44
今日の朝食はバターと香辛料でキノコを炒めて半熟の卵の中に包んだものと、厚切りにした四角いパンに糖蜜を塗って焼いたもの、ミルクたっぷりの紅茶を用意したわ。
一人前の料理として形を成しているのは、料理指導をしてくれる人のお陰ね。
「フロースちゃん上手になったわね」
「ありがとう、ドミナ」
彼女の名前はドミナ・オリエンス。
ラウルスの知り合いを連れて来ると言っていたけれど、私の知り合いでもあったのよね。
お父様と一緒に北の僻地から来たという指導人を見て、本当に驚いたわ。彼女、ドミナはランドマルク領でラウルスに仕えていた使用人だったの。
私たちが十年間居住していたランドマルク城で働いている人達は、執事に従僕、料理長に侍女とメイド、庭師の全員で六人。最低限の使用人しか居ないのに、大丈夫なの? と聞いたら、夫婦共々お父様に追い出されたって言うのよ。
何かあったの? と聞いたら新しい使用人を大量に採用したのですって。なんでも昔からランドマルク家に仕えているオリエンス夫婦が居ると、次代の領主であるラウルスの妹、ユーリアが辛い事があれば甘えるからだと説明していたわ。
お父様ったら怖いのは見た目だけにしておけばいいのに、考えていることも怖いから、本当に困った人よね。
ドミナとその旦那様のディエースは一年間公爵家に滞在をするらしいわ。ドミナは私に庶民の知恵を教え、ディエースは今まで通り庭師をするみたい。
ラウルスはドミナのことを選良奥様だと紹介したわ。しかもその奥様の中でも優秀な兼業主婦なのですって。
兼業主婦とは朝と夜は家事をして、昼間は家計を助ける為に働く女性のことを言うみたいね。
ドミナとはずっと一緒の場所で過ごして来たけれど、家に帰ってからの生活のことなんて、全然考えていなかったわ。でも、そうよね。家族の為に食事を作ったり、洗濯をするのは平民の家では母親の仕事だもの。使用人の居ない家では当たり前のことなのよね。
ドミナが来てから簡単な料理から教わったのだけれど、上手く出来るとなかなか楽しいし、食べてもらって美味しいって言ってくれたらとっても嬉しいことが分かったわ。
頑張って料理を覚えて、さらに上手になったらイグニスに食事を作ってあげて、美味しいって褒めてもらったら……。
…だ、駄目駄目、またこんなことばかり考えていたら、ラウルスにお花畑に居るって思われるから。しっかり、しっかりしないと!!
でも、こんな料理を作って食べてもらうという喜びも、お嬢様をしている時には知らなかった感情だったから、新鮮で素敵なものだわって思っているの。
「さあ、フロースちゃん! 今日は何を作ろうかしら? 結構色々作れるようになったし、そろそろ夕食に出せるような料理でも作ってみましょうか」
「本当? 何を作ろうかしらね」
「じゃあフロースちゃんの好きな人の好物でも作りましょうか」
「そうね! だったら魚料理を教えてくれるかしら」
「分かったわ。まずはお買い物からね」
「それじゃあ今から市場に行って来るわ」
作る物も決まったし、私は三日ぶりとなる市場へ向かったの。
でもね、魚屋の前まで来て、大変なことに気が付いたわ。
「いらっしゃい! 何にしますか」
「え、ええ、そうね…」
ーー店で売っているお魚ってこんなにも種類があるの!?
細かく砕いた氷の上に並べられた魚はざっとみて三十種類以上はあったわ。一体どれを買っていいものか分からなかったのよ。
食堂で食べた魚は白身が多かったわね。でも見た目だけではどれが白身のお魚かなんて分からないじゃない? 皆どうやって見分けて買っているのかしらね。
お魚の身って確か白身に赤身、青身の三種類だったかしら? そもそもイグニスはどのお魚が一番好んでいるのかも分からないわ。
「奥さん、何にいたしましょうか?」
「え?」
傍から見たら奥様に見えるのかしら!? 前までお嬢さんとか言われていたのに!
ちょっとは主婦らしい見た目になったという事なのかしら? だったら嬉しいのだけれど。…でも、疲れて老け込んで見えるとかだったら微妙よね。
「そこのお魚を頂けるかしら」
「毎度! 四レアだよ」
「!?」
え!? や、やだ、高い。このお魚そんなに高価なの!? …嫌だわ、一食につき一レアを目標にしているのに、大幅に予算の限度を超えているじゃない!
