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今まで二十五年と生きてきて、王子様はその場で待っていても迎えには来てくれないと気付いたのよね。
お祖母様に努力はしたの? って問われて初めて我に返ることが出来たわ。
「フ、フロース、君は、その、立ち直ったのかい?」
「ええ。もう大丈夫」
「そうか…驚いた。ーー実を言えば、君をどう励まそうか悩んでいた所だったんだ」
捨てられた小犬のような顔をしていたのはそういう理由があったのね。
「先ほどまでイグニスの所に行っていたんだよ。君との関係について説得をしようとしたんだが、何の策も無しに行って、私の言い分を論破された上に追い返されてしまってね」
「……そうだったの」
「だからフロースの所にはきちんと考えが纏まってから行こうかと思っていたんだ」
「……」
お祖母様の言ったイグニスはきっと私のことが好き、というのはやっぱり間違っていたのかしら?
だったら【新婚さんごっこ】なんてする意味がないわ。
「ラウルス、あの、やっぱり、私…」
「もしかしたら、君のしたい事と、私がフロースに助言しようとしていた事は一緒かもしれない」
「…助言?」
「ああ。君の言う【新婚さんごっこ】とは庶民の奥方になる為に色々と学ぶことではないかな?」
「…ど、どうして分かったの?」
「イグニスが言っていた君を受け入れられない理由が価値観の違いだったからだ」
「……」
そう、ラウルスの言う通り、私がしたい【新婚さんごっこ】とは庶民の生活習慣や、家事などを覚えて実践をする、というものだったの。
イグニスは私に「住む世界が違う」と言って好意を受け取ってくれなかった。でも、逆に考えれば、私がイグニスの世界に行けばいい話だと気が付いたのよ。
白馬の王子様はやって来ない。だったら自分から王子様の居る場所へと行けば解決する問題だと思ったわ。
「私を断った理由は価値観の違いだけ?」
「そうだ。イグニスも君を愛しているが価値観の壁だけはどうにも出来ないと言っていたよ。それで私はフロースが庶民の知恵と家事全般を身に付ければ、二人の間に障害は無くなると考え付いたのだよ」
「ラウルス、付き合ってくれるの?」
「勿論だとも!」
「本当? 嬉しい…」
伯爵家出身のラウルスにだって生まれながらの庶民の知恵は無い。でも料理とかは味見をして貰う人が必要だし、成果を見る人がいないと自己満足の世界になってしまうかもしれないから、悪いと思いつつもお手伝いを頼んだのよ。
「そうだ、君にこれを」
「何、それ?」
手渡されたのは一冊の本。辞書みたいにぶ厚い本で、表紙には【選良奥様】と書かれていたわ。
「それは庶民の奥方の聖書とも言われている本らしい。新妻達に売れに売れまくっているとか」
「ふうん…」
本の中身をパラパラと捲ってみれば、料理の作り方や掃除の方法、生活習慣なども書かれていたけれど、とある絵付きで解説をされた頁を開いてしまって思わず悲鳴をあげそうになったの。
「…? フロース、どうかしたのか?」
「いいえ、何も!!」
【選良奥様】を勢い良く閉じて脇に挟み、自室で話し合うように提案したわ。
ちなみに驚いた頁とは子供の作り方についての記述。そういった教育は、少女時代に家庭教師から習っていたけれど、こんな直接的な絵柄は無かったし、一ヶ月前もお祖母様に聞いたけれど、相手にお任せをしていれば問題ないわ、と言っていたものだから、簡単に出来るものと軽く考えていたのよね。
まあ、でもその点についても大丈夫だと思うわ。だってイグニスには何をされても構わない、って思っているもの。
それから部屋でラウルスと話したのは、どうやって庶民の知恵を身に付けるか、ということ。人材についてはラウルスが手配をしてくれたみたい。公爵家の屋敷の中で働いている使用人は皆貴族の出身者ばかりなので、王都に庶民の知り合いは居ないし、どうしようかと悩んでいたのよね。
それから、住む場所については、屋敷の裏に何代か前のご当主さまが愛人を囲う為に立てた家があるので、そこで始めたらどうだろうかという提案を、二つ返事で受け入れたわ。
「主婦が一日にすることは知っているかい?」
「…それは、お掃除でしょ、料理、洗濯、位かしら?」
「大切なものが抜けているよ」
「?」
「お買い物だ」
「!!」
そうだったわね。主婦は市場や商店街へと行って買い物に行かないと、料理が出来ないじゃない。すっかり失念をしていたわ。
前にイグニスと朝市に行った時も、大荷物を抱えた女性がいたけれど、彼女達も主婦だったのかしらね。
「まず始めにお金を預ける金融取引場に行って、お金を預け、両替をしよう。それから商店街で服や生活に必要な品を集めようか。そして明日、フロースには、一人で買い物に行って貰おうと思っている」
「ええ、分かったわ」
