけないわね。
「実はね、私、イグニスの家を訪問しに来た訳じゃあ無くって、お買い物をしに来たのよ。……そ、それで道を間違ってしまって、ここに辿り着いてしまったの。ーーよかったら、商店街までの道のりを教えてくれないかしら?」
「そうだったんだ~。だったら一緒に商店街に行く?」
「!?」
茶色い髪の少年、アセスは母親の言いつけで商店街に向かう所だったみたい。後ろに回していた手に握っていたのは買い物籠だったの。
お言葉に甘えて商店街まで連れて行って貰って、なんとかお買い物を無事に済ませる事が出来たわ。
◇◇◇
それから国王聖誕祭があるまでの間、目が回る程の忙しさというものを初めて体験をしたわ。
次から次へとお菓子の分量を量っては混ぜ、竈が空く暇も無い位に最大稼動でお菓子を焼いて、粗熱とれたものは紙袋に入れて、リボンで結ぶ、という作業をひたすら繰り返したの。
聖誕祭の期間限定で売るお菓子は、公爵家の料理長が考えたもので、毎年大人気なのですって。普段売り出さない分、客が殺到するらしいわ。
混乱の中で当日を迎え、孤児院の子供が熱を出して人手が足りなくなったからと、売り子をすることになったり、子供達と一緒に出店巡りをしたりと大変だったけれど、とても楽しい思い出になったわね。
でも、さすがに次の日は疲れちゃって、朝食はどうせ一人しか居ないし、紅茶とパンにジャムを塗っただけのもので済ませてしまったわ。
お昼までは毛糸で襟巻きを編んでいたの。ラウルスには青、お父様には赤、お祖母様には緑、お兄様には黒の毛糸を使って編んで贈ったわ。みんな喜んで受け取ってくれたのよ。
今編んでいるのは茶色い毛糸の襟巻き。ラウルスに誰のものかと聞かれて、イグニスに渡せたらいいと思っているの、と言えば色が爺臭過ぎると駄目出しをされてしまったわ。
…とっても似合うと思っているのだけれど。
襟巻きはその後完成をして、昼食を摂った後にラウルスがやって来たわ。改まって何の用事かと問いかければ、もごもごと口籠もるだけで、一向に話そうとしないのよ。
痺れを切らした私は丁度いいと思って、以前から考えていた計画をラウルスに話したわ。
「先に話してもいいかしら?」
「え? ああ、すまない。先にどうぞ」
ラウルスは喉が渇いていたのか、冷え切ってしまった紅茶を一気に飲み干して、真面目な顔でこちらの話を聞こうとしていたわ。
「私ね、街に部屋を借りて一人暮らしをしようと思って」
「な、なんだって!? どうして、一体、どうしたというのか!?」
「別にどうもしないわよ。このままここに居ても迷惑が掛かると思ったからよ」
「む、無理に決まっている!! ーーた、例えばだ、淡水の魚が海水に飛び込んだらどうなると思う?」
「死ぬわ」
「そうだ!! 君が街で暮らすというのはそういう行為と同じだ!!」
「まあ、大げさね」
「…イグニスの所に行くんじゃなかったのか?」
「ええ、前までそう思っていたのだけれど、私、お祖母様に言われたことをすっかり忘れていたの」
「??」
――男の人は追いかけたり、追い詰めたりしてはいけない。
一年前はそれをしたお陰で大失敗をしてしまったのよね。同じ間違いは二度も三度もしてはいけないのよ。今まで忘れていたのは幸いな事かしら。だって庶民生活は何か目標がないとやっていけなかったもの。
「イグニスへの愛が醒めてしまったのか?」
「そんなことないわ」
「なら、どうして!!」
「だってもうあれから一年以上経っているし、イグニスが同じ気持ちでいるとは思えないの」
「そんなことは」
「ラウルス、男の人って愛を沢山持っているのよ。前にお祖母様が言っていたわ」
「そ、それはそういう男が多いという話だ! イグニスは違う! 親友である私が言うのだから間違いは無い!」
「……」
私がイグニスと過ごしたのは一年にも満たない短い期間だったわ。それから一年経っているということは、新しい恋がイグニスに訪れていてもおかしくないと思っているの。
それに家に押しかけて、知らない女性が居たりしたら最悪な気分になるわ。
「――もしも、イグニスに想う人が居なくても、私が押しかけて彼の人生を勝手に決めてしまうのは気が引けるのよ」
あの人は優しいから、私がイグニスの為だけに家事を覚えたと言って迫れば、断ることはしないと思っているの。
