35 【挿話】対岸の火事
フェーミナ(フロース祖母)視点の話になります。
フロースが帰ってきてからというもの、お仕事を全て取られてしまったからすっかり暇を持て余すようになっちゃったのよね。病気もそこまで重い症状では無いから、今まで通りの生活も出来ているし、一日が長いったらないわ。
今日なんかもする事がないから、居間で休んでいた息子に意地悪を言ったりして時間を潰していたの。
でも五十にもなる息子を苛めても面白くもなんともないのよね。誰に似たのか、何を言っても陰気な顔をして反応に乏しいし、こんな生き物と長い時間顔を付き合わせていたら、こちらまで暗い気分になるんだから。
もう飽きたからフロースの居る執務室でも覗いて来ようかしら?と思っていたら、居間の扉が開いたの。
出入り口で呆然としていたのは、フロースと騎士隊の制服を纏った青年だったわ。
さっき執事が追加でお菓子やお茶を持ってきていたから何事かと不思議に思っていたのよね。その時の私は息子との楽しいお喋りしている最中だったから、あまり気にしていなかったのだけれど。
多分フロースは一緒に居る騎士と二人っきりでお茶を飲もうと来たのね。私やアルゲオが居ることは想定外だったのかしら?フロースのあんなに驚いた顔、初めて見たわ。
連れて来る場所を間違ったと引けば良かったのに、フロースはそのまま騎士の青年を部屋に招きいれて私たちに紹介し始めたの。
「お祖母様、こちらの方はパライバの親衛隊の隊長で、イグニス・パルウァエ卿というわ」
まさかフロースから男性を紹介される日が来るなんて思いもしなかったわね。客間ではなく、ここに連れて来たという事は、特別な人だと言っているようなものになるのだけれど、この子はそれに気付いているのかしら?
それにイグニス・パルウァエ、と言ったかしら、この子は貴族の生まれでは無いわね。雰囲気が貴族出身のお坊ちゃまとは違うもの。どこが?と聞かれたら、返答に困るけれど。
それでも敢えて例えるならば、そうね…貴族の子息はきちんと躾けられた犬で、イグニス・パルウァエは野山で育った狼、といった感じかしら。ぱっと見の印象だから詳しく説明をしてと言われても、難しいと思うの。
それにしても、フロースはどうしてこう、貴族出身の普通の人を見つけて来なかったの?と小一時間ほど問い詰めたいわ。
問題のイグニス・パルウァエの姿なんだけど、髪色は赤くて軽薄そうに見えるし、背だってラウルスより小さいじゃない。
そういえば、フロースの様子が最近変なのは、もしかして彼の影響なのかしら!?
だとしたら許さないわ。孫娘は何の苦労を知らせないように、大切に育てて来たのに。その娘に泥の付いた手で触ろうとしているなんて、絶対に阻止をしなければならないわ。
ーーだから、ちょっとだけなら意地悪を言っても罰は当たらないわよね?
涼しい顔で席に着くイグニス・パルウァエの横顔を見ながらそう思っていたの。
まず彼から聞き出したのは、出身について。
パルウァエ、という家名は初めて聞いたので貴族では無いことは確かね。出身の村の名前はサンテラですって。記憶が正しければ、南方にあるアトワイト伯爵領の僻地にある、山に囲まれた小さな農村だった筈。
随分とまあ、遥か遠くに位置する田舎からやって来たものね。
でも、遊ぶ相手は選んで欲しいわ。公爵家の娘に唾を付けるなんて馬鹿なのかしら?それとも狙いは財産や家名なの?
野心のある騎士がいい所の貴族の令嬢を誑かして、家名を手に入れる、というお話は珍しくとも何ともないけれど、それをフロース相手にすることは許さないんだから。
それから根掘り葉掘り聞いて分かった事と言えば、イグニス・パルウァエが意外にも真面目な好青年だったということ。
この子、見た目で大分損をしているわね。まあ、ラウルスの昔からのお友達、という位だからある程度悪い子ではないのでしょうね、という先入観はあったのだけれど。…本当よ?
でもね、借金はあるし、休日は遠乗りと庭弄りをするだけだし、田舎者だし、フロースに釣り合う要素は何一つ無かったわ。
あの子もイグニス・パルウァエの抜きん出た庶民力を知って目が覚めたんじゃないかしら?と視線を孫娘に移したら、何とまあ、フロースはイグニス・パルウァエの顔を不安そうに見上げているではないですか!
なあに?私が失礼なことを聞いたから、イグニス・パルウァエが気を悪くしていないか、心配でもしているの!?そんな馬鹿なことがあるの!?ねえ、フロース、私の話を聞いていて!?
…はあ、呆れたわ。今まで私がした質問とその回答を聞いてフロースは何とも思わなかったのかしら?