「…怖くないのかい?」
「朝市には行ったこともあるし、大丈夫だとは思うけれど」
「それはどうだろうか? 君はまだ市場の本当の恐ろしさを知らないのかもしれない」
「そうかしら?」
そしてラウルスから手渡されたのは一冊の帳面で、家計簿というものらしいわ。なんでも一家の収入と支出を記録する帳簿なのですって。
それから帳簿の上に乗っていたのは小さな皮袋で、中には四枚の金貨と八枚の銀貨。
「そのお金は一ヶ月の生活費だ。フロースにはこれを一ヶ月間やりくりして暮らしてもらう」
「どうして金貨四枚と銀貨八枚なの?」
「それは私が騎士団の遠征部隊に所属をしていた時の給料だよ」
騎士団は基本的に年齢と能力で給料が決められる仕組みで、その中でも遠征部隊は危険手当が付くから、騎士の中では沢山貰える方だとラウルスは言っていたわ。
「イグニスはまだもう少し貰っているとは思うが、家の借り付け返済費にも充てなければならないので、自由に使えるお金は、金貨四枚と銀貨八枚位が妥当だろうね」
「そうなのね」
「ああ。この金額ではフロースの使っていた化粧品の一つも買えないが…」
「そうね」
「……」
「…前にね、自分の使っていた支出を見せてもらったことがあるのだけれど、半月も掛からないで、金貨七十枚以上は使っていたわね。それを考えると随分心許ない感じがするわ」
「ーーでも、これから頑張って節約を覚えて、イグニスの家に押しかけ女房をするのだろう?」
「そうよ! 家事が出来るようになって、立派な庶民になるわ!」
「頑張ろう、一緒に」
「ええ。迷惑をかけると思うけれど、よろしくね」
「気にしないでくれ。私は君の力になりたいんだ」
「ラウルス…ありがとう」
こうして私とラウルスの真剣な新婚さんごっこが始まったわ。
◇◇◇
公爵家では一日に四回、街との間を辻馬車が行き来しているの。一回の乗車で銅貨二枚。私とラウルスはとある場所へと行くために揃って乗ったわ。小さなお金は持っていないから、行きのお金はラウルスに借りたの。
行き先は街の中央にある金融取引場で、お金を預けたり、お金を両替したりする場所なのですって。
「市場で買い物をする時は細かいお金を持っていくんだ。金貨はおつりが無いから絶対お断りされるな。銀貨ですら断る店もある。だから五レア紙幣以下の金額まで崩してから行くといい」
「…そうね」
イグニスはラウルスに市場で金貨の三倍の価値があるものを出した話をしていなかったようね。別にラウルス相手なら言っても構わなかったのに。
とりあえず新しく口座を作って、金貨四枚と銀貨七枚を預け、銀貨は五レア紙幣二枚に両替をしてもらったわ。
その後は庶民の奥方御用達の服屋で数着のブラウスとワンピース、エプロンと寝巻きを購入し、化粧品も買ったの。他にも生活必需品をラウルスが選ぶがままに購入をして、屋敷へ向かう辻馬車に乗って帰ったわ。
元愛人邸宅は毎日使用人が手入れをしていたみたいで、すぐに住める状態になっていたの。中に入ればすぐに居間と厨房があり、他には寝室と風呂場があるだけの質素な造りになっていたわ。でも庶民の家はほとんどがこのような感じなのですって。
ラウルスは屋敷の厨房から貰ってきた火を暖炉に方っていたわ。そして何か赤い石のようなものを投げ入れていたけれど、あれは何かしら?
「これはお風呂に放り込む魔石だ。これで湯を温めて風呂を沸かすのだよ」
「そうなのね。初めて見たわ」
確か屋敷にある浴槽は全て魔技工品だったわね。
魔技工品とは、わざわざ魔石を用意しなくても、浴槽に刻まれた呪文をなぞるだけで、大気に漂う魔力を使って、瞬時に湯が暖まるというものなの。ランドマルク領に居る時も、自分の部屋の近くにあったお風呂は魔技工品だったから、こういう物の存在は知らなかったのよね。
それから買って来たお風呂の道具を持って入ったのだけれど、安い洗髪剤は髪の毛がキシキシと悲鳴をあげているような仕上がりになったし、体を洗う海綿は体を擦っただけで赤くなってしまったのよ。こんな品々が、あたりまえに使っている物だと知って驚いたわ。
「お風呂は如何だったかな、フロース?」
「とっても最高だったわ…」
「それは良かった!」
「……」
大丈夫よ、これ位。何日か経って慣れたら普通になるわ。
買って来た化粧水はベタベタしているだけの不快な液体に思えたし、銅貨五枚で買った寝巻きはゴワゴワしていて着心地が最悪だったけれど、我慢出来ると思っているのよ?
だってイグニスと一緒に暮らす為だもの。
絶対に裕福な暮らしに慣れた自分に負けないんだから!!
……そう、力強く誓ったけれど、選良庶民の道のりは遠く、険しかったのよね。
◇お金について◇
アルレア金貨・・・三十万円
金貨・・・十万円
銀貨・・・一万円
五レア紙幣・・・五千円
一レア紙幣・・・千円
銅貨・・・百円
鉄貨・・・十円