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私、自分が世間知らずだって今まで気付いてなかったの。お買い物だって一人で行く事もあったし、ある程度の教養はお父様に習ったから、生きていくのに苦労をしない知識は全て習ったものだと思い込んでいたのよね。
でも、今日市場でイグニスに教えてもらった事は、初めて聞く知識ばかりで驚いたわ。
それにお金の価値についても、考え直したいと思っているの。今度から侍女のお仕事で貰った給料でお化粧品とか買ってみようかしら?騎士の平均的な給金が金貨三枚だから、私の一ヶ月の稼ぎはもっと少ないのでしょうね。
それにしても、普段使っている消耗品の値段も知らない事に気がついてしまったわ。もしかしたら侍女の給金では買えない品を使っているのかもしれないわね。後で家令に聞いてみなくては。
あとイグニスにお礼を言っていなかったので、彼の休み明けに言わなくてはいけないわね。その時こそは素直になって、市場に行ったことが楽しかった旨も伝えようと思っているの。
そんな風に決意をしたのは良かったけれど、当日になって、なかなかイグニスが捕まらなかったのよ。
休憩時間はパライバや他の隊員がいて話せなかったし、お昼前には定例会議に出掛けてしまって、他の部隊の隊長と食事を済ませて来たでしょう?就業後は隊員達を怒鳴りつけながら訓練に向かってしまったし、いつになったら話せるのかしら、と一人で焦っていたのよ。
ようやく見つけ出せたのは日も沈み、星空が広がっている時間帯だったわ。
赤髪に深緑色の制服、右に佩いた剣を持つ後姿はイグニスに間違いない。
一昨日のお礼を、素直に、優しい言葉で、丁寧に。尊大な態度なんて絶対に駄目。彼は正真正銘の騎士で、紳士なのだから私も姫君に相応しい振る舞いで、淑女らしく、しとやかに話しかけるのよ。
…そう、思っていたのだけど。
「ちょっと待ちなさい!」
口から出てきたのは低く、相手を威圧するような言葉だったの。イグニスもこちらの勢いに驚いて後ずさりしているわ。でも、ごめんなさい。ここから逃がす訳にはいかないの。だって一昨日のお礼を言いたいのに日付が経ってしまったら変でしょう?
「そこで止まりなさいッ!!」
じりじりと後ろに下がっていたイグニスの動きが止まり、気まずそうにこちらを見ている。
――お礼を言わなければ。誠意を込めて、感謝の気持ちを伝えなければ。
さっきはうっかり凄味の効いた声が出てしまったので、今度こそ優しい声で言わないと。
「朝市楽しかったわ、ありがとう」「隊長――!! 隊長隊長隊長――!!」
「……」
やっとお礼を口に出来たって思ったら、別の場所から邪魔が入ったのよ。あの隊員は確か親衛隊の中で最年少の…ラウルスの妹と同じ位の年齢よね。名前は、確かレイク・アンダーベルじゃなかったかしら?それにしてもあの子、イグニスの事を友達か何かと勘違いしているように見えるわ。身分を弁えないとは一体どういう事なのかしらね。この部隊の隊員達の中では今に始まったお話では無いけれど。
信じられないことに、イグニスはレイク・アンダーベルとなにやらボソボソ会話をして、私の話はまた明日って言って居なくなってしまったのよ?どういうことなのかしら!?私が先に話しかけたのに。
…でも急なお仕事の話かもしれないわね。だったら私の用事なんて後回しになるわ。当然よね。お仕事だもの。
そんな感じに無理矢理納得をして、その日は帰ったのよ。
◇◇◇
帰ってからはお祖母様がお兄様の代わりにしていた書類関係のお仕事を二時間位で片付けて、一日の決まった流れは終わる。
執事の淹れてくれた紅茶を飲んでいると、家令が今朝頼んでいたものを差し出して来て、不思議そうな顔でこちらを見ていたけれど、何か言う前に部屋から下がらせたの。