イグニス・パルウァエという選良庶民を前に、先ほどの残念な休日の過ごし方や出身を聞いて、期待していた人物像と違ったわってならなかったの?
…ならなかったみたいね。
フロース、あなたは本当に困った子ね。
ラウルスの事をやっと諦めたって喜んでいたら、すぐに次の王子様を見つけ出してくるのだもの。
多分だけど、フロースの頭の中はお花畑が広がっているんだわ。そこで花冠でも作りながら、「早く白馬に乗った王子様が迎えに来ないかしら?」って鼻歌交じりに来る筈も無いお迎えを待っているのよ。
でもね、イグニス・パルウァエはあなたの王子様では無いのよ?お話していていい人だとは思うけれど、住む世界がまるで違うわ。
フロース…あなたは籠の中で大切に育った小鳥で、イグニス・パルウァエは森で育った狼なのよ?
籠の中から一歩外に出た小鳥は空の飛び方を知っているのかしら?餌の取り方すら知らない小鳥が、生きて来た世界が違う生き物を愛しても上手くいかないことなんて想像に容易いの。解っていて?
私にはあなたがあの騎士を感情のままに追いかけて、価値観という壁に隔たれ、傷ついて涙する姿が見えているの。その時にはあなたの美しいお花畑も荒れ果てて、もう元には戻らないのでしょうね。
そんなことを考えながらも、フロースに諦めさせる為に下らない質問をイグニス・パルウァエに繰り返し聞いていたわ。
「あなたは貴族という存在が必要だと思う? 特権階級なんて平民からみたら必要ないと思うのかしら?」
今まで平民である彼を馬鹿にするような問いかけばかりしていたから、こんな質問をすれば私たちの存在する意味なんて否定されてしまうわよね、と思っていたの。でもね、
「必要だと思います。お金をかけて教養を身に付けた貴族が存在するからこそ、この国が成り立っているからです。ルティーナ大国はまだ均等な教育が行き届いていない。故に貴族社会が崩壊してしまえば、国の上層部も崩れてしまうでしょう」
「…そう」
想像以上にまともな答えが返って来て驚いたわ。それに真っ直ぐにこちらを見据えた茶色い瞳は悪いものではないわね。
フロースは彼のこういう所が堪らないのかしら?若い娘のときめく所なんて恋とは無縁の老婆には理解できないけれど。
イグニス・パルウァエ。
彼はフロースを守ってくれる白馬に乗った王子様なのかしら?
それとも都合のいい言葉ばかり囁いて誑かす悪魔なのかしら?
まだこの二人の中では何も始まっていないことなど分かってはいるけれど、フロースが自覚をする前に潰すべきなのか、それとも僅かな可能性に賭けて見守るべきなのか、今の段階では判断が難しいわね。
そう思っていたのだけれど、不思議なことにイグニス・パルウァエとお話をしているうちに、だんだんと彼に賭けてみたくなったのよ。どうしてかしらね。
それからイグニス・パルウァエは、三十分位でお暇します、と帰ってしまったの。
出来ればもっと積極的に苛めて、隠れた本性を暴きたかったのに、残念だったわ。
フロースは何だか落ち込んでいたけれど、何かを思い出したかのように、部屋から出て行ってしまったわ。どうせあの子の後でも追いかけて謝罪でもするのでしょうね。
「母上」
「なあに?」
「あまり首を突っ込まないでくれますか?」
「…何が、何に?」
「フロースのことです」
まあ、アルゲオったらフロースの恋は賛成派な訳?駄目な子ね。八割方上手くいかないに決まっているじゃない。この私に釘なんか刺してくれて。本当にありがたいったらないわ。
「あなたはあの騎士とフロースのお付き合いに賛成なのかしら?」
「賛成とか反対とか以前に、大人ですから任せても問題ないでしょう」
「大人!? あなたフロースがきちんとした大人の女性に見えるの!?」
「それは……。しかしあの騎士は色々と弁えを知っているようにも見えました。彼に任せてはどうですか?」
「まあ、それもそうね」
「……」
アルゲオの言う通り、見た目と違ってしっかりとした若者には見えたわ。
でも、フロースを幸せに出来るかという話とはまた別なのよね。気が遠くなる程に難しい問題だわ。
「――アルゲオ、残念な事に狼は人里では飼い慣らせないのよ?」
「はあ?」
…本当にこの子はつまらないわね。言葉遊びも出来ないなんて。
アルゲオが居なくなった部屋の中で、執事から受け取った紅茶を飲み、静かに浮かんでくるのは愉快な気分だという微笑み。
だってラウルス・ランドマルクがここに住むようになっただけでも面白いのに、その友達にフロースが心奪われてしまうなんて!
ああ、老後の楽しみが増えてしまったわ。
これより先はアルゲオの言う事を聞いて、出来るだけ介入せずに、高みの見物とさせて頂きましょうね。
【挿話】対岸の火事 完。