「はい…」
「ありがとうね、奥さん」
「……」
まさか市場にこんなお高い魚が売っているなんて思いもしなかったわ。値段を付けていない時点でおかしいと気が付くべきだったのよね。
後で聞いたら値札の付いていない商品は時価と呼ばれるもので、仕入れる時期や入荷量によってお値段が変わるから、あえて付けていないのですって。今回買った魚は高級魚で、今の時季に入ってくるのは珍しい商品だったから、特別高く値段が付けられていたとドミナは教えてくれたわ。
◇◇◇
「――フロース、また大きな魚を釣って来たな」
「市場で買って来たのよ!!」
「ど、どうして不機嫌なのだ?」
「……」
「間違って高い魚を買って来てしまったのですって」
「高いって幾らのものを?」
「…四レアよ」
「へ?」
「なによ!!」
「いや、高いっていうから、金貨一枚とかだと」
「何を言っているの!? そんな高価な食材を買う訳ないでしょう!!」
このような主張をする私を見て、ラウルスは素晴らしい庶民感覚だと褒めてくれたわ。
長い間貧相な食生活を乗り越えて、少ないお金のやりくりを自分で行っていると、ついつい節約に走ってしまう癖が付いていたのよ。
ドミナもね、私には庶民生活の才能があると言ってくれたわ。
今まで飲んでいた紅茶などが買えなくなり、飲めなくなってしまったのは残念に思うけれど、もともと食に関しては深い拘りがある訳ではなかったから、何とか順応することが出来たのよね。
まあ、痩せ我慢をしている場面もあるけれど、浪費を抑えた生活というものはそんなに酷いものでは無いと思っているわ。
全てはイグニスと一緒に暮らす為。そう思ったら、何でも受け入れることが出来たの。
「じゃあ、とりあえず三枚に下ろして、半身は香辛料を振って焼いて、もう一枚は煮付けにしましょうか」
「分かったわ」
「骨は魚介スープにも使えるけれど、今日はさっき言った二品だけにするわね」
「お魚は捨てる所が無いのね」
「まあ、種類にもよるけれど。――さあ、三枚に下ろすわよ! フロースちゃん、お魚捌くのは初めて?」
「ええ」
「じゃあ、この大きさの魚は丁度良かったのかもしれないわね。小さな魚を捌くのは大変なのよ」
調理台の上に乗った魚は血走った目でこちらを見ているような気がして、つい逸らしてしまったわ。
そういえば、肉屋の前にも籠の中に入った鳥が沢山積んであったけれど、あれも自分で捌かなければならないのかしら?
お魚はなんとか頑張れそうだけれど、鳥は絶対無理!
その事をドミナに聞いたら、肉屋の鳥は購入したらその場で店員が捌いてくれるのですって。…それもなんだか、と思ってしまう私は、庶民力と食材に対する理解が足りないということになるわ。魚もお肉もみんな同じ命。魚は大丈夫だけど鳥は可哀想なんて考えは甘いのかもしれないわね。
「それで、捌き方だけどね、最初は鱗を取る作業から始めるわ」
鱗取りは専用の調理器具があるのだけれど、この家には無いから包丁で取るみたい。
「板の上で取ると周囲に飛び散って掃除が大変だから、桶に水を張ってその中で取るのよ」
大きな桶の中に水を入れて、鱗取りをした後は、再び調理台の板の上に戻して、魚の身に包丁を入れる作業に移ることが出来たわ。ちなみに余った根菜類のヘタに近い身の部分があれば、それも鱗取りに使えるみたいね。本当に取れるのか想像出来ないけれど。鱗が野菜に刺さって、水に入れなくっても飛び散らないそうよ。
「まずは頭を切り落として貰いましょうか」
「え、ええ」
包丁を握ってみたけれど、こんな大きな魚、本当に私の力だけで切れるのかしら?
一応片手では無理だと思ったので、両手で持って、包丁を振り上げたのだけれど。
「ぎゃあ!! ち、ちょっと待って、待って!! フロースちゃんーー!!」
「うわああああ!! フロース、止まれ、止まるんだ!!」
「ーーえ?」
両手で持った包丁を振り上げたまま、固まった私をドミナとラウルスは驚きに表情で見ていたの。何か間違ったのかしら?
「そ、そのまま、包丁を下ろしてくれる?」
「え? ええ…」
「……」
「?」
「えっとね、お魚は、片手で魚を押さえてから切るの。振り上げてから勢い良く切るのではなくって、胸ヒレの後ろらへんに包丁の刃を入れて、押して引くようにして切るのよ」
「…そ、そうだったのね」
てっきり勢い良く振り下ろして切り落とすものだと思い込んでいたわ。
それから時間をかけて三枚に下ろす作業をしたのだけれど、凄い手が掛かる事が分かったわね。
多分何回か練習をすれば出来るようになるのかしらね?
でも生のお魚ってヌルヌルしていて気持ちが悪いし、生臭くって処理が大変だわ。
その事を思えばお肉料理の方が簡単だけれど、お魚とお野菜、お肉など均等良く摂らないと栄養が偏ってしまうのですって。
お料理って本当に奥が深いのね。