そのお願いをしていた書類とは、私が王都に帰ってきてからの支出を全て纏めたもので、渡された一覧には驚くべき金額が書かれていたわ。
【支出状況一覧表】
衣料費・・・金貨二十枚
宝飾費・・・金貨十枚
交際費・・・銅貨五枚、銀貨九枚、金貨五枚
通信費・・・銀貨一枚
交通費・・・金貨一枚
飲食費・・・金貨二枚
雑 費・・・金貨十八枚
「な、何なの、これ……」
執事も居なくなり、一人きりとなった部屋の中で書類を片手に独り言が飛び出してしまったの。だって、一体、何なの?この浪費の数々は。今月の分といっても、ランドマルクから帰ってきてまだ半月も経っていないというのに、こんなに沢山のお金を使っていたなんて。
ドレスや宝石類は私が帰ってくるからとお祖母様が準備をしてくれていたものだけれど、金貨二十枚分以上の品をも頼んでいたなんて知らなかったわ。
それに明日の夕方は、また衣装屋が来ることになっているの。仕事で着ている黒いワンピースとエプロンを作る為に、お祖母様がお願いをしていたみたい。今、王宮で着ているものは、急いで購入をした既製品なのよね。別にサイズが合っていない訳ではないし、必要ないのでは?と思うのだけど。まだ袖を通していないものも衣裳部屋に何着もあるし。
そんな事を思って、明日の採寸は必要無いとお祖母様に言いにいったのよね。でも、かえって怒られるなんて夢にも思っていなかったわ。
「なんですか? いきなり」
「…だから明日の仕着せの採寸は必要ないと」
「どうしてかしら?」
「こ、今月の衣装代の支出を見て、驚いて…」
「ふうん。その紙がそうなの?」
「ええ」
「ちょっと見せてくれる?」
お祖母様に今月の支出が書かれた紙を差し出して、一瞥していたけれど、顔色一つ変えずにそのまま返されてしまったの。
「別に多くもないわ。採寸は予定通り行うように」
「え?」
「…フロース、あなたどうかしたの? いきなりこんな事を気にしだして」
「それは、その……数日前に騎士の平均的なお給金が金貨三枚だと聞いて、私は一ヶ月にどれだけのお金を使っているのか気になって…」
「そんなことはあなたの気にする事ではないのよ」
「……」
「それにね、明日の予定を取りやめたらどれだけの人が困ると思っているの?」
「え?」
私の仕着せを作るのを止めただけで困る人がいる?どういう事なのかしら?
「分からないのかしら? 注文を取りやめたらまず衣装屋が困るでしょう? それから衣装屋と取引をしている布物屋に、その品物を買い付ける商人、布を織る職人に、糸を紡ぐことの出来る家畜を飼う家や、糸が取れる植物を栽培する農家、他にも沢山の人たちの収入が少なくなる事態に陥るのよ」
「……」
「私たち貴族の意味が無いような浪費が下々の者達の生活を支えているの。そういうことはアルゲオから習わなかったの?」
「いいえ、経済は全然」
「そう、ならば仕方がないわね」
「……」
「あなたは公爵家の娘らしく、恥ずかしくないように生きるの。その中に美しく着飾る事も含まれているのよ。だから、それは無駄な浪費ではなく、必要経費と呼んでいいの。解って?」
「……」
お祖母様が教えてくれた事は初めて聞いた話でとても驚いたわ。どうしてお父様は何故教えて下さらなかったのかしら?…きっとお兄様みたいな期待は私にはしていなかったのでしょうね。だって結婚も、王族の勤めも、何もしなくても構わないと言う位ですもの。
「さあ、そんなつまらない考えは金輪際捨てて、ゆっくり休みなさい。あなた、少し疲れた顔をしているわよ?」
「…はい。分かりました、お祖母様」
お祖母様の部屋を出た後も、沈んだ気分が浮かぶ事は無かったわ。
――世間知らずのお嬢様。
それが今の私。
でも、お父様もお祖母様も、私が知ることを望んでいない。でも、そんなの恥ずかしいって思ったわ。だって沢山の人が働いて手にしている物を、私は何の苦労も無しに手に入れることが出来るのを知ってしまったから。