「君たちは両思いだ、好き合っているのに、どうして…」
「協力をしてくれたのに、ごめんなさい」
「イグニスのことは諦めるのか? 公爵家を出て行って、新しい王子様を見つけると言うのか?」
「いいえ。生涯の中で愛するのは、イグニス一人だけ。その想いだけは自信があるの」
「ならばどうして!!」
「――そうね、私が今のお祖母様位になって、イグニスが一人ぼっちになっていたら押しかけようかしら?」
「!?」
それまでにやりたいことは沢山あるのよ。
とりあえず平民になれば孤児院に寄付が出来るようになるの。そうなったらお菓子を作って持って行ったり、花の種を持って行って育てる事も出来るわ。あの場所は私を拒むことは無いから、一人暮らしでも寂しく過ごすことも無いと思っているの。
他にも洋服作りに挑戦してみたり、カーテンなどの大きな布に刺繍するのも楽しいかもしれないわね。
そんな風に趣味の世界に没頭をする為には、お仕事と住む部屋を見つけなければならないのよ。
「今、何件か目ぼしい物件があって」
「!!」
「今度見に行こうと思っているわ」
「あ、ああッ!! そ、そうだ!! フロースッ!! そういえば、私は君が住むに相応しい、いい物件を知っていることをすっかり忘れていた!!」
「え?」
「今からそこの家主さんに会いに行ってくるよ」
「そうなの? だったら私も行くわ」
「い、いや。フロースは駄目だ!!」
「どうして?」
「……」
「私が住む家なのだから、一度は見てみたいわ」
「その、なんだ、フ、フロースみたいな超絶美人がいきなり来たら、家主さんがびっくりしてしまうから、最初は私一人で行ってくるよ」
「――そうかしら?」
「絶対、絶対そうに決まっている!!」
「…分かったわ」
「う、うむ。では、行ってくる!! あ、今日はお買い物には行かないのか?」
「ええ。あるもので済まそうと思っているの」
「そうか、良かった」
「?」
ラウルスは慌てた様子で、上着を着込んでいるけれど、何をそんなに急いでいるのかしらね。
「あ、ラウルス、夕食は何か食べたいものはあるかしら?」
「へ? ……あ、ああ。そうだな、とりあえず魚と、それから何か精の付くものを」
「あなた、それ以上元気になってどうするのよ」
「…これでも元気が無いのだ。頼んだぞ」
「出来るだけ早く帰って来てね」
「……はい」
ラウルスを見送った後、今日はパンを焼く日だったので、すぐに料理に取り掛かったわ。
希望の魚料理は、オイル漬けにしていた白身魚があったから、それに香辛料を振って炒めるだけの簡単な料理を作って、焼きたてのパンに玉菜と薄く切った白葱と一緒に挟んで、一品目は完成。
それにしても精の付く料理って何かしら? そういえばラウルスに貰った本に書いていあった気がするわ。
寝室から持ってきた【選良奥様】の該当頁を開いて読んでみたけれど、なんていうのかしら。これは女性が食べる為に書かれた料理の方法では無いことは確かね。多分不妊とかで悩む奥様が読んで参考にする記述だと思うわ。
でも、普通に料理としても美味しそうだし、食材も家にあったから作ってみることにしたのよ。
追加で作ったのは、山芋を燻製肉で巻いて炒めたものに、擦った葱蓐を生肉に揉み込んで焼き、ミルクとチーズ、香辛料で作ったソースを掛けた料理の二品が完成をしたわ。
ラウルスが出掛けてから一時間は経っているかしら? 夕食も作ってしまったし、暇だから余った毛糸で手袋でも作ってみようかしらね。
でも、あの人が外に出掛ける時はいつも革の手袋しかしていないから、毛糸の品を贈っても使わないかもしれないわね。
渡す予定も無いのに、使ってくれる様子を想像しながらあれこれ作るのは、馬鹿みたいだけれど、不思議と楽しい気分になるの。
こんな風に過ごすのは、周囲から見れば寂しい人生かもしれないけれど、結婚が全ての幸せとは限らないし、私は同じ失敗を何度も繰り返したくもないのよ。
それに公爵家に依存して生きるよりも、新しいことに挑戦をして、何かを得る為に努力をすることを選ぶわ。
お祖母様も言っていたもの。
幸運の訪れは運によるものだから、焦らないで自然に時機が来るのを待つものだって。
――だから、果報は寝て待とうと思っているの。