居間に行けばお兄様が一週間という長期のお仕事から帰って来ていて、急ぎの書類に目を通していたわ。丁度近くに家令が居たから、気になっていたことを聞いてみたの。
「ねえ、王宮でのお仕事ってお給金はいくら頂けるのかしら?」
「…フロースお嬢様、どうなさったのですか?」
「いいから答えて!」
「…王宮の侍女の給金については詳しくありませんが、公爵家の侍女の一ヶ月の給金ならば、金貨一枚ほどにございます。おそらく王宮のものと大差はないかと」
「……そう。ありがとう」
やっぱり一ヶ月、頑張って働いたお金では自分の身の回りの品は買えないのね。なんとなく分かっていたけれど、実際に聞けば衝撃を受けてしまうものだわ。
家令はお兄様から書類を受け取ると、部屋から出て行ってしまったわ。お兄様は気まずそうに視線を泳がせていて、落ち着かない様子だったから、つい場を取り繕うようにして弱音を吐いてしまったの。
「お兄様、私ね、世間知らずの箱入り娘だったのよ」
「……」
勿論無口なお兄様の返事は期待していない。慰めの言葉なんて要らない、だからこそ、口下手なお兄様に向かって弱音を吐くの。
「この前ラウルスのお友達の騎士と市場に行ってね、揚げたお菓子を買うのに【アルレア金貨】を差し出して、おつりは要らないって言って、止められてしまったのよ」
たった銅貨一枚のお菓子に対して、金貨三枚分の価値のある金貨を平然と差し出して、イグニスは驚いたでしょうね。あの時の取り乱し方は普通では無かったもの。
「物事を知らないって恥ずかしいことなのね。そんなことにすら、今まで気が付かなかったの」
「……」
「私はこれからどうすれば、何をすべきなのかしら?」
弱音という名のお話はこれでお終い。お兄様は無表情で私の顔を見ていたわ。すっかり冷えてしまった紅茶を一口啜って、今日はもう休もうかと思っていたの。
立ち上がって部屋から出ようとした時、お兄様は一枚の紙を差し出して来たわ。何かと見てみれば、いつの間に書いたのか、とある言葉が書かれていたの。
【己が無知であることを知っている人間は、己が無知であることを知らない人間よりも賢い。真なる知への探求は、まず己が無知であることを知ることから始まる。ーーこれは異世界の哲学者が残したとされる言葉です】
「お兄様…?」
――真なる知への探求は、無知であることを知ることから始まる。
色々なことを知り、無知を自覚して、それは恥じるものでは無く、ここからが知ることへの第一歩だということを伝えたかったのかしら?
渡された言葉を読んで、お兄様に詳しく聞こうと思ったのだけれど、その姿は既に無くなっていたわ。いつ、部屋から出て行ったのかしら。一言声を掛けてくれても良かったのに、どういうつもりなのかしら?
でも紙に書いてくれたことを感謝しなくちゃいけないわね。だってお兄様の声はとっても小さいし、言ったとしても聞き取れなかった可能性があるから。
それにしてもお兄様って本当に残念なお人ね。お仕事は出来るし、武芸の才能もあって、顔もそこそこ整っているし、お金も沢山もっていて、天は二物も三物も与えてくれたのに、対人能力だけは与えてくれなかったのよね。あんな様子で今まで生きてきた事が不思議でならないわ。お兄様みたいな根暗にお嫁さんなんか来る訳がない、それだけは自信を持って言えるの。…同じ独身である私が言えたものでは無いけれど。
それから私がとった行動といえば、イグニスに分からないことがあって聞くかもしれないけれど、嫌がらないで教えてね、というお願いだった。
イグニスもあっさり了承してくれて、嬉しくって微笑みかけたら、何故か怯えるような表情をされてしまったわ。
…何故かしら。私、上手く笑えていなかった?